川崎展宏の句

May 1651998

 二人してしづかに泉にごしけり

                           川崎展宏

かな山の辺。ふと見つけた小さな泉の清冽さに魅かれて、手を浸してみたというところか。連れも誘われるようにして、手を漬けている。二人の手が水中で動くたびに、水底の細かい沙粒がゆるやかに舞い上がり、ほんの少しだけ泉は濁る。児戯に類した行為だが、しかし、二人はしばし水中の手を動かしつづけている。ところで、この連れは女性だろうか。ならば、なかなかに色っぽい。……などとすぐに気をまわすのは下衆のかんぐりというもので、作者はそういうことを言おうとしているのではあるまい。この何ほどのこともない戯れを通じて、自然を媒介にした共通の生命感を分け合っている束の間の喜びが、句の主眼であるからだ。このとき、二人の心は目の前の泉さながらに清冽に澄み、濁り、そして通い合っている。理屈抜きによい句だが、理屈を述べればそういうことだと思う。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


June 2461998

 蜜豆は豪華に豆の数少な

                           川崎展宏

党ではないのに、無性に蜜豆を食べたくなるときがある。寒天の口当たりが好きなのと、なんだか色々とゴチャゴチャ入っている様子が目に楽しいからである。蜜豆の豆は茹でた豌豆(えんどう)。ネーミングからすると豆が主役みたいだが、豆単体では美味とは言えず、要するに何が主役なのかわからない食べ物である。したがって「豪華に少ない」という形容矛盾は、蜜豆に限っては矛盾しないというわけだ。豆が少なく感じられるほどに、色とりどりの脇役(?)がどっさり入っている楽しさ。なるほど「豪華に少ない」としか言いようがない。作者の新発見である。つまり、詩である。蜜豆の句で有名なのは、山口青邨の「蜜豆の寒天の稜の涼しさよ」だ。なるほどと私も思うが、この人、そんなに蜜豆が好きではないような気がする。食べたいという気持ちよりも前に、よい句にしたいという気取りが透けて見えている。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


August 2881998

 朝顔や役者の家はまだ覚めず

                           川崎展宏

者の仕事はどうしても夜が遅くなるので、起きるのも遅い。せっかく立派に朝顔を咲かせているというのに、家の人々は見ることもなく寝ているのである。しかし、この光景に「ああ、もったいない」と、作者が嘆じているわけではない。それよりも、こうやって季節の花をきちんと咲かせている役者その人の人となりに、いささか感じ入っているのだ。好感を抱き、微笑している。どんな家にも、その家ならではの表情がある。その家のたたずまいを見るだけで、住んでいる人の生活ぶりや人柄が、ある程度はわかってしまう。ましてや役者ともなれば人気商売だから、たとえ自分が見ることもない朝顔であろうとも、きちんと他人に見せる必要があるわけだ。自分は寝ていても、演技演出は片時も忘れるわけにはまいらないのである。その点、表情を持たないマンションの暮らしは楽だ。言葉を変えれば味気ない。役者やタレントが好んで豪華マンションに住みたがるのも、住む場所にまで演技演出を考えなくてもよいからだろう。「豪華」という演技演出さえあれば、あとのことに神経を使わずにグーグー眠れるからである。好意的に考えれば、そういうことだ。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


December 07121998

 金網にボールがはまり冬紅葉

                           川崎展宏

ニスのボールかもしれないが、この場合は野球のボールのほうが面白い。もちろん、草野球だ。軟式のボールは、ときにキャッチャー・マスクにはまってしまうほど変形しやすいのである。折しも金網を直撃したボールが、そのまま落ちてこなくなった。追いかけた野手が、茫然と金網を見上げている。そのうちに、他のメンバーも一人、二人と寄ってくる。相手方の何人かも駆け寄ってきて、ついには審判も含めた全員が金網を見上げるという事態になる。手をかけてゆさぶってみるのだが、はまり込んだボールは一向に落ちてきそうもない。なかには、グラブをぶつける奴もいる。しばらく、ゲームは中断である。と、それまで試合に熱中していて気がつかなかったのだが、場外のあちこちには、まだ美しく紅葉した木々の葉が残っているという情景。にわかに、初冬のひんやりした大気が、ほてった身体に染み込んでくるようである。そして、ナインはそれぞれに、もう野球ができなくなる季節の訪れが近いことを感じるのでもある。このボールは、落ちてきたのだろうか。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


April 2441999

 子雀のへの字の口や飛去れり

                           川崎展宏

だ嘴(くちばし)の黄色い雀の子が、庭先にやってきた。可愛らしいなと、よくよく顔を見てみると、口をへの字に結んでいる。もちろんそんなふうに見えただけなのだが、チビ助のくせに早くも大人のような不機嫌な顔の様子に、作者はちょっと意表を突かれた感じだ。と、もう一度よく見ようと目をこらす間もなく、怒った顔つきのまま、ぷいと子雀は飛び去ってしまった。それだけの観察だが、読者に、この束の間の観察がかえって強い印象を与えることになる。子雀にかぎらず生物の子はみな可愛いけれど、チビ助の不機嫌を可愛らしさとつなげた句は珍しいと思う。しかし、考えてみれば、こうした感覚はごく日常的なものだ。人間のチビ助だって、口をとんがらせていると、余計に可愛くなるというような感情はしばしば湧く。だから、この句は誰にでもわかる。このように、俳句では、その短さ故に「平凡」と「非凡」は紙一重のところがある。その意味で、この句は実作上の大切なヒントを含んでいる。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


