季語が紫陽花の句

June 0561997

 紫陽花や帰るさの目の通ひ妻

                           石田波郷

郷の句が苦手だという人は、意外に多い。いわゆる「療養俳句」の旗手だからではなく、描写が「感動を語らない」(宗左近)からである。この句もそうだ。見舞いに来た妻が、つと紫陽花に目をやったとき、その目が「帰るさ(帰り際)」の目になっていたというのだが、それだけである。妻の目が、作者にどんな感情を引き起こさせたのかは書かれていないし、読者に余計な想像も許さない。冷たいといえば、かなり冷たい感性だ。しかし、私は逆に、長年病者としてあらねばならなかった男の気概を感じる。平たく言えば、人生、泣いてばかりはいられないのだ。寂しい気分がわいたとしても、それを断ち切って生きていくしかないのだから……。(清水哲男)


June 1161999

 紫陽花や白よりいでし浅みどり

                           渡辺水巴

陽花(あじさい)は、別名を「七変化」とも言うように、複雑に色を変えていく。薄い緑色から白色、青色、そして紅紫色といった具合だ。句では「白よりいでし浅みどり」と変化過程にある紫陽花の一時期の色を詠んでいて、雑に読むと錯覚しやすいが、この「浅みどり」が薄い緑色ではないことがわかる。「白」の次は「青」でなければならないからだ。『広辞苑』を引くと「浅緑」には薄い緑色の意味の他に「薄い萌黄色」と出ている(「空色」とも)。この「萌黄色」がまた厄介で、黄緑色に近い色と受け取ると間違いになる。藍染めに源を持つ色彩に「浅黄色」があり、「薄い萌黄色」はこれに近い。つまり「薄い水色」だ。中世で「浅黄色」というと、薄い青色のことを指した。したがって、いまでは「浅黄色」と書かずに、青を強調して「浅葱色」と表記するのが一般的になっている。私たちが交通信号の「緑」を平気で「青」と言うように、日本人の色意識には、「緑」と「青」の截然とした区別はないのかもしれない。なんだかややこしいが、他にも日本の色の名前には面白いものがたくさんある(翻訳はなかなかに困難だ)。白秋の「城ケ島の雨」の英訳があって、外国人が歌っているのをレコードで聞いたことがある。「利休鼠の雨が降る」をどう訳していたのだったか。忘れてしまったのが残念だが、たしか「RAT」という言葉は入っていたように思う。『水巴句集』所収。(清水哲男)


June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


June 0262003

 紫陽花のパリーに咲けば巴里の色

                           星野 椿

来が、「紫陽花(あじさい)」は日本の花だ。日本から中国を経由して、18世紀末にヨーロッパに渡ったと言われる。しかし、皮肉なことに、日本では色が変わることが心変わりと結びつけられ、近世まではさしたる人気はなかった。『万葉集』には出てくるけれど、平安朝の文学には影も形も見られない。ところが、逆にヨーロッパ人は色変わりを面白がり、大いに改良が進められたので、現代の日本には逆輸入された品種もいくつかある。だからパリの紫陽花は改良品種ゆえ、「パリーに咲けば巴里の色」は当たり前なのだが、もちろん作者は、そんな植物史を踏まえて物を言っているわけではない。同じ紫陽花なのに、巴里色としか言いようのない色合いに心惹かれている。この街に「日本色」の紫陽花をそのまま持ってきたとしても、たぶん似合わないだろう。やはり、その土地にはその土地に似合う色というものがあるのだ。いや、その色があってこそのその土地だとも言える。ヨーロッパで紫陽花を見たことはないが、たとえば野菜の色だって微妙に異っている。そこらへんの八百屋の店先に立っただけで、なんとも不思議な気分におちいってしまう。トマトやらジャガイモやら、お馴染みの野菜たちの色合いが日本のそれとは少しずつ違うからだ。その微妙な色合いの差の集積が店内の隅々にまで広がっている様子に、よく「ああ、俺は遠くまで来てるんだ」と思ったことだった。私には、そぞろ旅情を誘われる句だ。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


