橋本多佳子の句

May 2551997

 ひと日臥し卯の花腐し美しや

                           橋本多佳子

暦の四月は「卯の花月」。昔の人は、この頃に咲く卯の花を腐らせるような霖雨のことを「卯の花腐し(うのはなくたし)」と呼んだ。健康な人にとってはまことに陰欝な雨でやりきれないが、病者にはむしろみずみずしい生気とうつる。臥(ふ)している作者は、降りつづく雨の庭を飽かず眺めながら、心に染みいるような美しさを味わっている。心なしか体調もよくなってきた感じ……。妙なことを言うようだが、長患いは別として、人間たまには寝込むことでストレスの解消になる。煩瑣な日常生活と、否応なく切り離されてしまうからだろう。(清水哲男)


August 1481997

 踊りゆく踊りの指のさす方へ

                           橋本多佳子

りといえば、俳句では盆踊りのことを言う。秋の季語。踊りの句はたくさんあるが、すぐに気がつくのは、踊りの輪に入らずに詠んだ句がほとんどだということ。男の句になると、昔から特に目立つ。俳人はよほどシャイなのだろうか。たとえば森澄雄の「をみならにいまの時過ぐ盆踊」や鷹羽狩行の「踊る輪の暗きところを暗く過ぎ」など佳句であることに間違いはないが、なんとなく引っ込み思案が気取っているような恨みは残る。その点で、この句には参加意識が感じられる。傍見しているとも読めるけれど、踊りの輪の中の実感と読むほうが面白い。この指のクローズアップは踊り手ならではの感覚から出ているのだと思う。「方へ」は「かたへ」と読む。(清水哲男)


March 2031998

 鴬やかまどは焔をしみなく

                           橋本多佳子

は春。鴬が鳴いている。竃の火はごうごうと焔をあげている。この他に何を望むことがあろうか。身心ともに充実した感じが、心地よく伝わってくる。日常生活のなかの充足感を、このように具象的にうたった句は意外に少ない。というよりも、たぶん幸福な感情をそのまま直截にうたうこと、それ自体が「文芸」には至難の業なのである。不得意なのだ。だからこそ、この句は際立つ。まぶしいほどだ。敗戦一年前の1944年(昭和19年)の作品。このとき、作者は大阪から奈良西大寺近くの菅原へ疎開していた。夫をなくしてから病気がちであった作者も、ここ菅原の地で健康を回復している。それゆえの掲出句の元気のよさなのだが、そんなことは知らなくても、十分にこの句の幸福感は読者のものとなるはずである。『信濃』(1947)所収。(清水哲男)


February 0821999

 春空に鞠とゞまるは落つるとき

                           橋本多佳子

(まり)とあるけれど、手鞠の類ではないだろう。私が子供だったころ、女性たちはキャッチ・ボールのことを「鞠投げ」と呼んだりして、我等野球小僧をいたく失望させたことを思い合わせると、おそらく野球のボールだと思われる。句の鞠の高度からしても、手鞠ではありえない。カーンと打たれた野球ボールが、ぐんぐんと昇っていく。もう少しで空に吸いこまれ、見えなくなりそうだなと思ったところで、しかし、ボールは一瞬静止し、今度はすうっと落ちてくる。春の空は白っぽいので、こういう観察になるのだ。それにしても、「鞠とゞまるは落つるとき」とは言いえて妙である。春愁とまではいかないにしても、暖かくなりはじめた陽気のなかでの、一滴の故なき小さな哀しみに似た気分が巧みに表出されている。昔の野球小僧には、それこそ「すうっと」共感できる句だ。「鞠」から「ボール」へ、ないしは「球」へ。半世紀も経つと、今度は「鞠」のほうが実体としても言葉としても珍しくなってきた。いまのうちに注釈をつけておかないと、他にもわからなくなりそうな句はたくさんある。俳句であれ何であれ、文学に永遠性などないだろう。いつか必ず「すうっと」落ちてくる。(清水哲男)