June 0661999

 衣紋竹片側さがる宿酔

                           川崎展宏

飲みならば、膝を打つ句。ただし、現在ただいま宿酔(二日酔い)中の人が読むと、ますます気分の悪くなる句だ。衣紋竹(えもんだけ)は竹製のハンガーで、昔はどの家にも吊るされていた。涼しげなので夏の季語としてきたが、今では収録していない歳時記もある。現物が、ほとんど見られなくなったからだろう。深酒から目覚めて、ずきずきする頭のまま室内を見るともなく見回していると、傾いた衣紋竹に目が留まった。乱雑に、半分ずり落ちそうに、自分の衣服が掛けてある。そこに昨夜の狼藉ぶりが印されているようで、作者は後悔の念にとらわれているのだ。あんなに調子に乗って飲むんじゃなかった、そんなに楽しくもなかったのに……。もとより、私にも何度も覚えがある。ところで、二日酔いを何故「宿酔」と表現するのだろうか。「宿」の第一義は「泊る」であり、「泊る」とはずうっとそこに留まることだ。そこで、二日酔いは前日の酔いが留まっていることから「宿酔」。つまり、自分の身体が酒の宿屋状態になっている(笑、いや苦笑)わけだ。「宿題」や「宿敵」の「宿」と同じ用法である。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


August 2381999

 万屋に秋は来にけり棒束子

                           川崎展宏

然の様相の変化に移りゆく季節を感じるように、人工的な商店のしつらいからも、私たちはそれを感じる。洋品店のウィンドウなどが典型だろうが、昨今の反応は素早すぎて味気ない。万屋(よろずや)は生活雑貨全般を商う店で、かつてはどんな小さな村にも一軒はあった。洋品店とは逆に地味な動きしか見せないけれど、新しい季節のための商品が、やはり店先など目立つところに並べられる。この場合は、束子に長い柄をつけた棒束子(ぼうたわし)だ。四角四面に言うと季節商品ではないが、直接冷たい水に触れることなく掃除ができるという意味では、秋から冬にかけての需要が多いのだろう。店の入り口に立て掛けてある何本かの棒束子。昨日通りかかったときには、なかったはずだ。暑い暑いと言っているうちに、もう秋なのである。客がいないかぎり、万屋に店番はいない。そこで、表から大きな声で挨拶してから店に入る。万屋以外の店に入るのにも、必ず挨拶してから入った。現代では、無言のままにぬうっと入店する。時代も移ろいつつ進んでゆく。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


April 2542000

 桃咲いて五右衛門風呂の湯気濛々

                           川崎展宏

かい夕刻のまだ明るい時間。作者は、宿泊先の民家で一番風呂のご馳走にあずかっている。五右衛門風呂はたいてい、母屋から少し離れた小屋に据えられているので、窓を開けると山や畑地がよく見える。眺めると点在する桃の花は満開であり、濛々たる湯気のむこうに霞んでいる。まさに春爛漫のなかでの大贅沢、天下を取ったような心持ちだろう。五右衛門風呂は鉄釜で湯をわかす素朴な仕組みの風呂で、名前は石川五右衛門がこれで釜ゆでの刑に処せられたという俗説に基づく。入浴時には水面に浮かべてある底板(料理で言えば落とし蓋みたいな感じの板)を踏んで下に沈めて入るのだが、これが慣れないと難しい。踏み外すと、大火傷をしかねない。弥次喜多道中で二人とも入り方がわからず、仕方がないので下駄を履いて入ったという話は有名だ。すなわち、江戸には五右衛門風呂がなかったとみえる。西の方で普及していた風呂釜のようだ。私が育った戦後の山口県の田舎でも、ほとんどの家が五右衛門風呂で、三十年ほど前までは現役だったけれど、さすがに今ではみなリタイアさせられてしまっただろう。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


June 1562000

 京の雨午前に止みぬ金魚鉢

                           川崎展宏

行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)


December 17122000

 炭の塵きらきら上がる炭を挽く

                           川崎展宏

く晴れた日。のこぎりで炭を挽いている。「塵(ちり)」が「きらきら」と舞い上がっている。挽く音までが聞こえてくるようだし、炭の匂いも漂ってくるようだ。言いえて妙。ただ一般論になるが、この光景を美しいと思うかどうかは、読者の立場によるだろう。夏場に氷を配達する人が、道端で氷を挽いているのと同じこと。通りかかった人には、とても涼しげな情景に写るのだけれど、挽いている当人にしてみれば、それどころではない。とてもじゃないが「やってらんねえ」のである。他意はないけれど、労働の現場を詠んだ句には、傍観者の立場からのそれが多い。それはそれでよいとして、詠まれる側からすると、もう少し何とかならないのかなと歯がゆい思いが残ることもある。いつもながらの思い出話になるが、昔の我が家でも炭を焼いていた。自給自足ゆえの、やむを得ぬ所業だった。子供でも、炭を挽いて炭俵につめることくらいはできる。「塵」を浴びながら挽いていると、身体中がこそばゆくなり、もちろん手や顔などは真っ黒になってしまう。べつに苦しい仕事ではないのだが、炭の粉を吸いすぎた胸は、妙に息苦しい感じになった。そんな体験のある子供や大人が、この句を読む。もちろん、感想はまちまちだろう。その「まちまち」のなかで、一点共通するのは、作者が炭を挽く現場の人ではないなという「直感」だ。それはそれで作者には関わり知らぬことながら、働く現場を詠むのが難しいのは、確かなことである。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


