December 221997
古暦とはいつよりぞ掛けしまま
後藤夜半
古暦とは、本来は不要になった去年の暦をのことをいうのだが、俳句では、新しい来年の暦が用意された頃の今年の暦をいう。日めくりだと、残り数枚というところか。いや、十数枚かもしれない。そのあたりがはっきりしないので、作者は疑問をそのまま句にしてしまった。トボけた味があって面白い。作者はおそらく、今年の暦と新しい年の暦とを並べて掛けているのだろう。新しい暦もよいが、使い慣れた暦には愛着がある。私などは、年末最後のゴミの日には捨てきれず、新年になってから処分する。何年か前に香港で買った暦は、いまだにちゃんと仕舞ってあるという具合。しかし、なかにはそうでない人もいるようで、柴田白葉女に「古暦おろかに壁に影おけり」がある。(清水哲男)
December 211997
爆音や霜の崖より猫ひらめく
加藤楸邨
猫の句は数あれど、戦争と猫の取り合わせは珍しいと思う。前書に「昭和十九年十二月二十一日戦局苛烈の報あり/午後九時、一機侵入、照空燈しきりなり」とある。「照空燈」はサーチライトのことだが、若い人は知らないかもしれない。手元にあるいちばん新しい国語辞典(三省堂『新明解国語辞典』第五版・97年11月刊)によれば、「夜、遠くの方まで照らせるようにした大型で強力な投光器。特殊な反射鏡を用いたりする。探照灯。(上空の敵機を探索するものは照空灯、海上の敵を探索するものは探海灯とも言う)」と解説してある。句は、照空燈が一瞬照らしだした霜の崖に、驚いた猫がひらりと舞ったところを描いている。寒さよりも緊張のために身震いする瞬間が、霜の猫に象徴されている。当時、ほんのちっぽけな子供でしかなかった私にも、この身震いはよくわかる。頭上の敵機は、たぶん爆撃機のB29だろう。高度一万メートルで飛来し、我が国の高射砲では届かなかった。『火の記憶』(1943-1945)所収。(清水哲男)
December 201997
葉牡丹や過密に耐ふる外なけれ
川門清明
葉牡丹は、正月用に供される。花は四月頃に咲くが、もっぱら葉を観賞する植物だ。正直に言って、なんとなくくすんだ感じの色合いで、そんなに美しいと感じたことはない。ただ、食べられそうな葉だなと思っていたら、元祖は江戸期に渡来したキャベツなのだそうである。キャベツだから、葉っぱがギュウ詰めになっていて、つまり過密になっていて、仔細に見ると息苦しくなるような植物だ。この息苦しさに、ひたすら葉牡丹が耐えているように見えるのは、作者自身が現実の過密なスケジュールに耐えているからなのだろう。おそらく、歳末の感慨だ。昔から、葉牡丹を詠んだ句にさしたる佳句は見当たらないが、そのなかで、この句はなかなかに見事な出来栄えだと思う。葉牡丹を見直したくなってくる。(清水哲男)
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