May 2751999

 いとけなく植田となりてなびきをり

                           橋本多佳子

植えが終わって間もない田。植えられた早苗はまだか細くも薄緑色で、鏡のような水田を渡る五月の風に、いささか頼りなげになびいている。しばらくすると、これら「いとけなき」ものたちも成長して、見事な青田に変わっていくわけだ。さながら人間の赤ん坊を見ているような思いから、多佳子は「いとけなく」と詠んでおり、一見平凡な形容とも受け取れるが、生きとし生けるものへの愛情こまやかな優れた表現だと思う。青年期以降、私の周辺には水田がなく、田圃のなかで育った人間としては、寂しい思いをしてきた。たまさかの旅で、車窓から田圃が見えると、反射的にいつも目が行く。田圃で働く人の姿がちらと見えると、目に焼きつく。先日の遠野の旅では、実にひさしぶりに植田を間近に見ることができて、観光用の名所や建物などよりも、よほど目の保養になった。立ち止っては、写真に撮ることもした。こんな旅の者もいるのである。我が山陰の田舎でも、田植えが終わったころだ。終わると、大人たちは「泥落とし」と称し、集まって一杯やっていたことを思いだす。(清水哲男)


September 0191999

 九月来箸をつかんでまた生きる

                           橋本多佳子

佳子は生来の病弱で、とくに夏の暑さには弱かったという。したがって、秋到来の九月は待ちかねた月であった。涼しくなれば、食欲もわいてくる。「さあ、また元気に生きぬくぞ」の気概に溢れた句だ。それにしても「箸をつかんで」は、女性の表現としては荒々しい。気性の激しさが、飛んで出ている。なにしろこの人には、有名な「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」がある。この句を得たのは五十一歳。「箸をつかんで」くらいは、へっちゃらだったろう。しかも、この荒々しさには少しも嫌みがなく、読者もまた作者とともに、九月が来たことに嬉しさを覚えてしまうのである。九月来の句には感傷に流れるものが多いなかで、この句は断然異彩を放っている。ちなみに、若き日の多佳子は、これまた感情の起伏の激しかった杉田久女に俳句の手ほどきを受けている。「橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人」と言ったのは、山口誓子である。(清水哲男)


November 08111999

 山の子が独楽をつくるよ冬が来る

                           橋本多佳子

楽は新年の季語だが、ここでは「冬が来る」のだから「立冬」に分類する。文字どおりの「山の子」であった私には、思い当たる句だ。山国への寒さの訪れは早い。いかな「山の子」でも、この季節になると山野を駆けめぐるなどの遊びはしなくなる。遊び場を、室内に切り替えるのだ。女の子はお手玉遊びをやっていたようだが、男の子は独楽回しに熱中した。農家には土間がある。そこで回す。村の万屋(よろずや)には出来合いの独楽も売ってはいたけれど、誰も買わなかった。もっと安い鉄の心棒と輪だけのセットを買ってきて、本体は小刀で丹念に木を削って作った。仕上げるのには、何日もかかった。ただし、作者が見たのはもっと素朴な独楽づくりの様子だったのかもしれない。木の実に爪楊枝のような細い木をさすものとか、丸い厚紙にマッチ棒の心棒をさすだけのものとか……。そういうものも作ったが、やはり鉄の心棒と輪とで作った独楽は頑丈だったし、互いにはねとばしあう遊びもできたので、なんだか知らないが「ホンカクテキ」だと思っていた。おかげで、いまでも独楽はちゃんと回せる。もはや、淋しい技術に成り果ててはいるけれど。(清水哲男)


September 0492001

 白桃に入れし刃先の種を割る

                           橋本多佳子

は、食べるのに厄介な果物だ。間違っても丸ごとそのまんまで、見合いの席などには出してはいけない。上手に皮を剥くのも一苦労だし、丸かじりというよりも、いわば「丸吸い」で食べるのがいちばんだと思うが、食べやすいように四半分くらいに切ってからという人もいる。当然にナイフを入れることになるわけだが、ここでも面倒なことには、大きくて堅い「種」がある。もちろん、誰だってそのことを知っているから、刃が当たらないように用心して切りにかかる。用心して刃先を入れると、普通は「白桃の刃を吸ふて静かなる」(高倉亜矢子)のような感触を得る。用心した結果の「静かなる」なのだ。掲句の作者もまた、同じように用心しながらナイフを入れたのだけれど、コツンと「種」に刃先が当たって、自然にはじけそうになっていた「種」が、かすかな衝撃で小気味よく割れてしまったのだった。別に大事件というわけではないし、もとより「種」を割るべく仕組んだ結果でもないのに、なんだか良い心持ちになってしまった。掲句を読んでまっさきにユニークに感じたのは、このようにちっぽけな出来事とも言えない出来事を詠める「俳人」の、そして「俳句」様式自体の神経の独特な伸ばし方である。こういうのを「俳句らしい俳句」って言うんだろうな、きっと……。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