January 2012001

 嚢中に角ばる字引旅はじめ

                           上田五千石

中(のうちゅう)の「嚢」は、氷嚢(ひょうのう)などのそれと同じ「嚢」。袋、物入れの意。この場合は、スーツケースというほどのものではなく、小振りで柔らかい布製のバッグだろう。旅先で必要なちょっとした着替えの類いのなかに「字引」を一冊入れたわけだが、これがまことに「角ばる」ので収まりが悪い。「字引」とあるが、歳時記かもしれない。「歳時記は秋を入れたり旅かばん」(川崎展宏)。こういう句を読むと、あらためて「俳人だなあ」と思う。俳人は、その場その場で作品を完成させていく。旅先では句会もあるし、いつも「字引」が必要になる。帰宅してから参照すればよいなどと、呑気に構えてはいられない。だから「角ばる字引」の収まりが悪い感覚は、俳人の日常感覚と言ってよいだろう。多く俳人は、また旅の人なのだ。その感覚が年末年始の休暇を経た初旅で、ひさしぶりによみがえってきた。さあ、また新しい一年がはじまるぞ。「角ばる字引」のせいで少しゆがんだバッグを、たとえば汽車の網棚に乗せながら得た発想かと読んだ。私は俳人ではないから、いや単なる無精者だから、旅に本を携帯する習慣は持たない。たまに止むを得ず持っていくときには、収まりは悪いは重いはで、それだけで機嫌がよろしくなくなる。何か読みたければ、駅か旅先で買う。そして、旅の終わりの日には処分する。めったに持ち帰ったことはない。そうやって、いちばんたくさん読んだのが松本清張シリーズである。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


May 1052001

 大南風黒羊羹を吹きわたる

                           川崎展宏

語は「南風(みなみ)」。元来は船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風(おおみなみ)」と言う。旅先だろうか。作者は見晴らしのよい室内にいて、お茶をいただいている。茶請けには「黒羊羹(くろようかん)」が添えられている。外では猛烈な南風がふきまくり、木々はゆさゆさと揺れざわめいている。近似の体験は誰にもあるだろうし日常的なものだが、それを「黒羊羹」を中心に据えて詠んだワザが、情景をぐんと引き立たせ異彩にした。実際にはどうか知らないけれど、黒い羊羹は素材の密度がぎっしりと詰まっているように見える。人間で言えば沈着にして冷静、どっしりとしている。その感じをいわば盤石と捉え、激しくゆさぶられている周辺の木々と対比させながら、「大南風」の吹く壮観を詠み上げた句だ。動くものは動かぬものとの対比において、より動きが強調される。この場合の動かぬものとは、しかし目の前のちつぽけな羊羹なので、多分に作者のいたずら心も感じられ、激しい風の「吹きわたる」壮観を言ってはいながら、全体としては陽性な句だ。秋の台風だったら、こうはいかない。やはり夏ならではの感じ方になっている。以下、蛇足。羊羹でもカステラでも、あるいは食パンでも、私は端(耳)の部分が好きだ。貧乏性なのだろうか。存外、こういう人は多いようだ。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


July 0772001

 牽牛織女文字間違へてそよぎをり

                           川崎展宏

京あたりでは、七夕を陽暦で行う。梅雨のさなかで「牽牛織女」もあったものではないが、明治の陽暦採用時に、せめて東京人だけでもと新暦に義理を立てた名残りだろうか。季語としては秋に分類されている。ところで、掲句は皮肉を詠んでいるのではない。短冊の誤字にもまた、風情があってよろしい。「一所懸命書いたんだろうになあ」と、作者は微笑している。短冊の文字の句で有名なのは、石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」だが、療養所での七夕祭ゆえに「惜命」の二文字が胸に突き刺さるようだ。さて、たまたま掲げた二句ともに文字にこだわっているけれど、これはたまたまの暗合ではなく必然性がある。七夕の由来は複雑でここに書ききれないが、行事的な一つの意味は文字や裁縫の上達を願うところにあった。私が小学校で習った七夕も、この意味合いが強かった。早朝に里芋の葉にたまった露を集めて登校し、その水で墨をすって文字を書いたので、よく覚えている。書く文字もそれこそ「牽牛織女」であり「天の川」であり、小さい子は「おほしさま」だつた。いまのように願い事は書かなかった。もっとも書けと言われても、敗戦後の混乱期だったから、願いを思いついたかどうか。せいぜいが「白い飯を腹いっぱい食いたい」などと、そんなところだったろう。『蔦の葉』(1973)所収。(清水哲男)


October 02102001

 冬瓜を提げて五条の橋の上

                           川崎展宏

語は「冬瓜(とうがん)」で秋。秋に熟すのに何故「冬の瓜」と言うのか。冬期までよく品質を保つことかららしいが、ややこしいネーミングだ。昔の我が家でも栽培していたが、南瓜や西瓜とは違い、もっとでっかいのだけれど、のっぺらぼうで頼りない感じがした。味もまた頼りなく、全体的にヌーボーとした感じの瓜である。さて「五条の橋の上」というと、もちろん伝説的な牛若丸と弁慶の出会いの場である。弁慶は長い薙刀(なぎなた)を持ってこの橋で待ちかまえ、牛若丸は笛を奏でながら通りかかるという寸法だった。そんな伝説を頭にして、作者は橋を渡っている。弁慶か牛若丸の気分だったかもしれない。と、向こうからやってきたのは、なんと大きな「冬瓜」を、重そうによたよたと提げた人だった。これでは、弁慶も牛若丸もあったものじゃない。そんな拍子抜けの気分を、巧みに捉えたユーモラスな句だ。何を隠そう(と気張ることもないけれど)、私が京都の大学に入ることになって、真っ先に見に行ったのが「五条の橋」だった。やはり伝説の現場が見たかったのだが、何のことはない普通の橋でしかなく、がっかりした記憶がある。もちろん橋の位置が、秀吉によって牛若丸の時代より下流にずらされたことなども、露知らなかった。大昔の五条通は、現在の松原通であるという。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


June 2162002

 自転車の少女把手より胡瓜立て

                           川崎展宏

語は「胡瓜(きゅうり)」で夏。「杭州五句」のうち、つまり中国旅行でのスケッチ句だ。自転車を走らせている少女が、片手に「把手(はしゅ)」(ハンドルの握り手)といっしょに胡瓜を一本「立て」て握っていた。噛りながら、走っているのだろう。ただそれだけのことながら、さっそうとして元気な異国の女の子の姿が浮かんでくる。句に、清々しい風が吹いている。そのまんま句の典型だけれど、よく撮れているスナップ写真と同じで、対象にピントがちゃんと合っているのだ。そのまんま句の難しさは、このピント合わせにある。ただ闇雲にそのまんまを詠んでも、ごたごたするばかり。失礼ながら、多くの旅行(とくに海外旅行)句のつまらなさは、季節感や生活感の違いなどということよりも、このごたごたに原因がある。あれもこれもと目移りがして、ピントがぼけてしまうのだ。詰め込みすぎるのである。人情としてはわかるけれど、句としてはわからなくなる。掲句のように、一見、なあんだと思われるくらいに焦点を絞り込むことが肝要だろう。偉そうに書いているが、たまに旅先で詠んだ拙作を読み返してみると、やはりほとんどが哀れにもごたついている。すなわち本日は、まっさきに自戒をこめての物言いなのでした。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


March 1932003

 揚雲雀二本松少年隊ありき

                           川崎展宏

語は「揚雲雀(あげひばり)」で春。鳴きながら、雲雀がどこまでも真っすぐに上がっていく。のどかな雰囲気のなかで、作者はかつてこの地(現在の福島県二本松市)に戦争(戊辰戦争)があり、子どもたちまでもが戦って死んだ史実を思っている。この種の明暗の対比は、俳句ではよく見られる手法だ。掲句の場合は「明」を天に舞い上がる雲雀とすることで、死んだ子どもらの魂が共に昇華していくようにとの祈りに重ね合わせている。戊辰戦争での「少年隊」といえば、会津の「白虎隊」がよく知られているが、彼らの死は自刃によるものであった。対して「二本松少年隊」は、戦って死んだ。戦死である。いずれにしても悲劇には違いないけれど、二本松の場合には、十二、三歳の子どもまでが何人も加わっていたので、より以上のやりきれなさが残る。鳥羽伏見で勝利を収めた薩長の新政府軍は、東北へ進撃。奥羽越列藩同盟に名前を連ねた二本松藩も、当然迎え撃つことになるわけだが、もはや城を守ろうにも兵力がなかった。それまでに東北各地の戦線の応援のために、主力を出すことを余儀なくされていたからだ。そこで藩は、城下に残っていた十二歳から十七歳の志願した少年六十余名を集めて、対抗させたのである。まさに、大人と子どもの戦いだった。戦闘は、わずか二時間ほどで決着がついたと言われている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


April 1342003

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク

                           川崎展宏

書に「戦艦大和(忌日・四月七日) 一句」とある。「大和」はかつての大戦の末期に、沖縄沖の特攻作戦で沈没した世界海軍史上最大の戦艦だった。このときに、第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下乗組員2489人が艦と運命をともにした。生存者は276人。米軍側にしてみれば、赤子の手をひねるような戦闘だったと言われる。掲句は、最後の時が迫ったことを自覚した戦艦より打電された電文の形をとっている。「ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)」は、現世と黄泉(よみ)の境界にあるとされる坂のことだ。これ以上、解説解釈の必要はないだろう。しかし、この哀切極まる美しい追悼句に、同時代感覚をもって向き合うことのできる人々は、いまこの国にどれほどおられるのだろうか。また、生き残りのひとり吉田満が一晩で一気呵成に書き上げたという『戦艦大和ノ最期』は、いまなお読み継がれているようだが、若い読者はどんな感想を抱くのだろう。とりわけて、哨戒長・臼淵大尉の次の言葉などに……。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ。日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、真ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。俺達ハソノ先駆ケトナルノダ」。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


March 2832004

 オメデタウレイコヘサクラホクジヤウス

                           川崎展宏

書きに「卒業生 札幌で挙式」とある。その祝いのために、実際に打った電文だろう。そちらの開花はまだだろうが、桜前線は確実に「ホクジヤウ(北上)」しつつあるからね。それも「レイコ」あなたに向かってと、教え子の新しい門出を祝福している。咲いていない桜を素材にして、しかし間もなくそれを咲かせる自然の力がひたひたと寄せていく状況を配して、祝意を表現してみせたところが見事だ。芸の力と言ってもよい。むろんこのときに、北上している桜前線の動きは作者の新婦に対する気持ちのそれと重なっている。今と違って昔の電報はすべて片仮名表記だったが、下手に今風に平仮名や漢字が混ざっている電文よりも、片仮名だけのほうがかえって清潔感があって、句の中身にふさわしいと思う。ただし、この書き方は作者の特許みたいなもので、第三者には使えないところが難点と言えば難点か(笑)。句集の配列から見て、昭和30年代末ころの作と思われる。そんなに電話も普及していなかったし、電話があっても長距離料金は高価だったので、冠婚葬祭用ばかりではなく、何かというと緊急の用件には電報を使った。郵便局の窓口に行くとみどり色の頼信紙なる用紙がおいてあり、なるべく文字数を少なくして安上がりにすべく、何度も指を折っては電文を思案したものだ。学生ならたいていが親への金の無心だったけれど、一般的に最もひんぱんに利用された用件は親兄弟や親類縁者の病状の悪化を告げるものだったろう。「チチキトク」などというあれである。だから電報が届くと、誰もがどきりとした。とくに夜間に配達されたりすると、開く前に心臓が縮み上がる思いがした。そんな時代は遠く去ったと思っていたら、最近では高利貸し業者が督促のために頻繁に使うのだという。祝儀不祝儀と受け取る側の心持ちが定まっている場合を除いては、いつまでも電報は精神衛生上よろしくないメディアのようである。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


June 2562004

 夕菅は胸の高さに遠き日も

                           川崎展宏

ういうわけか、「夕菅(ゆうすげ)」はほとんどの歳時記に載っていない。ほぼ全国的に分布しているというのに、何故だろうか。淡黄色の花。日光キスゲの仲間で、その名の通り夏の夕刻に開花し、朝にはしぼんでしまう。その風情、その花の色から、はかなさを感じさせる植物だ。昔の文学少年少女たちは、たいていが実物よりも先に、立原道造のソネット「ゆうすげびと」でこの花のことを知った。「悲しみではなかった日の流れる雲の下に/僕はあなたの口にする言葉をおぼえた/それはひとつの花の名であった/それは黄いろの淡いあわい花だった//僕はなんにも知つてはゐなかった/なにかを知りたく うつとりしてゐた/そしてときどき思ふのだが 一體なにを/だれを待ってゐるのだらうかと//昨日の風に鳴っていた 林を透いた青空に/かうばしい さびしい光のまんなかに/あの叢に 咲いていた・・・・そうしてけふもその花は//思いなしだが 悔いのように----/しかし僕は老いすぎた 若い身空で/あなたを悔いなく去らせたほどに!」。こうして何十年ぶりかで読み返してみると、失恋までをも美化しなければおさまらない詩人のナルシシズムを強く感じる。が、若さとはそういうものであるかもしれない。この詩を読んだころのことを思い出してみると、何の違和感も持たずに愛読できたのだから、私の若さもまた深くナルシシズムに浸っていたのだろう。句の作者はいま「夕菅」を眼前にして、やはり若き日への郷愁に誘われている。立原の詩が、すうっと胸をよぎったのかもしれない。「遠き日」への曰くいいがたい想いが、甘酸っぱくも蘇ってきた。「胸の高さに」の措辞は、実際の夕菅の丈と過去への想いの(いわば)丈とに掛けられているわけだが、少しもトリッキーな企みを感じさせないのは流石だ。美しい句だ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)

[ 読者より ]「夕菅」の載っている歳時記などとして、俳句の花(創元社)、季語秀句辞典(柏書房)、中村汀女監修・現代俳句歳時記(実業之日本社)、新日本大歳時記(講談社)をご教示いただきました。