July 0172003

 兄亡くて夕刊が来る濃紫陽花

                           正木ゆう子

先あたりに、新聞が配達される家なのだろうか。庭の隅には、紫陽花が今を盛りとかたまって咲いている。今日もまた、いつもと同じ時間に夕刊が配達されてきた。しかし、いつも待ちかねたように夕刊を広げていた兄は、もうこの世にはいないのだ。いつもと同じように夕刊は配達されてくるが、いつもと同じ兄の姿は二度と見ることは出来ない。なんでもない日常、いつまでもつづくと思っていた日常を失った寂しさが、じわりと心に「濃紫陽花」の色のように染み入ってくる。夕刊は朝刊に比べると、一般的にニュース性には欠けるエディションだ。昼間の出来事を伝える役割だから、よほど大きな事件があっても、それまでに他のメディアや人の話から、大略のことは承知できているからである。したがって、朝刊のように目を瞠るような紙面は見当たらないのが通常だ。だから、夕刊のほうがより安定した日常の雰囲気を持っていると言える。その意味で、掲句の夕刊は実によく効いている。作者はこの兄(俳人・正木浩一)とはことのほか仲良しであり尊敬もしていたことは、次の一句からでもよくわかる。「その人のわれはいもうと花菜雨」。また「帰省のたびに、私は兄とそれこそ朝まで俳句について語り合ったものだ」とも書いているから、俳句の手ほどきも受けたのだろうし、後年には良きライバルであったのだろう。亡き兄のことを思い出しつつ、作者は投げ込まれたままの白い夕刊に目をやっている。だんだん、夕闇が濃くなってくる。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


June 2962004

 子の傘の紫陽花よりも小さくて

                           田中裕明

語は「紫陽花(あじさい)」で夏。たまに小さい子の傘をそれと意識して見ると、実に小さいものだなあと、あらためて思う。この場合は、作者のお子さんの傘かもしれない。どれくらい小さいのかと言えば、そこらへんの「紫陽花よりも」小さいのである。むろん、咲いている紫陽花のひとかたまりよりも、だ。雨の中を行く子の傘の高さも、だいたい紫陽花のそれと同じくらいだし、この比較はごく自然であり無理がない。単純にして明快である。田中裕明の句はたくさん読んできたが、持ち味を一言で言えば、この単純明快さにこそあると思う。言い換えれば、作句時における作者は、常に言いたいことをはっきりと持っていて、そのために表現の焦点を絞り込んでいるということだ。誰だって、言いたいことがあるから詠むんじゃないの。と思われるかもしれないが、それはそうだとしても、言いたいことの実現のためにフォーカスを絞り込むのは楽な作業ではない。つい周辺のあれこれに目移りがして、そのうちに言いたいことから句がずれてしまう経験は、誰にもあるだろう。そうやってずれてしまった句が、けっこう客観的には良い句に仕上がったりもするのだから厄介だ。自身の本意からずれてしまった句は、いかに佳句のように見えようとも、当人にとっては不本意のままでありつづけるだろう。そんな不本意な句をいくら積み重ねても、表現者失格である。俳句様式の怖さの一つはここにあるのであって、いくらずれても句にはなるし、それらしくもなる。すなわち逆に、言いたいことを俳句で言うのがいかに難しいか。掲句はなんでもない句のようだが、その意味で、俳句様式の甘い罠にとらわれることなく、しっかりと言いたいことを言い切った好例として掲出しておきたい。抒情性も十分だ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


