還暦ナリ。1938年生まれは人数も少ないが、既に4人に1人が死亡。戦争のせいだ。




1998句(前日までの二句を含む)

February 1521998

 将来よグリコのおまけ赤い帆の

                           清水哲男

句自註など柄でもないが、六十回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。現代のグリコは知らないが、敗戦直後の本体はそれほど美味ではなかった。後に熱中した「紅梅キャラメル」(こちらの「おまけ」は巨人選手カード)も同様だった。「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。そんな思いから発した句なのであるが、飛躍し過ぎだろうか。……し過ぎでしょうね。なお、この句は筑摩書房『グリコのおまけ』に再録されている。掲載に当たって編集者が必死に「赤い帆」のおまけを探してくれたが、見つからなかった。したがって、句の写真には赤白模様の帆のヨットが使われている。「赤い帆」のおまけは実在しなかったのかもしれない。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


February 1421998

 赤い椿白い椿と落ちにけり

                           河東碧梧桐

梧桐初期の代表作。教科書にも出てくる。が、厄介な句だ。碧梧桐の師匠だった正岡子規は、この句の椿を既に根元に落ちている状態だと見た。しかし、そうではなくて、映画のスローモーションのように、二つの椿が落ちつつある過程を詠んだと見る専門家も多い。「落ちにけり」はどちらにでも解釈可能だから、どちらが正しいとももちろん言えない。私の好みからすると「スローモーション」派になるが、現代ムービーの技術に毒された感じ方かもしれないとは思う。ところで、椿の花は、この句のように「散る」のではなく「落ちる」のである。山国で暮らしていた子供の頃には何度となく目撃したが、その様子は子供心にも「痛み」を感じさせられるものであった。偶然に見かけるだけなのだけれど、よい気分はしない。この句を日本画のように美しいと言う人もいるが、逆に作者は椿の落ちる不愉快を詠んだのかもしれない。あるいは、時代への川柳的な諷刺句かもしれぬ。後に自由律に転じた碧梧桐のことだから、そういうことも十分に考えられる。つまり、俳句はこのように曖昧なのだ。上り調子の巧みな俳人ほど、曖昧な句を作ってきた。私たちの人生と同じように、しかし曖昧だからこそ、俳句は面白いのである。(清水哲男)


February 1321998

 庭石を子の字はみだし春の昼

                           杉本 寛

者の自註がある。「父が好きで庭の処処に石が置いてある。悪戯ざかりの長男が、よく楽書きをする。見て見ぬ振りをする父の姿が面白かった」。幼子が持っているのはローセキだろうか。子供の書く字は大きいから、庭石からもはみ出してしまう。春昼のスナップ写真のような句だ。落書きといえば、最近はとんとお目にかからなくなった。たまに見かけるのは、若者達がスプレーを吹きつけて「三多摩喧嘩連合只今参上」(これは実際に我が家の近所に書いてある)などと書くアレくらいなもので、幼児のソレを見ることがない。路上で遊べなくなったせいだ。昔はよく、アスファルトの道に延々とつづく列車の絵などが書いてあったものだ。それを踏み付けにすることがはばかられて、踏まないように歩いた経験を持つ読者も多いのではあるまいか。いまどきの子供向きの施設には「落書きコーナー」があったりするが、そんなサービスは落書き精神に反している。第一、よい子の落書きだなんて面白くも何ともないのである。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)




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