August 2782004

 朝蜩ふつとみな熄む一つ鳴く

                           川崎展宏

語は「蜩(ひぐらし)」で秋。名前通りに夕刻にはよく鳴くが、夜明け時にも鳴くので「朝蜩」。朝方は鳴く数も少ないから、何かの具合で句のように「ふつとみな熄(や)む」ことがあるのだろう。瞬間「おや」と訝った作者の耳に、再び「一つ」が鳴きはじめたと言うのである。いくら哀調を帯びているとはいっても、雨や風の音などと同様に、日常的には蜩の鳴き声に耳そばだてて聞き入る人はいない。よほど激しくない限り、鳴いているのかどうかも定かではないのが普通の状態だ。だが、そうしたいわば自然音が、句のように突然はたと途絶えたときには、途端に人の耳は鋭敏になる。天変地異を感じたというと大袈裟だが、どこかでそれに通じるところのある自然の破調には、同じ自然界に生きるものとして、本能的に身構えてしまうからなのだと思う。したがって掲句は、蜩のある種の生態をよく捉えている以上に、人間本来の生理的な感覚をよく活写定着し得ている。蜩の句というよりも、蜩を詠んで人間を捉えた句とでも言うべきか。再び鳴きはじめた「一つ」を聞いたときにこそ、作者はほっとして傾聴したであろうし、いとおしいような哀感を覚えたことだろう。朝の蜩か……、遠い少年期に聞いたのが最後になってしまっている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


September 1392004

 これは何これは磯菊しづかな海

                           川崎展宏

語は「磯菊(いそぎく)」で秋。野菊の一種なので「野菊」に分類。海岸の岩地や崖などに群生する。ただし、咲くのは関東南部から静岡県御前崎の海岸あたりまでというから、名前は何となく知っていても、実物を見たことが無い人のほうが多いだろう。作者もその一人だったようで、はじめて見る花の名前を「これは何」と土地の誰かに尋ねたのである。で、すぐ返ってきた答えが「これは磯菊」だった。そうか、これが話に聞いていた磯菊か……。あらためて見つめ直す作者の周辺には、秋の「しづかな海」がどこまでもひろがっている。「これは何これは磯菊」と歯切れの良い調子で出ているだけに、一見平凡な「しづかな海」という表現が生きてくる。それまでのやや性急に畳み掛けるような調子を、大きくゆったりと受け止める効果が生まれるからだろう。そして「しづかな海」はただ波の静けさだけを言うのではなく、夏の間のにぎわいが引いて行った雰囲気を含んでいる。私は読んだ途端に、流行したトワ・エ・モアの『誰もいない海』を思い出した。♪今はもう秋 誰もいない海……。この後につづく歌詞はいただけないけれど、内藤法美の曲はけだし名曲と言ってよい。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


November 14112004

 紅葉の真ッ只中の力うどん

                           川崎展宏

天好日。全山紅葉。峠の茶屋(というのは、ちと古いか)のようなところで一休みして、うどんを食べている。食べるうどんは何でも構わないようなものだが、この場合はやはり「力うどん」がいちばん良く似合う。「キツネうどん」や「タヌキうどん」だと、いささか「力」不足。どこかひ弱な感じがしてしまう。真っ白なうどんに、真っ白な餅。いかにも盛り盛りと「力」が湧いてきそうではないか。「真ッ只中」という強い言葉に、少しも負けずに張り合えるのは「力うどん」しかないだろう。いつも思うのだが、町のうどん屋の店内はどうしてあんなに暗いのだろうか。西洋風レストランみたいな明るさのうどん屋には、お目にかかったことがない。あれはきっと、うどんの白を強調するための策謀じゃないかと思ったりするのだけれど、同様にそば屋だって暗いのだから、この推論は残念ながら間違いだ。でも、見た目も味の一部なのだから、何かもっともな理由がありそうである。そんなところで食べ慣れているうどんを、たまたま句のように明るい戸外で食べることがあると、東京辺りの真っ黒い(!)汁も意外に薄くて丼の底まで透けて見えるほどだ。となれば、うどん屋の照明はうどんの色を際立たせるためではなくて、むしろ汁の色加減に関係しているのだろうか。などと、埒もないことを考えるのも、俳句を読む楽しさにつながっている。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


September 1292005

 父の箸母の箸芋の煮ころがし

                           川崎展宏

語は「芋(いも)」で秋。俳句で「芋」といえば「里芋」のことだ。里芋の渡来は稲よりも古いとする説もあるそうで、大昔には主食としていた地方(九州や四国の山間部)もあることから、もっとも一般的に知られたイモだったからだろう。したがって、今はそうでもなくなってきたが、里芋の料理、とくに「煮ころがし」は、私の子供時代くらいまではごく日常的な家庭料理であった。いわゆる「おふくろの味」というヤツだ。作者の食卓にもいま、そんな煮ころがしが乗っている。久しぶりだったのだろう。懐かしいな、どれどれと箸をつけたときに、自然に思い出されたのが幼い日の「父の箸母の箸」であった。太くて長くて黒っぽい父の箸と細くて短くて朱っぽい母の箸と,そして芋の煮ころがしが卓袱台(ちゃぶだい)に乗っていた光景。これらの取り合わせは何の変哲もないがゆえに、逆に往時への郷愁をかきたてられるのだ。父も若く、母も若かった。あの頃は,こうした暮らしがなんとなくいつまでも続くように思っていたけれど、振り返ってみれば、わずかな期間でしかなかった。誰にも、容赦なく時は過ぎ行くのである……。と、それこそ芋の煮ころがしのように、ただ三つの名詞を転がしただけの句であるが、とても良い味を出している。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