May 1552002

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

                           橋本多佳子

語は「青葉木菟(あおばずく)」で夏。野山に青葉が繁るころ、インドなど南の国から渡ってくるフクロウ科の鳥。夜間、ホーホー、ホーホーと二声で鳴く。都市近郊にも生息するので、どなたにも鳴き声はおなじみだろう。「夫(つま)」に先立たれた一人居の夜に淋しさが募り、亡き人を恋しく思い出していると、どこからか青葉木菟の鳴き声が聞こえてきた。その声は、さながら「死ねよ」と言っているように聞こえる。死ねば会えるのだ、と。青葉木菟の独特の声が、作者の寂寥感を一気に深めている。一読、惻隠の情止みがたし……。かと思うと、同じ青葉木菟の鳴き声でも、こんなふうに聞いた人もいる。「青葉木菟おのれ恃めと夜の高処」(文挟夫佐恵)。「恃め」は「たのめ」、「高処」は「たかど」。ともすればくじけそうになる弱き心を、この句では青葉木菟が激励してくれていると聞こえている。自分を信じて前進あるのみですぞ、と。すなわち、掲句とは正反対に聞こえている。またこれら二句の心情の中間くらいにあるのが、「病むも独り癒ゆるも独り青葉木菟」(中嶋秀子)だ。夜鳴く鳥ゆえに人の孤独感と結びつくわけだが、受け止め方にはかくのごとくにバリエーションがある。ちなみに青葉木菟が季語として使用されはじめたのは、昭和初期からだという。近代的な憂愁の心情に、よく呼応する鳴き声だからだろうか。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


July 1572002

 乳母車夏の怒濤によこむきに

                           橋本多佳子

い空、青い海。激しく打ち寄せる波から少し離れたところに、ぽつんと「よこむきに」置かれている「乳母車」。なかでは、赤ん坊がすやすやと眠っているのだろう。大いなる自然の勢いの前では無力に等しい乳母車の位置づけが、「よこむきに」の措辞で明晰に意識されている。乳母車を止めた母親の、怒濤(どとう)に対する半ば本能的な身構えが「よこむきに」に表われている。はじめて読んだときには、この乳母車が高い崖の上に置かれているのかと思った。はらはらさせられたわけだが、実際には違っていてほっとしたことを思い出す。作者の弁によれば、小田原の御幸が浜で作られた句で、つい娘と話に夢中になり、気がつくと、孫を乗せた乳母車がぽつんと浜におきざりになっていた……。この句からそれこそ思い出されるのは、三橋敏雄の「長濤を以て音なし夏の海」だ。「長濤(ちょうとう)」とは聞きなれない言葉だが、遠くから押し寄せてくる大きな波のこと。この圧倒的な波の勢いとまともに向き合えば、掲句ではまだ見えている海の色や乳母車の色、それに波の打ち寄せる音などが一切消えてしまう。まるで無声映画のように、色も音もなく寄せてくる強大な波の姿だけがクローズアップされ、そのうちに見ている作者までもが消えてしまうのである。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)