June 3062004

 あぢさゐを小突いてこども通りけり

                           小野淳子

ったく、しようがないなあ。と思いつつも、作者は微笑している。男の子だろう。「なんだい、こんなもん」と言わんばかりに、ちょんと小突いて行ってしまった。見たままそのまんまの句だが、男の子ならいかにもという感じがよくとらえられている。女の子だったことはないのでわからないが、私自身のことを思い出しても、小学生くらいまでは花に関心を持ったことはないような気がする。おそらく、友人たちもそうだったろう。しげしげと花を見つめている男の子なんて、なんとなく気色が悪い。というのは偏見だろうが、そんな男の子を見た記憶もないのである。稲垣足穂によれば、加齢にしたがって人の関心は移っていくのだという。最初が動物で、その次は植物、そして最後には鉱物に至ると書いている。そういえば子供は昆虫の類が好きだし、鳥や獣も好きだ。人も動物のうちだから、思春期以降は異性への関心が高まる。その期間が過ぎると、今度は植物というわけで、ここでようやく花への関心も湧いてくることになる。道ばたに咲く花を、ちょっと立ち止まってみたりするようになってゆく。私の場合だと、四十歳くらいでそのことが意識された。そして稲垣説の最後は鉱物というわけだが、これはまだ私には当てはまらないと思う。よく河原などから石を拾ってきて庭に置いたりする人がいるけれど、そんな衝動に駆られたことはない。ただ、若い頃と違って、そうした石の趣味をくだらないと思う気持ちは失せている。理解できるような気はするのだ。もうしばらくすると、私も石を拾ってきたりするようになるのだろうか。更に稲垣説の先を言えば、老人は子供にかえるというから、もう一度「あぢさゐ」を小突くようなことになるかもしれない。しかし、掲句の「こども」を「老人」に入れ替えてみると、かなり不気味だなア(笑)。『桃の日』(2004)所収。(清水哲男)


July 1072004

 花二つ紫陽花青き月夜かな

                           泉 鏡花

明過剰とも見えるが、二三度読むうちにしっとりと落ち着いてくる。いかにも鏡花らしい句と思うからだろうか。先入観、恐るべし。「花二つ」が、句の生命だ。一つでは寂しいだけのことになり、三つ以上だと「月夜」にはにぎやかすぎて「青」が浮いてしまう。二つという数は関係の最小単位を構成するから、二つ咲いているのは偶然だとしても、人はその花と花とに何らかの関係を連想するのである。梅雨時の月光ゆえ、秋のそれのようには冴えてはいない。そんな光の中に、二つの紫陽花がぼおっと灯るように咲いている。お互いに寄り添うように、心を通わせるようにと、作者には思われたのだろう。この句については、鏡花の姪(のちに夫人の養女)である泉名月が次のように書いている。「十歳代の頃は、濃緑色の短冊の、この句を眺めると、月夜に咲く、二つの紫陽花の花を思い浮かべていた。幾年も星霜を重ねて、年月が経った今日この頃、花二つの紫陽花の意味は、一つの花は詩情、一つの花は画情をさすのであろうかと、こう、思いめぐらすようになってきた。それとも、二つの花は、人と花、芸と人、恋人二人、現実と浪漫、、それとも、そのほかの、さまざまな深い思いが、花二つの中に、込められているのかも知れないと思ったりする」。と、いろいろに読める句だ。今年も、そろそろ紫陽花の季節が終わろうとしている。『父の肖像2』(2004・かまくら春秋)にて偶見。(清水哲男)


July 0572008

 紫陽花の浅黄のまゝの月夜かな

                           鈴木花蓑

黄色は、古くは「黄色の浅きを言へるなり」(『玉勝間』)ということだが、浅葱色とも書いて、薄い藍色を表すようになった。今が盛りの紫陽花の、あの水よりも水の色である滴る青は、生花の色というのが不思議な気さえしてくる。梅雨の晴れ間、月の光に紫陽花の毬が浮かんでいる。赤みがかった夏の月からとどく光が、ぼんやりと湿った庭全体を映し出して、山梔子の白ほどではないけれど、その青が闇に沈まずにいるのだろう。紫陽花と一緒になんとなく雨を待っている、しっとりとした夜である。初めてこの句を「ホトトギス雑詠撰集・夏の部」で読んだ時は、あさぎ、とひらがなになっていて、頭の中で、浅葱、と思ったのだったが、こうして、浅黄、となっていると、黄と月が微妙に呼び合って、ふとまだ色づく前の白っぽい色を薄い黄色と詠んだのかとも思った。が、じっと思い浮かべると、やはり紫陽花らしい青ではないかと思うのだった。代表句とされる〈大いなる春日の翼垂れてあり〉の句も印象深い。「新日本大歳時記・夏」(2000・講談社)所載。(今井肖子)