April 2042007

 胸の幅いつぱいに出て春の月

                           川崎展宏

宏さんが虚子に興味を持ち始めたのはいつごろからだろう。「寒雷」の編集長を長く勤めた森澄雄さんの周辺にいて、「杉」創刊に参加。理論、実作、その気風からも「寒雷」抒情派の青年将校だった氏はそのまま「杉」の中核となったが、同時に「寒雷」同人として作品を寄せ師加藤楸邨への真摯な敬慕を感じさせた。句会に展宏さんが顔を見せたときの楸邨のうれしそうな顔が忘れられない。「展宏くんいくつになった」「はい、四十を超えました」「この間、大学卒業の挨拶に見えたような気がするけど、もう四十ですか」。句会の席でのそんなやりとりを昨日のことのように覚えている。「杉」参加後の展宏さんは高濱虚子への興味を深め、『虚子から虚子へ』などの著作を著す。花鳥諷詠と新興俳句への疑義が「寒雷」創刊の動機のひとつだったという認識から、僕はいろんなところで展宏さんに咬みついたが、今になってそのことは僕の思慮不足だったように感じている。展宏さんは自分の抒情の質に新しい息吹を注入するために観念派楸邨と対極にある存在から「学んで」いたのだった。こんな句をみるとそのことがよくわかる。「胸の幅いつぱいに」の「幅」は楸邨と共通する「観念」。そこに基づいた上で、この句全体から醸し出すおおらかな「気」は展宏さんが開拓した新しい抒情を示しているように思う。ふらんす堂『季語別川崎展宏句集』(2000)所載。(今井 聖)


December 13122008

 冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ

                           川崎展宏

、言われて、フユ、と云ってみる。ほんとうに口笛を吹くように口が少し尖って、何度も繰り返すと、ヒュウ、と音もする。ハル、ナツ、アキ、とついでに声に出してみると、いずれも二音がはっきりとしていて、くり返してもただただ続くだけだ。ヒュウ、は口笛と同時に、風の音も連想させる。北風はピープー吹くけれど、ヒュウ、は隙間風や、落ち葉を舞い上がらせる一陣の風を思わせる。云う、の方が、言う、より、口ごもるニュアンスらしい。はっきり意味を伝えようとしているわけではなく、ふとつぶやいている感じ。少し悴んだ両手をこすり合わせながら、フユ、とぽつりと言葉にした時、それはため息のように小さい白い息となって、かちんかちんの空気を一瞬見せて消えてしまうだろう。ほらね、という作者の微笑んだ顔が見えるようであたたかい。『俳句歳時記 第四版・冬』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


December 25122009

 点滴の滴々新年おめでたう

                           川崎展宏

宏さんが亡くなられた。僕は同じ加藤楸邨門下だったので、展宏さんに関する思い出はたくさんあるが、その中のひとつ。展宏さんが楸邨宅を訪ねた折、展宏さんが「僕はどうせ孫弟子ですから」と楸邨の前で少しいじけて見せた。展宏さんは森澄雄の薫陶を受け「杉」誌創刊以来中核の存在であったため、そのことを意識しての言葉だった。それに対し楸邨は「そんなことはありません。直弟子です」と笑って応じたという。酒豪の展宏さんは酔うと必ずこの話をされた。そういえば楸邨に川崎展宏君という前書のある句で「洋梨はうまし芯までありがたう」がある。「おめでたう」と「ありがたう」は呼応している。晩年の病床でのこの句の余裕と呼吸。やはり展宏さんはまぎれもない楸邨の直弟子であった。「角川俳句年鑑」(2009)所載。(今井 聖)


August 0182010

 炎天へ打つて出るべく茶漬飯

                           川崎展宏

れだけ暑い日が続くと、自然と水分をとる機会も多くなり、徐々に胃の働きも弱ってきます。今日の夕飯はいったい何なら口に入るだろうといった具合に、消去法で献立が決まるようになります。そうめんとか冷やし中華なら入るな、と思いつつも、でも昨日もそうだったわけだし、たまにはお米を食べなければ、という思いから頭に浮かぶのは、手の込んだ料理ではなく、たいていおにぎりとかお茶漬け。日本人たるもの、おにぎりやお茶漬けだけは、よっぽどのことがない限りいつだって食べられるのです。本日の句では、暑い盛りの外へ出かける前に、力をつけるために茶碗に口をつけてお茶漬けをかきこんでいる様子を描いています。おそらく汗をだらだらたらしながらの食事と見受けられます。「打って出る」という言葉が、どこか喧嘩か討ち入りにでも出かけるようで、たすきがけでもして食事をしているようなおかしさを、感じさせてくれます。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 0712011

 冬すみれおのれの影のなつかしき

                           川崎展宏

分の影を懐かしいと思うのは青春期の感慨ではない。人生も半ばが過ぎたと実感するに伴う感慨だろう。この俳人の作風は、優しさ、淡さ、思いやり、挨拶。ゆったり、ひろびろとした、豊かな世界を感じさせるもの。ひょっと口をついて出るような日常の機微。展宏さんは楸邨の弟子だが、同時に森澄雄さんの弟子。自分を追い詰める観念、苦渋の吐露、凝視、その結果の字余り、破調。そんな楸邨の特徴から離れて上記のような世界を希求した。そこで森さんの傾向と重なる。そして展宏さんの方がもっと「俳諧」への関心が強固。『夏』(1990)所収。(今井 聖)


