上村占魚の句

June 0861997

 米の香の球磨焼酎を愛し酌む

                           上村占魚

るで「球磨焼酎」の宣伝みたいだ。私は日頃焼酎を飲まないのでわからないが、好きな人には「その通りっ」という句であり、すぐに自分でも飲みたくなる句なのだろう。無技巧が逆に鮮やかで、いかにもウマそう。こういう句は、もっとあってもよいと思う。このような各地の名産を詠んだ句のアンソロジーを、どなたか編集してくれませんかね。焼酎といえば、生まれてはじめて飛行機に乗って奄美大島へ行ったことを思い出す。「文芸」(現在の「文藝」)の編集者として、開高健さんのお伴で島尾敏雄さんを訪ねる旅だった。仕事が終わってから、西部劇に出てくるようなたたずまいの町のバーに入ったら、何も注文しないのにサッと焼酎が運ばれてきた。びっくりしながら大いに酩酊したが、若さのおかげで翌朝はケロリとしていられた。開高さんも島尾さんも、酒飲みの達人だったから、もちろんケロリ。既にお二人とも鬼籍に入られたのが、なんだか夢のようである。(清水哲男)


December 18121997

 歳暮ともつかず贈りて恋に似る

                           上村占魚

暮本来の意味は、日頃の好誼を相互に感謝しあうために贈り物を交換したり、酒宴を設けたりすること。したがって、忘年会も立派な「歳暮」(正式には「歳暮の礼」)のうちなのであった。が、いつの間にか、物を贈ることだけを「歳暮」と言うようになり、デパートが忙しいというわけである(もっとも、そのデパートなどの商魂が、古来の意味を今日的に転化させたと言うほうが正確かもしれないが……)。句の作者は、そんな慣習のなかで、歳暮という形で物を贈るには不似合いの相手に、プレゼントの品を贈ってしまった。相手は、職場関係でもなく姻戚関係でもなく、さりとて日頃仕事上で特別の世話になっている人でもない。平常、なんとなく好意を持っている相手なのであり、他の人たちに贈るときに、ついでのようにして発送を依頼したのだった。その振るまいを考えてみるに、なんだか「恋の心」からのようだと、作者は微苦笑している。貰った側は、おそらく何かの間違いではないかと、しばし首をかしげたことであろう。(清水哲男)


November 11111998

 六面の銀屏に灯のもみ合へり

                           上村占魚

箔地の大屏風が引きまわしてあり、その六面に灯火があたっている様子。たしかに光りは反射し合ってもみ合うように見え、その様で屏風はひときわ豪奢な感じに映えてくる。屏風というと、たいていの人は屏風絵に心を奪われるようだが、作者は屏風という存在そのものに光りをあてていると言うべきか。句の屏風も、今日でも結婚披露宴などで用いられる金屏風などと同じく様式化されたものだが、元来は風よけの衝立として中国から渡来した生活道具であった。だから、屏風は冬の季語。六曲一双が基準であるが、これは簡単に倒れないための物理的な工夫から出た結論だろう。私が子供だったころには、まだ生活道具としての屏風が使われていた。句のような大きいものではなく、高さが一メートルにも足りない小屏風で、寝ている赤ん坊に隙間風があたらないように立てられていたことを覚えている。そんな小さな屏風は無地であったが、やがて赤ん坊が大きくなってくると、絶好の落書きボードに様変わりするのは当然の運命である。なにせ大の大人にしてからが、屏風の白くて大きな平面の誘惑に耐え切れずに、ああでもないこうでもないと箔を貼ったり絵を描いたりしてきたのだから……。『鮎』(1946)所収。(清水哲男)


