吉屋信子の句

June 0961998

 金塊のごとくバタあり冷蔵庫

                           吉屋信子

後三年目の夏の句。いまでこそバターはどこの家庭にもあるが、戦中戦後はかなりの貴重品であった。冷蔵庫(電気冷蔵庫ではない)のある家も極めて少なく、それを持っている作者は裕福だったと知れるが、その裕福な人が「金塊」のようだというのだから、バターの貴重度が理解できるだろう。冷蔵庫のなかでひっそりと冷えているバター。それは食べ物ではあるけれど、食べるには惜しい芸術品のようなものですらあった。十歳を過ぎるころまで、私などは純正のバターを見たこともない。作者の吉屋信子は、戦前の少女小説などで一世を風靡した作家。先日、天澤退二郎さんに会ったとき、彼が猛烈なファンだったと聞いた。彼女の少女小説をリアルタイムで読めた年齢は、天澤さんや私の世代が最下限だろう。吉屋信子の俳句開眼は戦時中の鎌倉で、相当に熱心だったらしい。防空頭巾姿で例会に出かけてみたら、警報の最中で誰も来なかったという「たった一人の句会」も体験している。「ホトトギス」雑詠欄巻頭を飾ったこともある。自費出版で句集を出したいという夢を生涯抱きつづけていたが、適わなかった。出たのは没後二年目である。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


July 1471998

 香水や闇の試写室誰やらん

                           吉屋信子

写室は特権的な場だ。一般の人にさきがけて映画を見られるのだから、そこに来るのは映画会社が宣伝のためになると踏んだ人々ばかりである。プロの評論家や新聞記者の他には、おおおむね作者のような有名人に限られている。したがって、そんなに親しい関係ではなくても、試写室に出入りする人たちはお互いほとんど顔見知りだと言ってよい。作者はそんな闇のなかで香水の匂いに気づき、はてこの香水の主は誰だったかしらと考えている。よほど映画がつまらなかったのかもしれない。あるいは逆に映画は面白いのだけれど、香水の匂いが強すぎて腹を立てているとも読める。試写室は狭いので、強い香水はたまらない。馬鹿な派手女めが、という気持ち。いつぞや乗ったタクシーの運転手が言っていた。「煙草もいやだけれど、なんてったって香水が大敵だね。まさかねえ、お嬢さん、風呂に入ってきてから乗ってくださいよとも言えねえしさ」。試写室ではないが、放送局のスタジオでも強い香水は厳禁だ。といって誰が禁じているわけでもないのだが、自然のマナーとして昔からそういうことになっている。『吉屋信子句集』〔1974〕所収。(清水哲男)


August 2981998

 稲妻や将棋盤には桂馬飛ぶ

                           吉屋信子

台将棋。涼みがてら、表で将棋を指している。作者は観戦しているのだろう。なかなか白熱した戦いだ。と、遠くの空に雷光が走り、同時に盤上では勢いよく桂馬が飛んだ。「さあ、勝負」と気合いの入ったところだ。見ている側にも力が入る。風雲急を告げるの図。将棋の駒の動かし方を知らないとわからない句だが、目のつけどころが芝居がかっていて面白い。吉屋信子の大衆小説家としての目が生きた句だ。俳句のプロだと、ちょっと気恥ずかしくて、ここまでは表現できないのではないだろうか。素人の勝利である。こういうことは、時々起きる。ヘボながら、私も将棋好きだ。小学生の頃から、村の若い衆と指していた。学校の遊び時間でも、指した記憶がある。他に娯楽がなかったせいで、私の世代はみな駒の動かし方くらいは知っているのだ。だから「坂田三吉端歩(はしふ)を突いた、銀が泣いてる……」という歌も好きなのであり、「桂馬の高飛び歩の餌食」という一種の箴言をいまだに使ったりする。使おうとして「待てよ、いまの若者に通用するかな」などと、ふとためらったりもする。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