December 25122002

 橇がゆき満天の星幌にする

                           橋本多佳子

語は「橇(そり)」で冬。途方もなくスケールが大きく、かつ見事に美しい情景だ。ロマンチックとは、こういうことさ。と、読んだこちらのほうが力みかえりたくなってしまう。昭和ロマンともてはやされた、戦前のシルエット調の挿し絵やカットの類が、作者の頭にはあったのかもしれない。見渡すかぎりの雪原だ。そのなかを「満天の星」を「幌(ほろ)にして」行く小さな黒い橇は、ほとんど進んでいないかのように見える。遠望している作者の耳には、おそらく鈴の音も聞こえていないだろう。まさに、息をのむように美しいシルエットの世界だ。実景というよりも、幻想に近い。いや、実景を幻想にまで引き上げた句と言うべきか。素敵だ。私が育った山陰の村でも、雪が降れば橇の出番があった。しかし、それらはみな木材や炭俵などを運ぶためのもので、どう見てもロマンチックとはほど遠かった。むろん、幌無しだ。馬が引き、牛が引き、そして人も引きという具合。学校帰りに、たまたま通りかかった橇に、よく無断で飛び乗っては叱られたものだ。あれ以来、一度も橇に乗ったことはない。掲句の橇にも実際には幌がついていないのだから、案外、そんな橇だったとも考えられる。だとすれば、より親近感がわいてくる。そして、表現力のマジックを思う。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0332003

 古雛をみなの道ぞいつくしき

                           橋本多佳子

年雛祭になると、詩人・高田敏子の小さい文章を思い出す(池田彌三郎監修『四季八十彩』所載)。なのに、毎年タイミングを逸して、ここに書けないできた。今年こそはというわけで、紹介しておく。詩人は、終戦までの三年ほどを、台湾で生活していた。「引揚げとなったのは、終戦翌年の三月末で雛は飾られたまま、(中略)リュックを背負って家を離れる私達を見送ってくれたのです。/戸口を出るとき振りむくと、家財道具もみな処分してしまった部屋に、雛は明るい静けさで座していられて……私はなぜあのとき、内裏さまだけでもかかえにもどらなかったのかと悔やまれています。雛だけは処分するのもつらく、最後まで飾っていたのですのに……。雛はその後どうなったのでしょう。雛の行くえが心にかかっています」。置き去りにせざるを得なかった雛は、長女の初節句に調えたものだった。その「長女に女の子が生まれて、初節句の雛を求めに売場をめぐっていたとき、娘がいいました。『お母さん、なるべくよいのにしてね、もう戦争もないでしょ。いつまでも大事にしてあげられるのですもの。』」。ところで、掲句の前書は次のようだ。「祖母の雛上野の戦火のがれて今も吾と在り」。多佳子の祖母は、彰義隊の戦いにあっている。戦争戦後の混乱のなかで、このほかにも、雛たちのたどった運命はさまざまだろう。いつくしき雛の歴史は、またいつくしき「をみな」の歴史そのものでもある。NO WAR !「古雛」は「ふるびいな」。『信濃』(1946)所収。(清水哲男)


July 1672003

 爛々とをとめ樹上に枇杷すゝる

                           橋本多佳子

語は「枇杷(びわ)」で夏。実の形、あるいは葉のそれが楽器の琵琶に似ていることからの命名と言われる。掲句の枇杷の樹は野生のものだろう。調べてみると、大分、山口、福井などで、いまでも野生種が見られるそうだ。少年時代、まさにその山口の田舎に枇杷の樹があった。我が家が飲み水を汲んでいた清冽な湧水池の辺に立っており、高さは十メートルほどもあったと思う。葉が濃緑色の長楕円形をしていたせいで、なんとなく陰気な感じを受ける樹だった。でも、その樹に登ったり、実を食べたことはない。池の辺といっても、向こう岸の深い薮のある斜面にあったため、とても子供が近寄れる場所ではなかったからだ。この句を読んで、はじめて枇杷が登れる樹であることを知ったのだった。木刀にするくらいだから、固くて折れる気遣いはない樹なのだろう。その頑丈な樹に、さながら猿(ましら)のようにするすると登って実をもぐや、一心に「すゝ」っている「をとめ」の姿。まるで映画の野生児ターザンの相棒のジェーンみたいだけれど、おそらくこの「をとめ」は少女のことだろうから、ジェーンよりはかなり年下だ。が、その姿はまさに「爛々(らんらん)」たる野性味に溢れていて、その存在感に作者は圧倒されつつも感に入っている。この場合、樹上の人物が少女ではなくて少年だとすると、さしたる野性味は感じられない。ターザン映画でも、なぜかジェーンのほうに野性味があった。不思議だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1492003

 老いよとや赤き林檎を手に享くる

                           橋本多佳子

語は「林檎」で秋。作者、五十歳ころの句と思われる。身体的にか精神的にか、いずれにしても老いの兆しを自覚する年頃だ。句はそうした自覚を跳ね返すように、まだまだ頑張る、頑張れる、ナニクソという気概を詠んでいる。林檎を享(う)けたシチュエーションは、よくわからない。でも、作者が林檎を手渡されたときに、何かを感じたことだけはわかる。この句の鑑賞の要諦は、この「何か」をどう想像するかにあるだろう。私の読みは、こうだ。誰が手渡したのかもわからないが、作者が「何か」を感じたのは、その手渡し方にあったのだと思う。おそらく、周辺には作者よりも若い人たちがいた。このときに、自分に手渡してくれた人の手つきが、なんとなく若い人へのそれとは違っているように感じられたのである。たとえば他の人へよりより丁寧に、あるいは少し会釈をするような仕草で……。ほんの一瞬の微妙な行為でしかないのだけれど、作者はそこに敏感に、ある種の特別扱いを感じてしまった。平たく言えば、老人扱いされたと受け取ったのだ。老いの兆しを自覚している者の過敏な反応かもしれないが、感じたものは感じたのだから「老いよとや」とすかさず反発した。「林檎」の赤は、盛りの色である。この「赤き林檎」のように、私はこれからも人の盛りの生をを生きつづけていく。いってやる。負けてなるものかと、周囲にはさりげないふうを装いながらも、作者の心願は掌の林檎をはったと睨んでいる。美貌で気が強かったと伝えられる多佳子の面目躍如たる句と言うべきか。明日は「敬老の日」。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)


November 03112006

 木の実独楽ひとつおろかに背が高き

                           橋本多佳子

本多佳子は女性にしては長身だったらしい。たくさんの木の実独楽の中で、ひとつだけ細長い奴がいて、回すと重心も定まらずすぐ止まってしまう。うまく回らない木の実独楽がすなわち自分だと多佳子は言っている。「愚かな自分」に向ける目は自己戯画化。大正期以来、虚子のもとで花開いた女流俳人の特徴は、良妻賢母自己肯定型か、育ちの良さ強調のあっけらかん写生派か、男が可愛いと思う程度のお転婆派に分類できる。それは男社会から見た理想的女性像の投影そのものであった。そして官僚や軍人高官、資産家の妻や娘が女流の中心にいた。もっとも詩歌に「興ずる」のは、そういう階層の人たちという社会通念もあった。多佳子も例に洩れず九州小倉の資産家の妻。大正時代に虚子を知り「ホトトギス」に投句。杉田久女に手ほどきを受け、後に山口誓子に師事する。久女の「自分」に執着する態度と誓子のロマンが、それまでの女流にないこの句のような「自己認識」を作り出したように思う。この句と同様背が高いことについての屈折した感情を詠った句に、飯島晴子の「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」ある。背の高い哀しみはあるにせよ、舞妓である分だけ晴子の「あはれ」は美的情緒があり華麗。多佳子の「おろか」はナマの自分の肉体に向けられていて赤裸々である。『紅絲』(1951)所収。(今井 聖)


May 3052007

 骨までもをんなのかたち多佳子の忌

                           阿部知代

のう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)


June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 2772007

 一瀑を秘めて林相よかりけり

                           京極杞陽

えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)


April 0442008

 母校の屋根かの巣燕も育ちおらむ

                           寺山修司

らむの「お」は原句のまま。「小学校のオルガンの思い出」の前書がある。破調の独特の言い回しに覚えがあり、どこかで見た文体だと思ったら橋本多佳子の「雀の巣かの紅絲をまじへをらむ」に気づいた。かの、おらむがそのままの上に、雀の代りに燕を用いた。多佳子の句は昭和二十六年刊の『紅絲』所収。修司のこの句は二年後の二十八年。そもそも多佳子が句集の題にしたくらいの句であるから修司が知らないで偶然言い回しが似たということは考えがたい。修司、高校三年生の時の作品である。内容を比べてみると、多佳子の句は、結婚する男女は赤い糸で結ばれているという故事を踏まえ、切れてしまった赤い糸が今雀の巣藁の中に混じっているという発想。巣の中の赤い糸に見る即物の印象から一気に私小説のドラマに跳ぶ。修司の方はきわめて一般的な明解な思い。しかし、母校という言い方にしても、「かの」にしてもこの視点はすでに卒業後何年も経ってのものを演出している。十八歳にしてこの演出力はどうだ。典拠を模倣し、演出し、一般性をにらんで娯楽性を考える。寺山の芝居も映画もこのやり方で多くのファンを掴んだ。「だいだいまったく新しい表現なんてあるのかい」という寺山の声が聞こえてくるようだ。しかし、と僕はいいたいけれど。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)


July 1572009

 炎天や裏町通る薬売

                           寺田寅彦

句に限らない、「炎天」という文字を目にしただけでも、暑さが苦手な人はたちまち顔を歪めてしまうだろう。梅雨が明けてからの本格的な夏の、あのカンカン照りはたまったものではない。商売とはいえ暑さに負けじと行商してあるく薬売りも、さすがに炎天では、自然に足が日当りの少ない裏町のほうへ向いてしまう。そこには涼しい風が、日陰をぬって多少なりとも走っているかもしれないが、商売に適した道筋ではあるまい。炎天下では商売も二の次ぎにならざるを得ないか。寅彦らしい着眼である。行商してあるく薬売りは、江戸の中期から始まったと言われている。私などが子どものころに経験したのは、家庭に薬箱ごと預けておいて年に一回か二回やってくる富山の薬売りだった。子どもには薬よりも、おみやげにくれる紙風船のほうが楽しみだった。温暖化によって炎天は激化しているが、「裏町」も「薬売」も大きく様変わりしているご時世である。炎天と言えば橋本多佳子の句「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」も忘れがたい。『俳句と地球物理学』(1997)所収。(八木忠栄)


September 0292009

 稲妻や白き茶わんに白き飯

                           吉川英治

がみのる肝腎な時季に多いのが稲妻(稲光)である。「稲の夫(つま)」の意だと言われる。稲妻がまさか稲をみのらせるわけではあるまいが、雷が多い年は豊作だとも言われる。科学的根拠があるかどうかは詳らかにしない。しかし、稲妻・稲光・雷・雷鳴……これらは一般的に好かれるものではないが、地上では逃がれようがない。稲妻を色彩にたとえるならば、光だからやはり白だろうか。その白と茶わんの白、飯の白が執拗に三つ重ねになっている。しかも、そこには鋭い光の動きも加わっている。中七・下五にはあえて特別な技巧はなく、ありのままの描写だが、むしろ「白」のもつ飾らないありのままの輝きがパワーを発揮している。外では稲妻が盛んに走っているのかもしれないが、食卓では白い茶わんに白いご飯をよそってただ黙々と食べるだけ、という時間がそこにある。ようやく「白き飯」にありつけた戦後の一光景、とまで読みこむ必要はあるまい。特別に何事か構えることなく、しっかり詠いきっている句である。橋本多佳子のかの「いなびかり北よりすれば北を見る」は、あまりにもよく知られているけれど、永井荷風には「稲妻や世をすねて住む竹の奥」という、いかにもと納得できる句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2872010

 釣りをれば川の向うの祭かな

                           木山捷平

と言えばこの時季、夏である。俳句では言うまでもなく、春は「春祭」、秋は「秋祭」としなければならない。祀=祭の意味を逸脱して、今や春夏秋冬、身のまわりには「まつり」がひしめいている。市民まつり、古本まつり、映画祭……。掲句の御仁は、のんびりと川べりに腰をおろして釣糸を垂れているのだろう。祭の輪に加わることなく、人混みにまじって汗を拭きながら祭見物をするでもなく、泰然と自分の時間をやり過ごしているわけだ。おみこしワッショイだろうか、笛や鉦太鼓だろうか、川べりまで聞こえてくる。魚は釣れても釣れなくても、どこかしら祭を受け入れて、じつは心が浮き浮きしているのかもしれない。私が住んでいる港町でも、今年は氏神様の三年に一度の大祭で、川べりや橋の欄干に極彩色の大漁旗がずらりと立てられていて、それらが威勢よく風にはためいている。浜俊丸、かねはち丸、八福丸……などの力強い文字が青空に躍っている。氏子でもなんでもなく、いつも祭の輪の外にいる当方でさえ、どことなく気持ちが浮ついて、晩酌のビールも一本余計になってしまうありさま。三年に一度、まあ悪くはないや。漁港では今日も大きなスズキがどんどん箱詰めされて、仲買人や料亭へ配送されて行く。さて、これから当地名物のバカ面踊りや、おみこしワッショイでも見物してくるか。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 10112010

 たそがれてなまめく菊のけはひかな

                           宮澤賢治

と言えば、競馬ファンが一喜一憂した「菊花賞」が10月24日に京都で開催された。また、今月中旬・下旬あたりまで各地で菊花展・菊人形展が開催されている。菊は色も香も抜群で、秋を代表する花である。食用菊の食感も私は大好きだ。いつか今の時季に山形へ行ったら、酒のお通しとしてどこでも菊のおひたしを出されたのには感激した。たそがれどきゆえ、菊の姿は定かではないけれど、その香りで所在がわかるのだ。姿が定かではないからこそ「なまめく」ととらえられ、「けはひ」と表現された。賢治の他の詩にもエロスを読みとることはできるけれど、この「なまめく」という表現は、彼の世界として意外な感じがしてしまう。たしかに菊の香は大仰なものではないし、派手にあたりを睥睨するわけでもない。しかし、その香がもつ気品は人をしっかりとらえてしまう。そこには「たそがれ」という微妙な時間帯が作用しているように思われる。賢治の詩には「私が去年から病やうやく癒え/朝顔を作り菊を作れば/あの子もいつしよに水をやり」(〔この夜半おどろきさめ〕)というフレーズがあるし、土地柄、菊は身近な花だったと思われる。賢治には俳句は少ないが、菊を詠んだ句は他に「水霜のかげろふとなる今日の菊」がある。橋本多佳子にはよく知られた「菊白く死の髪豊かなるかなし」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 2532011

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

                           橋本多佳子

服が似合いスラリとして背が高い。今でいうとモデル体型の多佳子。恋の句に秀句の多い多佳子。彼女の句の中のこういう「女」に「天狼」の誰彼がまず瞠目したことは容易に想像できる。殊に西東三鬼などはこういう句を喜んだだろうと思う。雄鹿とあらあらしき息を吐く女性という対比で見ればこの句、性的なテーマとして読まれても無理はない。むしろそのことがこの句の価値を高めていると言ってもいい。この時代にここまで「性」を象徴化して詠った俳人はいない。否、多佳子のあとは誰もいないといってもいいほどだ。俗に堕ちないのは「あらあらしき息す」という7・3のリズムが毅然として作品の品格を立たしめていること。『紅絲』(1951)所収。(今井 聖)


March 2732013

 春潮や渚に置きし乳母車

                           岸田劉生

もとにある歳時記には、「春潮(しゆんてう)」は「あたたかい藍色の海の水。たのしくゆたかな、喜びの思いがある」と説明されている。陽気が良くなり、春の海の表情もようやく息を吹き返して、どこかしらやわらいでくる。暖かさあふれる渚に置かれた乳母車にやわらかい陽がこぼれ、乗っている赤ん坊も機嫌良くねむっているようにさえ感じられる。穏やかな春のひとときである。橋本多佳子の名句「乳母車夏の怒濤によこむきに」とは対照的な世界と言える。劉生は言うまでもなく「麗子像」でよく知られた画家だが、詩や俳句、小説までも残している。「五、七、五、七、七などの調子の束縛はそれ自身が一つの美を出す用材になる。手段になる。ここでは縛られることが生かされる事になる」と書いている。俳句においても、「縛られること…云々」には私も同感である。鵠沼、京都などに住んだ後、鎌倉に転居してから掲句や「大仏へ一すじ道や風かほる」が「ホトトギス」「雲母」などに入選している。内藤好之『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)




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