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May 2551998

 香水やまぬがれがたく老けたまひ

                           後藤夜半

水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


July 1471998

 香水や闇の試写室誰やらん

                           吉屋信子

写室は特権的な場だ。一般の人にさきがけて映画を見られるのだから、そこに来るのは映画会社が宣伝のためになると踏んだ人々ばかりである。プロの評論家や新聞記者の他には、おおおむね作者のような有名人に限られている。したがって、そんなに親しい関係ではなくても、試写室に出入りする人たちはお互いほとんど顔見知りだと言ってよい。作者はそんな闇のなかで香水の匂いに気づき、はてこの香水の主は誰だったかしらと考えている。よほど映画がつまらなかったのかもしれない。あるいは逆に映画は面白いのだけれど、香水の匂いが強すぎて腹を立てているとも読める。試写室は狭いので、強い香水はたまらない。馬鹿な派手女めが、という気持ち。いつぞや乗ったタクシーの運転手が言っていた。「煙草もいやだけれど、なんてったって香水が大敵だね。まさかねえ、お嬢さん、風呂に入ってきてから乗ってくださいよとも言えねえしさ」。試写室ではないが、放送局のスタジオでも強い香水は厳禁だ。といって誰が禁じているわけでもないのだが、自然のマナーとして昔からそういうことになっている。『吉屋信子句集』〔1974〕所収。(清水哲男)


August 0782001

 少女期やラムネの瓶に舌吸はれ

                           高倉亜矢子

学校高学年か、中学校低学年くらいの少女を連想した。ちょっと悪戯っぽい感じの女の子だ。ラムネを飲むのにもいささか飽きてきて、玉を舌先で触って遊んでいるうちに、何かの拍子でひゅっと「吸はれ」てしまった。それだけのことでしかないが、それだけのことだから「少女期」を象徴する出来事として受け止められるのだ。私の観察するところでは、少年に比べると、案外に少女はおっちょこちょいである。無鉄砲は少年の属性のようなものだが、それとは違い、少女は少年には考えられないようなアクシデントに見舞われたりする。本質的に、おおらかなのかもしれない。少年だったら、まずこんなドジは踏まないだろう。句は、そのあたりのことを言っている。ただ昔の少年として気になったのは、実際にこういうことが起きるという理屈がわからないところだ。ラムネ瓶のなかでは飲料水の発するガス圧が玉を押し上げる仕掛けだから、この場合はほとんど飲んでしまった後で、逆に瓶の中が外気圧に押されていた故に「吸はれ」てしまったのだろうか。……というふうに、とかく少年(男)は理屈っぽい。理屈っぽくない少女だった作者としては、「だって、ホントにそうなっちゃったんだもん」と答えるのだろうな。作者は1971年生まれ。なかなかに良いセンス。「香水に水の匂ひのありにけり」。この句も素敵だ。期待したい。「俳句」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


May 3052002

 香水や優柔不断盾として

                           佐藤博美

語は「香水」で夏。身だしなみを整え、これから外出するところ。でも、心弾む外出ではない。先方では難題が待ち受けていて、何らかの態度を決めなければならないのだ。どう応接すべきか。いくら思案しても、どうしたらよいのか結論が出ない。決めかねたままに、外出の時間が迫ってきた。で、仕上げの香をしのばせながら思い決めたのが「優柔不断」……。今日のところはこれを「盾(たて)」として、結論をもう少し先延ばしにするしかないだろう、と。男であれば、さしずめネクタイを締めながら心を決める場面だ。言われてみれば、優柔不断もたしかに堅牢な盾となる。香水の句で有名なのは、中村草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」だ。この「鉄壁」の本質が、実は女性の優柔不断だったらどうだろうと思うと、草田男の生真面目さに切なさと可笑しさが同時にこみあげてくる。ところで、この句を読んであらためて気がついたのは、私は外出寸前に態度を決めることが多いということだった。難題に対してばかりではなく、気ままな遊びでのコース選びについても同様だ。目的地までのバスや電車のなかでは、なかなか考えがまとまらない。というよりも、ほとんど思考停止の状態になってしまう。変更する時間の余裕はたっぷりあっても、結局は家で決めた通りの道筋をたどることになる。すなわち、家から持ちだした盾を後生大事に抱えてしか歩けないというわけだ。なんでしょうかねえ、これって。『私』(1997)所収。(清水哲男)