September 2191998

 夕刊を読む秋の灯をともしけり

                           吉屋信子

の日暮れは早い。夏の間は夕刊も自然光で読めたのに、秋も深まってくると灯をともす必要が出てくる。なんということもない句だが、このなんともなさが秋の夕暮れのしみじみとした情趣をよく伝えている。作者は小説家だったから、夕刊で真っ先に読むのは連載小説だったろうか。それとも同業者の書くものなどはハナから無視して、三面記事から読みはじめたのだろうか。そんなことを空想するのも楽しい。この句は、俳句的には吉屋信子最後の作品である。1972年に、77歳で亡くなる三カ月ほど前に詠まれている。句の観賞にこの事実を知る必要はないのだけれど、知ってしまうと、句のよさが一段と心にしみてくるのは人情というものだろう。ちかごろの夕刊は余計なお世話みたいな記事が多くてつまらないが、当時はまだまだ硬派で、記事を読み解く面白さがあった。作者ならずとも、配達を待ちかねて秋の灯をともした読者は多かったはずである。昔はよかった。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


November 14112000

 おでんやがよく出るテレビドラマかな

                           吉屋信子

らぶれた男がひとり静かに飲んでいたり、失恋した女が「元気だしなよ」と慰められていたり……。たしかに「おでんや」は、人生の哀感をさりげなく演出するには恰好の舞台だ。テレビドラマにとっては、俳句の季語のように便利に雰囲気を出せる場所なのだ。しかし、だからといって、お手軽な出しすぎはわずらわしいと作者は鼻白んでいる。さすがは、ドラマ作りに明け暮れている小説家である。目のつけ所が違う。自分だったら、ここで「おでんや」は出さないのになどと、いちいちそういうふうにテレビを見てしまうのだ。なんだか気の毒にも思えてくる視聴者だけれど、誰であれ職業で培った目は、ちょっと外しておくというわけにもいかない。刑事物を見る本物の刑事や、看護婦物を見る本物の看護婦なども、いろいろと気になって仕方がないでしょうね。かくいう私も、編集者物を見かけると、現実とのあまりの違いに笑いだしたくなってくる。本物の「おでんや」の大将だって、掲句のようなドラマを見たら、作者以上に鼻白むはずだ。大人が見るに耐えるテレビドラマが少ないのは、このあたりにも一因があるのだろう。季語の「おでん」をまぜておけば、一応は俳句らしくはなるのだけれど、鼻白む読者が多かったりする「俳句」と同じことである。ちなみに、作句は1960年(昭和35年)の三月。まだ、テレビのある家庭は少なかった。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


June 2762007

 夏帯にほのかな浮気心かな

                           吉屋信子

帯は「一重帯」とも「単帯(ひとえおび)」とも呼ばれる。涼しい絽や紗で織られており、一重の博多織をもさす。夏帯をきりっと締めて、これからどこへ出かけるのだろうか。もちろん、あやしい動機があって出かけるわけではない。ちょっとよそ行きに装えば、高い心の持ち主ならばこそ、ふと「ほのかな女ごころ」が芽ばえ、「浮気心」もちらりとよぎったりする、そんな瞬間があっても不思議ではない。この場合の「浮気心」にも「夏帯」にもスキがなく、高い心が感じられて軽々には近寄りがたい。「白露や死んでゆく日も帯締めて」(鷹女)――これぞ女性の偽らざる本性というものであろう。この執着というか宿命のようなものは、男性にはついに実感できない世界である。こういう句を男がとりあげて云々すること自体危険なことなのかもしれない、とさえ思われてくる。女性の微妙な気持ちを、女性の細やかな感性によって「ほのか」ととらえてみせた。「夏帯やわが娘きびしく育てつつ」(汀女)という句の時間的延長上に成立してくる句境とも言える。桂信子のよく知られる名句「ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜」などにも「夏帯」という言葉こそ遣われていないが、きりっと締められている夏帯がありありと見えていて艶かしい。女流作家・吉屋信子は戦時中に俳句に親しみ、「鶴」「寒雷」などに投句し、「ホトトギス」にも加わった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 02122009

