田辺聖子『道頓堀の雨に別れて以来なり』中央公論社。川柳ファン必読の2500枚だ。




19980510句(前日までの二句を含む)

May 1051998

 母の日の常のままなる夕餉かな

                           小沢昭一

集『変哲』より、69年5月作。あの小沢昭一である。評者にとっては困った時の「変哲(小沢昭一の俳号でもある)」頼み。変哲の句を出せば安心できるのだ。「母の日」といっても特別なことをするというわけではない(大体そんなもの昔はなかった)、いつもと同じ夕餉につき黙々と食べる。この句には見えない母が曲者ですな。同居の老母かもしれないし、子供たちの母、すなわち作者の老妻かもしれない。その方がむしろ味わい深い。「母の日」は、今年は本日十日。常日頃、92歳の母を老人ホームに入れたきりで、電話一本かけもしない親不幸息子の評者であるが、今年はお見舞にでも行こうかしら。(井川博年)


May 0951998

 反り合はぬ花のなきかに霞草

                           佐藤博美

屋でちょっとした花束をこしらえてもらうと、注文をつけないかぎり、まず霞草が外されることはない。それほどにこの花は、どんな花とも相性がよい。作者が言うように「反り」の合わない花はないみたいだ。ただし、この句はそれだけのことを言っているのではなくて、霞草のように誰とでも調子を合わせられない自分自身の「感性」を、いささか疎んじているのでもある。そして一方では、霞草がどんな花とも付き合えるとはいっても、それはしょせん引き立て役にすぎないではないかという小さな反発心もあるように思われる。そのあたりの微妙な心の揺れ具合が、この句の読みどころだろう。ところで、本サイトが定本として参照している歳時記には、霞草の項目がない。花屋には一年中出回っているからだろうが、本来は初夏の花だ。当サイトでは「夏」に分類しておく。『私』(1997)所収。(清水哲男)


May 0851998

 敷居越え豆腐のしづく初つばめ

                           北野平八

は俳句では春の鳥とされているが、私のイメージでは断じて初夏でなければならない。燕をよく見た少年期を過ごした土地の季節感と燕の颯爽とした飛形とが、初夏のイメージとしてからまるからだ。ところで、この句。家人が鍋に豆腐を買ってきて、戸口を開け放したまま、台所に置きに行った。見ると、敷居のところに表から内側へと豆腐の水が黒くこぼれている。こういうことはまま起きるのだが、と、いきなり戸口すれすれに燕の影が、これまた黒くさっとよぎったというのである。初つばめ、まさに「夏は来ぬ」の光景だ。こぼれた豆腐の水とつばめの影。イメージの繰り出し方に、作者ならではの巧みさを感じさせられる。こんな光景を目撃したからには、台所の新鮮な豆腐は、きっと冷奴で食べられたにちがいない。冷奴を食べたくなった。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)




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