June 1862011

 紫陽花に置いたる五指の沈みけり

                           川崎展宏

梅雨の年は紫陽花が気の毒なほどちぢれてしまうことがある。雨の多い今年は形よく色もみずみずしく、特に水をたたえたような深い青が際立っている。遠目にはこんもりと球のように見える紫陽花。作者が近づくとちょうど目の高さほどの木に、大ぶりの毬がたくさん揺れている。どこか親しさのあるその毬にそっと触れると、ただ包みこんだだけで、細かな花の隙間に五指が沈む。わずかな驚きと少し濡れたかもしれない指先に残る感触は、目の前の紫陽花をより生き生きと感じさせている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


September 0892014

 しとしては水足す秋のからだかな

                           矢島渚男

の句を読んで思い出した句がある。「人間は管より成れる日短」(川崎展宏)。人間の「からだ」の構造を単純化してしまえば、たしかに「管(くだ)」の集積体と言える。記憶に間違いがなければ、もっと単純化して「人間は一本の管である」と言ったフランスの詩人もいた。つまり、人間をせんじ詰めれば、口から肛門までの一本の管に過ぎないではないかというわけだ。そんな人間同士が恋をしたり喧嘩をしたりしていると思えば、どこか滑稽でもあり物悲しくもある。飲む水は、身体の管を降りてゆく。夏の暑さのなかでは実感されないが、涼しい秋ともなれば、降りてゆく水の冷たさがはっきりと自覚される。飲む目的も夏のように強引に渇きを癒すためではなく、たとえば薬を飲むときだとか、何か他の目的のためだから、ますます補給の観念が伴ってくる。だからこの句の着想は、秋の水を飲んでいるときに咄嗟に得たものだろう。一見理屈のかった句のように見えるけれど、実際は飲み下す水の冷たさの実感から成った句だと読んだ。実感だからこその、理屈をこえた説得力がある。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)


October 19102014

 袖のやうに畑一枚そばの花

                           川崎展宏

ばの花弁は白い。その真ん中は、赤い雄しべが黄色い雌しべを囲んでいる。作者は、そば畑を着物の袖にたとえています。それは、そば畑の面積がささやかであることを伝えていると同時に、着物の袖をイメージさせることで、白く咲く花弁の中の赤と黄色を繊細な生地の柄として伝えています。直喩を使うということは、単なる言葉の置き換えではなく、むしろ、対象そのものに対して写実的に接近できる方法でもあることを学びます。掲句のそば畑は、家族で新そばと年越しそばを楽しむほどの 収穫量なのかもしれません。「畑一枚」という語感が「せいろ一枚」にも通じて平面的で、そばの花咲く畑を袖という反物にたとえた意図と一貫しています。なお、森澄雄に、「山の日の照り降り照りや蕎麦の花」があり、山脈が近い高原の気象の変化を調べとともに伝えています。掲句は平面的な静の句ですが、こちらは、空間の中で光が移ろいます。『夏』(1990)所収。(小笠原高志)


April 0342015

 吉野よき人ら起きよと百千鳥

                           川崎展宏

野は佳いな・みなさん目を覚まして見てごらんと・百千鳥が鳴いて知らせた、と言うところか。吉野は奈良県の吉野山、桜の名所で知られている。いま吉野山は霞か雲かと見紛う桜爛漫の季節である。そんな中を百とも千とも沢山の鳥たちが囀っている。喜びに満ちた囀りの只中に身を置けば誰でも吉野を讃歌したくなる。時は今、鳥も人も一様に桜に魅せられて寝ているどころではない。他に<桃畠へ帽子を忘れきて遠し><「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク><壊れやすきもののはじめの桜貝>など。「俳壇」(2013年4月号)所載。(藤嶋 務)


May 1552016

 水換ふる金魚をゆるく握りしめ

                           川崎展宏

う四十年くらい前。日本にまだ歌謡曲というジャンルがあり、アイドル歌手が全盛の頃。伊藤咲子が「もっと強く抱きしめてよ」と歌っていました。西城秀樹も激しい恋に声を張り上げていました。一方で、南こうせつは「あなたのやさしさがこわかった」と歌い、中村雅俊が「心の触れ合い」を弾き語り始めて、穏健派の青年たちは、「やさしさと触れ合い」を一つの信条のように、この言葉を使い始めました。げんざい、大学受験生の論文指導を生業にしている私は、医療系の学生が「患者さんと触れ合って、」と作文してくると、過剰なタッチは別の職種だと判断して、「患者さんに接して」と直します。「触れ合う」という言葉は、歌として音符がついているときは成り立つけれど、話されたり書かれたりすると、じつは形骸化された抽象語であることに気づきます。しかし、掲句の「ゆるく握りしめ」は、命に対するほんとうのやさしさです。ゆるくしっかり掌を使えることが、おだやかな心の表れになっています。『夏』(2000)所収。(小笠原高志)




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