January 0811999

 おのが影ふりはなさんとあばれ独楽

                           上村占魚

楽もすっかり郷愁の玩具となってしまった。私が遊んだのは、鉄棒を芯にして木の胴に鉄の輪をはめた「鉄胴独楽」だったが、句の独楽は「肥後独楽」という喧嘩独楽だ。回っている相手の独楽に打ちつけて、跳ねとばして倒せば勝ちである。「頭うちふつて肥後独楽たふれけり」の句もある。形状についての作者の説明。「形はまるで卵をさかさに立てたようだが、上半が円錐形に削られていて、その部分を赤・黄・緑・黒で塗りわけられている。外側が黒だったように記憶する。この黒の輪は他にくらべて幅広に彩られてあった。かつて熊本城主だった加藤清正の紋所の『蛇の目』を意味するものであろうか。独楽の心棒には鏃(やじり)に似た金具を打ちこみ、これは相手の独楽を叩き割るための仕組みで、いつも研ぎすまされている」。小さいけれど、獰猛な気性を秘めた独楽のようだ。ここで、句意も鮮明となる。「鉄胴独楽」でも喧嘩はさせた。夕暮れともなると、鉄の輪の打ち合いで火花が散ったことも、なつかしい思い出である。昔の子供の闘争心は、かくのごとくに煽られ、かくのごとくに解消されていた。ひるがえって現代の子供のそれは、多く密閉されたままである。『球磨』(1949)所収。(清水哲男)


April 0842006

 若き頃嫌ひし虚子の忌なりけり

                           猪狩哲郎

語は「虚子忌」で春。高浜虚子の命日。虚子が鎌倉で没したのは,1959年(昭和三十四年)四月八日であった。八十四歳。そのころの私は大学生で俳句に熱中してはいたが、作者と同じように虚子は「嫌ひ」だった。彼の詠むような古くさい俳句は、断固撲滅しなければならないと真剣に考えていた。「俳句に若さを」が、当時の私のスローガンだった。虚子が亡くなったときに、新聞各紙は大きく報道し、手厚い追悼記事を載せたのだけれど、だから私はそうした記事をろくに読まなかった覚えがある。こういう言い方は故人に対してまことに失礼であり不遜なのであるが、彼の訃報になんとなくさっぱりしたというのが、正直なところであった。付け加えておくならば、当時の俳句総合誌などでも、いわゆる社会性俳句や前衛俳句が花盛りで、現在ほどに虚子の扱いは大きくはなかったと思う。意識的に敬遠していた雰囲気があった。メディアのことはともかく、そんな「虚子嫌ひ」だった私が、いつしか熱心に虚子句を読みはじめたのは、五十代にさしかかった頃からだったような気がする。そんなに昔のことではないのだ。一言で言えば、虚子は終生新奇を好まず、日常的な凡なるものを悠々と愛しつづけた俳人だ。すなわち、そのような詩興を理解するためには、私にはある程度の年齢が必要であったということになる。虚子逝って、そろそろ半世紀が経つ。時代の変遷や要請ということもあるが、もう二度と虚子のような大型の俳人が出現することはあるまい。「虚子嫌ひあるもまたよし虚子祀る」(上村占魚)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 07112008

 月の庭子の寝しあとの子守唄

                           上村占魚

人公は、母であり妻である女性ととるのがふつうだろう。庭で子守唄を唄っている。背中に子がいなければ庭に出る理由が希薄なので、これは子守のときの情景である。子は首を垂れてすっかり寝落ちているのに、母はそれに気づいていても唄をやめない。寝てしまったあとも続いている子守唄は母というものの優しさの象徴だ。月、庭、子、寝、子守唄。素材としての組み合わせを考えると、どうみても陳腐にしか仕上がらないようなイメージの中で、「寝しあとの」でちゃんと「作品」に仕上げてくるのは、技術もあるが、従来の情緒のなぞりだけでは詩にならぬとの思いがあるからだ。無条件な愛。過剰なほど溢れ出る愛。この句のテーマは「母」あるいは「母の愛」。季題「月」は背景としての小道具。『鮎』(1992)所収。(今井 聖)


May 0652011

 なにひとつなさで寝る夜の蛙かな

                           上村占魚

鳥諷詠というのはどこかで自己肯定に通じると強く感じることがある。自然は普遍だ。普遍のものを求めたければ、「小さな我」の世界を大きく包み込む造化に眼を遣りなさいという論法はどうも嘘臭い。小さな我を捨てるということが、類型的である我を肯定する言い訳になっていると感じるせいかもしれない。ちっぽけな我とは一体何者なのかというところをまず攻めるべきではないか。なにひとつなさないで寝てしまう我に向けられる自己の眼は、いたらない小さな自分を告白している。それは類型的自己からの覚醒といってもいい。『鮎』(1946)所収。(今井 聖)




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