June 0162009

 紫陽花を活けてナースのサウスポー

                           姉崎蕗子

者はベテランの看護師だ。朝のナースの詰め所で、後輩が紫陽花を活けている。普段はさして気にも留めていなかったけれど、彼女ないしは彼は左利きだった。右利きの人間には左利きの人のちょっとした所作も器用に写るものだから、作者も思わず見入っているのだろう。左手の動きが、まことにしなやかで頼もしく思われる。左利きとせず、あえて「サウスポー」と野球用語を使ったことで、腕の動きがクローズアップされた。紫陽花のざっくりとした持ち味も、生きてくる。なんでもない日常の一場面だが、職場の充実した雰囲気がよく伝えられている。ところで、活けているのは女だろうか男だろうか。英語の「ナース(nurse)」は両者を言うから、どちらなのかはわからない。これを「看護師」と訳しても同様だ。この国では、つい最近まで「看護婦」という言葉が生きていたのに、男女差別になるからと追放してしまったのは、私には解せない。「看護婦」のどこが差別なのか。単なる区別だろうに……。掲句のナースは、野球用語が使われてはいても、女性だと思う。このしなやかさとたくましさを備えていることで、昔から看護婦は頼もしくも美しかった。『蕗子』(2009)所収。(清水哲男)


June 1062009

 紫陽花に馬が顔出す馬屋の口

                           北原白秋

陽花が咲きはじめている。紫陽花はカンカン照りよりはむしろ雨が似合う花である。七変化、八仙花―――次々と花の色が変化して、観る者をいつまでも楽しませてくれる。花はてんまりによく似ているし、また髑髏にも似た陰気をあたりに漂わせてくれる。“陽”というよりは“陰”の花。それにしても、馬屋(まや)の入口にびっしり咲いている紫陽花と、長い馬の顔との取り合わせは、虚をついていて妙味がある。今をさかりと咲いている紫陽花の間から、のっそりと不意に出てくる馬の顔も、白秋にかかるとどこかしら童謡のような味わいが感じられるではないか。そういえば白秋のよく知られた童謡のなかでは、野良へ「兎がとんで出」たり、蟹の床屋へ「兎の客」がやってきたりする。この句はそんなことまで想起させてくれる。紫陽花の句では、安住敦の「あぢさゐの藍をつくして了りけり」が秀逸であると私は思う。白秋の作句は大正十年(小田原時代)からはじまっており、殊に関東大震災を詠んだ「震後」三十八句は秀抜とされている。その一句は「日は閑に震後の芙蓉なほ紅し」。ほかに「白雨(ゆふだち)に蝶々みだれ紫蘇畑」「打水に濡れた小蟹か薔薇色に」などに白秋らしい色彩が感じられる。句集に『竹林清興』(1947)がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2762009

 雨傘に入れて剪る供花濃紫陽花

                           笹川菊子

年の紫陽花は色濃い気がしませんか、と幾度か話題になる。東京は梅雨らしい天気が続いているのでそう思うのかもしれないが、確かに濃い青紫の紫陽花の毬が目をひく。本棚の整理をしながら読んでいた句集にあったこの句、雨傘、に目がとまった。雨は雨粒、傘は水脈を表し、共に象形文字だというが、見るからに濡れてるなあ、そういえばこの頃あまり使わない言葉だけど、と。庭を見ながら、紫陽花を今日の供花にと決めた時から、その供花に心を通わせている作者。その心情が、雨傘に入れる、という表現になったのだろう。もう濡れてしまっているけれど、だからこそ滴る紫陽花の色である。作者の甥の上野やすお氏がまとめられたこの句集には、星野立子一周忌特集の俳誌『玉藻』(昭和六十年・三月号)に掲載された文章が収められている。朝日俳壇選者であった立子の秘書として、立子と、同時期に選者であった中村草田男、石田波郷との和やかな会話など書かれている興味深い文章の最後は、「お三人の先生は、もうこの世には在さないのである。」の一文でしめくくられていた。『菊帳余話』(1998)所収。(今井肖子)




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