片山由美子の句

October 05101997

 それぞれの部屋にこもりて夜長かな

                           片山由美子

の句は有名になり、あちこちの俳書に収録されている。それほどいまの家族の光景を見事にとらえている、といってもいいのだろう。「孤」独な光景というよりも、親も子もそれぞれ部屋にこもって、本を読んだり、音楽を聞いたりしている。それもいいじゃない、という感じなのだ。でも個室がある家とはうらやましい。わが家には私の部屋はないのです。だからいつも遅く帰るのだ。片山さんは1952年生れ。鷹羽狩行門。この人も私の好きな俳人のひとりである。(井川博年)


November 16112002

 蘭の香やむかし洋間と呼びし部屋

                           片山由美子

前に建てられた母方の実家に「洋間」があった。カーペットが敷かれ、シャンデリアが吊るされ、ソファが置かれ、ピアノと電蓄とがあった。大きなガラス窓が、障子に慣れた目には珍しかった。掛けられていた絵は、むろん「洋画」である。ただ、あまり使われていなかったようで、なんだかいつもヒンヤリとしていた記憶がある。ところで、作者の家には、まだこうした「むかし」ながらの洋間があるのだろう。他の部屋は和室だったわけだが、おそらく今ではそれらをリフォームして、みな洋式の部屋にして暮らしている。つまり、すべての部屋が洋間になってしまったわけで、とくに一室だけを「洋間」と区別して呼ぶことがなくなって久しいのだ。そんな部屋に、たまたま蘭を飾った。そしてその芳香に包まれた途端に、思い出されたのである。「むかし洋間と呼びし部屋」には、この「香」がよく漂っていたことが……。「蘭の香」は、同時に洋間そのものの香りでもあり、他の部屋にはない独特な香りだった。連れて、当時そのままの部屋のたたずまいと、往時そのままのあれこれのことを思い出し、しばし作者は懐旧の情に浸っている。香りが、思いがけない過去へと作者を誘ってくれたのだ。さて、句の季語は「蘭」であるが、歳時記によって季節の分類は異っている。夏によく咲くことから夏季とするものがあり、秋の七草のフジバカマを蘭と言ったことから秋季とするものなど、マチマチだ。しかし、現在では冬でも普通に蘭の花が見られる。というわけで、当歳時記としては無季に分類しておくことにした。ただし、掲句の作者は、前後に置かれた他の句から類推すると、秋季として詠んでいるようだ。「俳句研究」(2002年12月号)所載。(清水哲男)


July 0372004

 手花火や再従兄に会はぬ二十年

                           片山由美子

語は「(手)花火」で夏。夏の風物詩と言われるものも、だんだんに姿を消しつつあるが、花火だけは昔と変わらず健在だ。我が家でも孫がやってくると、水を入れたバケツを用意して、近所のちっぽけな公園で楽しむ。作者は通りがかりにそんな光景を見かけたのか、あるいは自分で楽しんでいるのか。闇に明滅する火の光りを見ているうちに、ふと長い間会っていない「再従兄(はとこ)」のことを思い出した。昔はいっしょに花火でよく遊んだものだが、数えてみると会わなくなってからもうかれこれ二十年も経ってしまった。元気にしているだろうか。花火には、そんな郷愁を誘うようなところがある。二十年という歳月感覚は微妙で、三十年ならば完全に疎遠になっているということだし、十年ならばまだ交際が切れているとは言えないだろう。しかし二十年くらいの隔たりだと、あまり思い出すこともなくなるが、思い出しても、このまま一生会うことがないかもしれぬと淋しくなったりする。そのような微妙な感覚が、手花火の光りのはかない生命によく照応している。ところで、再従兄は親が従兄同士である子と子の関係を指す。またいとこ、とも。はじめからかなり遠い親戚筋の関係にあるわけで、親の親戚付き合いがよほどこまめでないと、なかなか再従兄同士が知り合う機会は得られない。私の場合を考えてみたが、それと自覚して再従兄に会ったことはないと思う。再従兄どころか従兄にすら、三十年も前の叔父の法事の席で会ったのが最後になっている。遠い親戚より近くの他人。昔の人はうまいことを言ったものだ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


March 2932009

 同じ顔ならぶ個展や春の雨

                           片山由美子

の句に詠まれている顔は、絵の中の顔ではなく、会場に来ている見学者の顔なのだろうと思います。個展会場の壁に整然と掛けられた絵、それぞれに、ひとつずつの顔が相対しており、その顔がどれも似ているというのです。いえ、同じだと言うのです。むろん、人の顔そのもののつくりは違うものの、雨の中をはるばるこの会場へ来て、扉を開け、絵を観賞するために視線を向けている姿勢と心持は、それまでの時間がどんなに異なっていても、同じところに落ち着いてしまうもののようです。あるいは、描かれた絵の力によって、どの顔も、ほほえましい笑顔や、引き締まったまなざしを持つようにさせられているのかもしれません。個展というのですから、広い敷地の美術館ではなく、銀座の裏通りに面した、こじんまりとした画廊ででもあるのでしょう。窓の外には止むことなく、静かに雨が降り続いています。見れば春の宵を、どの一粒も同じ顔をした雨が並んで落ちています。見るものと見られるものの関係の美しさを、やわらかく詠っています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


June 1862010

 新緑やまなこつむれば紫に

                           片山由美子

をつむったときに見える色や形がある。あれは何だろう。今眼をつむるとまっくらな空間に明るい方形のかたちがみえる。泡のようなものが通り過ぎていくこともある。作者は、新緑の中で眼をつむったその「視界」が紫に見えた。外の緑と内なる紫が美しい調和になっている。これは思念ではないからむしろ即物写生の句である。「俳句」(2009年7月号)所載。(今井 聖)


