辛夷の花が満開。「白い花が咲いてた……」という岡本敦郎のヒット曲を思い出す。




1998句(前日までの二句を含む)

March 1931998

 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

                           夏目漱石

そのものではなく、木瓜(ぼけ)という語感に着目した句だ。「拙を守る」とはへんてこな意志と思われるかもしれないが、漱石のような才気横溢した人にとっては、おのが才気のままに流れていくことは、たぶん怖いことだったのだろう。才気には、知らず知らずのうちに現実から遊離してしまうという落し穴がある。小説家にしてみれば、この穴がいちばん恐ろしい。だから、どうしても「拙を守る」強固な意志を持ちつづける必要があった。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(『草枕』)。そして漱石ならずとも、現代人の多くはいま木瓜になるべきときかもしれない。シャープという名の小賢しさが一掃されたら、どんなに気持ちがよいことか。私が俳句を好むのも、俳人には「拙を守る」人がたくさんいるからである。とは、それこそまことに小賢しい言い方かもしれないが……。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


March 1831998

 毎年よ彼岸の入に寒いのは

                           正岡子規

の句ができた明治二十六年(1893)の子規は二十五歳で、抹消句を含めると、なんと四千八百十二句も詠んでいる。日本新聞社に入社したころで、創作欲極めて旺盛だった。ところで、この句の前書には「母上の詞自ら句になりて」とある。つまり、母親との日常的な会話をそのまま五七五にしたというわけだ。当時の子規は芭蕉の神格化に強く異議をとなえていたこともあり、あえてこのような「床の間には飾れない」句を提出してみせたのだろう。母の名は八重。子規の妹律によれば、彼女は「何事にも驚かない、泰然自若とした人」だったという。子規臨終のときの八重について、碧桐洞はこう語っている。粟津則雄『正岡子規』(講談社文芸文庫)より、孫引きしておく。「静かに枕元へにじりよられたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかゝつて『サァ、もう一遍痛いというてお見』可なり強い調子で言はれた。何だかギョッと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた」(『子規の回想』)。(清水哲男)


March 1731998

 目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと

                           波多野爽波

のようなラジオマンからすれば、句の中身は「ひとごと」じゃない(笑)。それはともかく、ラジオをつけっぱなしにして目刺しを焼いている作者は、少々ムシの居所が悪いと見た。どうせラジオは「ひとごと」ばかり喋(しゃべ)っているのだから、自分には関係はないのだから、いま大事なのは「ひとごと」じゃない目刺しのほうである。こちらに集中しなければ……。と思いつつも、少しはまたラジオを聞いてしまう。そしてまた「ひとごと」放送に腹を立て、またまた目刺しに集中する。そのうちに、しかし目刺しもラジオも「皆ひとごと」に思えてきてしまう。そんな図だろうか。目刺しは、あれで焼き方が難しい。黒焦げになったり生焼きになったりするから、これはもうしょっちゅう焼いている酒場のおばさんなどにはかなわないのである。ラジオをつけていてもいなくても、うまく焼けないので苛々する。そこで「みんなラジオが悪いのよ」と言いたくもなる作者の気持ちは、わからぬでもない。いや、よくわかる。ところで「ひとごと」は漢字で「他人事」と書く。最近のラジオやテレビでは、これを平気で「たにんごと」と読むアナウンサーやタレントがいるが、あれは何とかならないものか。「ひとごと」ながら、恥ずかしいかぎりである。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)




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