June 1462008

 もの言はず香水賣子手を棚に

                           池内友次郎

田男に、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける〉の句がある。ドレスアップして汗ひとつかいていない美人。まとった香水の強い香りが、彼女をさらに近寄りがたい存在にしているのだろうか。昨今は、汗の匂いの気になる夏でも、そこまで強い香水の香りに遭遇することはほとんどないが、すれ違いざまに惹かれた香りの記憶がずっと残っていたりすることはある。この句は昭和十二年作、「銀座高島屋の中を歩き回った」時詠んだと自注がある。その頃の売り子、デパートガールは、今にも増して女性の人気職業だったというから、まだ二十代の友次郎、商品よりもデパートガールについ目が行きがちであったことだろう。客が香水の名前を告げると、黙って棚のその商品に手を伸ばす彼女。どこに何が置いてあるか熟知しており、迷う様子はない。友次郎は、彼女のきりっとした横顔に見惚れていたのかもしれない。そして、後ろにある棚に伸ばした二の腕の白さに、振り向きざまに見えた少しつんとした表情に、冷房とはまた違った涼しさを感じたのだろう。香水そのものを詠んでいるわけではないけれど、棚に手を伸ばすのは、やはり香水売り子がぴたっとくる。『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


June 0562009

 香水や腋も隠さぬをんなの世

                           石川桂郎

本家の馬場當さんが言った。「今井君えらい世の中になったよ」近所の夫婦の夫婦喧嘩の仲裁をしたときのことらしい。妻の浮気を疑っている夫を妻は鼻でせせら笑った。「まったくうるさいわねえ。浮気してたらどうだって言うのよ。減るもんじゃあるまいし」君ねえ、女の方が「減るもんじゃあるまいし」って言うんだ。世の中も変わったねえ。馬場さんが感慨ぶかげに言ったのが5年前。この前会ったときも女性論議。「今、女が運転しながら咥え煙草は当たり前だもんな。今井君もう少し経つと女が立小便するようになるよ」立小便はともかくも男女関係のどろどろの修羅場を得意とする馬場さんらしい慨嘆だとは思った。まあ、男はとかく女に自分の理想を押し付けたがる。そこの虚実にドラマも生まれる。腋を隠さぬくらいで男が驚いたのは昭和29年の作。ここから確かに虚実の実の方の範囲は拡大した。「らしさ」という虚の方もまた時代に沿って姿を変えている。「減るもんじゃなし」を桂郎さんに聞かせたらたまげるだろうな。『現代俳句大系第十一巻』(1972)所収。(今井 聖)


June 1362010

 香水の一滴づつにかくも減る

                           山口波津女

語は香水、夏です。香水壜の形や色の美しさはむしろ、秋の落ち着いた雰囲気につながるものがありますが、汗をかく季節に活躍するものということで、夏の季語になったのでしょう。それにしても、海外旅行の土産に、どうしてあんなに香水が幅を利かせているのだろうと思ったことがあります。考えてみればわたしなど、空港の免税店だけでしか香水と遭遇する機会はありません。もちろん使ったことなどありません。それでも、句の意味するところは感じ取ることができます。これまで、かすかな一滴づつしか使ってきていないのに、気がつけば壜の中はずいぶん減っています。自然に蒸発したわけでもなく、ほかの家族が無断で使った様子もないのであれば、この減りは間違いなく、ホンの一滴の集まりであるのだなと納得し、驚いてもいるわけです。読者は当然のことに、この一滴を、「時の推移」そのものに置き換えようとします。過ぎ去った日々を思うときに、もうこれほど月日は経ってしまったのかと、自分の年齢にあらためて驚いてしまう。そんな感情とつながっています。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)


August 0282016

 香水に思い出す人なくもなし

                           清水哲男

俳満了まであと6日。今日が最後の火曜日です。読者であった10年と、書き手となった10年の思い出が錯綜します。パソコンにはショートカットキーなるものがあります。ことによく使われているのがundo(アンドゥ)と呼ばれる復活のコマンドです。左隅のCtrlキー(macだとコマンドキー)を押しながらZを押すと、ひとつ前の動作に戻ります。これを覚えておくと、うっかり消してしまった画面や、誤った選択をしたとき元に戻ることができるのです。人生にはたびたびこの復活のコマンドが使えたらどんなによいかと思う瞬間が訪れます。掲句で思い出される人とは、遠い過去の知り合いでしょう。香りの記憶はさまざまな思い出を引き連れて、やや強引に迫ってきます。下5の言い回しは作者特有の恥じらいと、すべて思い出すことへのためらいを感じさせます。作者はふっと横切る香りのなかで、復活のコマンドを使うことなく、おそらく固有名詞さえ思い出すことを封じて「なくもなし」と完結します。清水さんの俳句作品には〈四股踏んで雀の学校二学期へ〉〈だるまさんがころんだ春もやってきた〉のような相好が崩れる愛らしいものと、掲句や〈釣忍指輪はずして女住む〉〈糸の月人に生まれて糸切り歯〉のような臈長けた色香が混在することも特徴です。ときに甘やかに、ときにクールに、絶妙な匙加減で読者を楽しませてくれるのです。『打つや太鼓』(2003)所収。(土肥あき子)




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