May 2752011

 島を出し船にしばらく青嵐

                           片山由美子

と陸との距離が明解。その距離がしだいにひろがる。その時間が「しばらく」だ。ここには時間と距離が詰まっている。空間構成が中心に据えられていて情緒に凭れない。知をもって空間を捉える山口誓子に発した伝統が鷹羽狩行を経由して着実にこの作者に受け継がれていることがわかる。こういう方法に今の流行は抵触しない。しかし、それは俳句の伝統的な要件を踏まえた上でクールな時代的感性を生かした現代の写生である。『季語別・片山由美子句集』(2003)所収。(今井 聖)


February 0622012

 断りの返事すぐ来て二月かな

                           片山由美子

わず、膝を打った。ただし返事を受け取る側としてではなく、出す側として。この返事は、何か込み入った個人的な事情を含む手紙に対するそれではないだろう。たぶん、何かの会合やパーティなどへの出欠を問うといった程度のものに対する返信なのだ。それがいつもの月と比べて、ずいぶんと返りが早い。そして、その多くが欠席としてあるだけで、付記もない。要するに、にべもない。私も毎月のようにその種の案内状をいただくが、他の季節なら単なる義理筋のそれであっても、どうしようかと考え、考えているうちに返信期日ぎりぎりになってしまうことが多い。が、たしかに二月のいまごろは別だ。あまり考えずに、えいっと投函してしまう。それはたぶん、二月という月の短さや寒さと関連しているようである。今年は閏年だが、やはり二月は短いのでなにかとせわしく感じられ、寒さも寒しということもあって、返事にも気が乗らない。あまりあれこれ斟酌せずに返事を書いてしまうわけだが、このことは返信のみに限ったことではなく、生活のいろいろな場所で顔を出してくる。『日本の歳時記』(2012・小学館)所載。(清水哲男)


September 0492012

 照らし合ふことなき星や星月夜

                           片山由美子

の光は太陽のように自ら発しているものと、地球や月のように太陽の光を反射させているものがある。掲句の通り、天体の光はあくまで一方通行なのだ。星月夜とは、月のない晩、満天に広がる星がまるで月明かりのように輝いている様子をいう。星の光がいつ放たれたかという光年の時間と距離は、およそ想像の及ばないものだが、それでも10億光年の距離にある星の光は10億年たたないと地球に届かないと言われれば、その途方もなさに目がくらむ。手を伸ばせば指先に触れるように輝く星が、現在という時間には存在しないのかもしれない不思議。宇宙を目のあたりにしたとき、人は思わずわが身のあまりのささやかさに呆然となったり、あるいは広大なロマンと夢を紡いでしまいがちだが、掲句は満天の星の孤独を観照した。照らし合うことのない星は真実でありながら、うっかりすると啓蒙や比喩に傾いてしまうところを、下五の星月夜があくまで清らかに広がる天球を引き連れてきてくれる。『香雨』(2012)所収。(土肥あき子)


December 04122012

 初雪や積木を三つ積めば家

                           片山由美子

年の初雪の知らせは北海道では記録的に遅いとされる11月18日。これから長い雪の日々となるが、「初」の文字は苦労や困難を超えて、今年も季節が巡ってきた喜びを感じさせる。雪の季節になれば、子どもの遊びも屋外から室内へと移動する。現代のように個室が確立してなかった時代には、大人も子どもも茶の間で多くの時間を費やしていた。あやとり、お手玉、おはじき、塗り絵など、どれも大人の邪魔にならないおとなしい室内の遊びを家庭は育んできた。掲句の積み木にも、家族の目が届くあたたかい居間の空気をまとっている。おそらくそれはふたつの四角の上に三角を慎重に乗せたかたち。四角柱は車になったり、円柱は人間になったりもする。人は誰にも教わることなく見立てをやってのけるのだ。初雪の静けさにふっくらとした幼な子の手の動きが美しい。『香雨』(2012)所収。(土肥あき子)


July 1972016

 丑の日や鰻ぎらひを通しをり

                           片山由美子

用丑の日。この日ばかりは鰻屋に長蛇の列ができる。以前鰻屋のご主人と話したとき「鰻はハレの日の食べものだから、おなじみさんがなかなかできない」と嘆いていたことを思い出す。できたら月に一度は食べたいと願う筆者からすると、鰻嫌いな人が存在には「あれほどおいしいものがなぜ…」と首を傾げるばかり。掲句は『昨日の花 今日の花』(2016)に所載された一句。作品に続く小文には「鰻の蒲焼きが食べられない。昔は穴子も食べなかったが、天ぷらや白焼きは美味しいと思うようになった。ということは苦手なのは蒲焼きかも。皮や小骨が舌に触りそうでダメ」とあり(衝撃のあまり全文引いてしまった…)、苦手の根本が蒲焼きであることに二度驚く。そういえば、学生時代に「蒲焼きが裏向きになると皮が蛇みたいに見えるので、絶対に裏にならないように食べる」と言っていた友人がいたことを思い出した。裏返しにならないように気を抜くことなく進める箸では、おそらく味どころではなかっただろう。鰻を苦手とする各位が本日をつつがなく過ごせることを祈るばかりである。(本日土用入でした。丑の日は7/30(土)。鰻好きのあまり、気が急いてしまいました。深謝)(土肥あき子)




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