 東海道松の並木に懸大根

                           吉屋信子

海道の松並木と懸大根の取り合わせがみごとである。しかもワイドスクリーンになっている。「懸大根」とは「大根干す」の傍題であり、たくあん漬にするための大根を、並木に渡した竹竿か何かにずらりと干している図である。東海道のどこかで目にした、おそらく実景だろうと思われる。たくさん干されている大根の彼方には、冠雪の富士山がくっきり見えているのかもしれない。私は十年ほど前、別の土地でそれに似た光景に出くわしたことがある。弘前から龍飛岬へ行く途中、津軽線の蓬田あたりの車窓からの眺めだったと思う。海岸沿いに白い烏賊ならぬ真っ白い懸大根が、ずらりと視界をさえぎっていた。場所柄、魚を干しているならばともかく、海岸と大根の取り合わせに場違いで奇妙な印象をもった。もちろん、漁村でたくあん漬を作っても何の不思議もないわけだが……。さて、東海道の松並木というと、私などは清水次郎長一家がそろって、旅支度で松の並木を急ぐという、映画のカッコいいワンシーンを思い出してしまう。信子の大根への着眼には畏れ入りました。立派な東海道の絵というよりも、土地に対する親近感というか濃い生活感を読みとることができる。信子の冬の句に「寒紅や二夫にまみえて子をなさず」「寒釣や世に背きたる背を向けて」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1182010

 秋風や拭き細りたる格子窓

                           吉屋信子

年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1172012

 紙コップとぶ涼しさや舟遊び

                           吉屋信子

火、お祭り、ナイター、夜釣り……納涼のための楽しみや遊びはいろいろある。なかでも、川であれ、海であれ、舟を出しての舟遊びは格別である。しばし世間のしがらみとは断ち切られた、一種独特の愉楽を伴っている。気の合う連中でワイワイと酒肴を楽しみながら、時間がたつのも忘れてしまう。ビールや冷酒をついだ紙コップが、客のあいだをせわしなく飛びかっている。しかし、時代とともに「舟遊び」などという結構な心のゆとりは、次第に失われつつあるようだ。掲句の軽快さは舟遊びの軽快さでもあろう。その昔のお大尽たちは昼頃から舟を出し、歌舞音曲入りで暁にまで及んだものだという。もう十数年前、浅草の吾妻橋のたもとから乗合いの屋形舟で隅田川をくだり、幇間の悠玄亭玉介のエッチなお座敷芸を楽しみながら、お台場あたりまで往復するひとときを満喫したことがあって、忘れられない。屋形舟で友人の詩集出版記念会を企画実施したこともあった。春は桜、夏は納涼、秋は月、冬は雪、と四季の贅沢が楽しめる。護岸と野暮なビル群のせいで、もはや風情はないけれど。信子は「灰皿も硝子にかへて衣更へ」など多くの俳句を残した。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2562014

 金魚売買へずに囲む子に優し

                           吉屋信子

秤棒をかついで盥の金魚を売りあるくという、夏の風物詩は今やもう見られないのではないか。もっとも、夏の何かのイベントとしてあり得るくらいかもしれない。露店での金魚すくいも激減した。ネットで金魚が買える時代になったのだもの。商人(あきんど)が唐茄子や魚介や納豆や風鈴をのどかに売りあるいた時代を、今さら懐かしんでも仕方があるまい。小遣いを持っていないか、足りない子も、「キンギョエー、キーンギョ」という売り声に思わず走り寄って行く。欲しいのだけれど、「ください」と言い出せないでいるそんな子に対して、愛想のいい笑顔を向けている年輩の金魚売りのおじさん。「そうかい、いいよ、一匹だけあげよう」、そんな光景が想像できる。金魚にかぎらず、子どもを相手にする商人には、そうした気持ちをもった人もいた。いや、そういう時代だった。掲句には、女性ならではのやさしい細やかな作者の心が感じられる。信子には多くの俳句がある。「絵襖の古りしに西日止めにけり」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


January 1312016

 初暦知らぬ月日の美しく

                           吉屋信子

が改まると同時に、どこの家でもいっせいに替わるのが暦(カレンダー)である。真新しくて色彩やスタイルがさまざまな暦が、この一年の展開をまだ知らない人々の心に、新しい期待の風を吹きこんでくれる。心地よい風、厳しい風、いろいろであろう。この先、どんな日々が個人や世のなかにまき起こすことになるのか、まだ予想もつかない。せめて先々の月日は「美しく」あってほしいと誰もが願う。何十年と齢を重ねてくると、だいたいあまり過剰な期待はもたなくなってくる。悲しいことに、その多くが裏切られてきたから。ことに昨今の国内外の穏やかならぬ想定外の事件や事故の数々。わが身のこととて先が読めない。いつ何が起こっても不思議はない。せめて「知らぬ月日」は「美しく」と切望しておきたい。加藤楸邨の句ではないが、まさに「子に来るもの我にもう来ず初暦」である。『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます