April 181997
靴みがきうららかに眠りゐたりけり
室生犀星
作ってみるとすぐに分かるが、「うららか」や「のどか」といった季語を使うのはとても難しい。季語自体が完璧な世界を持っているからだ。それで説明がすべてすんでしまっているからである。だから、たいていの場合は、屋上屋を重ねたようなあざとい句か月並みなそれに堕してしまう。その点、この句は自然とは無縁の都会に「うららか」を発見していて、まずは及第点か。おお、懐かしの「東京シューシャイン・ボーイ」よ、いま何処。彼らはみな、とっくに還暦は越えている。(清水哲男)
April 171997
草餅に異な振舞や鯲汁
服部土芳
ご馳走になるのは嬉しいが、草餅と鯲汁(どじょうじる)がいっしょに出てきた。現代ならば、さしずめケーキに味噌汁が添えられているようなものだ。一瞬、何故なんだと挨拶に困ってしまう。ミスマッチである。しかし、いつの時代にもその家の流儀というものはあるわけで、今では西瓜に砂糖添え程度ならザラだろう。もっとも、コーラを飲みながら寿司を食べる現代っ子たちには、草餅と鯲汁だって平気かもしれない。となると、この句の面白さを理解できる人は、遠からず存在しなくなってしまうということになる。土芳は伊賀上野藩士。蕉門。(清水哲男)
April 161997
頭悪き日やげんげ田に牛暴れ
西東三鬼
言われてみると、私たちには頭の「悪い日」と「よい日」とがあるような気がする。運の「よい日」と「悪い日」とがあるように……。そんな頭の悪い憂鬱な日に、美しいげんげ田を眺めていると、猛り狂った牛が暴れこんできた。せっかくの紫雲英が踏み荒らされて台無しである。昔の漫才師・花菱アチャコの台詞ではないけれど、「もうムチャクチャでござりまするわ」の図。よくよくツイてない日だと作者はうなだれている。読者にはそこが笑えるし、そこで楽しくなる。もっとも他方では、この句を抽象的に精神の劇として読もうとする人もいると思う。が、このまま素直に実景として受けとっておくほうが、私はそれこそ「頭」にも「身体」にもよいと思うのである。(清水哲男)
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