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March 2031997

 嫁して食ふ目刺の骨を残しつつ

                           皆吉爽雨

の字は「か」と発音する。二世代(ないしは三世代)同居の家に嫁いできて、まだお客様待遇の間の新妻の膳に目刺しが出された。さあ、困った。いきなり頭からバリバリやるのははしたないし、かといって残すのも気がひける。結局は、少しずつ端から小さく噛んで、骨を残しながら食べることにした。まさに、新妻悪戦苦闘の図。「味なんてしやしない」。そして、その姿を見るともなく見ている家人(作者もそのひとりだ)の鋭い目。いまどきの若い女性なら、頓着せずに食べてしまうのかもしれないが、昔の嫁たるものはかくのごとくに大変であった。蛇足ながら、作者の皆吉爽雨は、私が中学生のときに下手な句を投稿していた「毎日中学生新聞」の選者だった。よく採っていただき、いい人だなと思っていたけれど、この句のように、けっこう意地悪な目も持ったオジサンでもあったわけだ……。現代俳人・皆吉司の祖父。(清水哲男)


December 27121997

 輪飾のすいとさみしき買ひにけり

                           皆吉爽雨

角などのちょっとした空き地に、仮設された飾売の店が登場すると、歳末気分は一段と盛り上がる。クリスマス・セールでも同じことだが、私たちの生活感覚は、商売人の感覚によって染め上げられるところも大きい。飾売はたいてい盛大に焚火をし、大声で景気をつけている。買うつもりもないのだけれど、なんとなく吸い寄せられてしまうときがある。作者も、たぶんそんな気分だったのだろう。輪飾にしても注連縄にしても、清楚な美しさはあるが、華美なものではない。見ているうちに、歳末特有の感傷も手伝って、それらがふっと(すいと)淋しいものにも見えてくる。それで、買う気になったというわけだが、年の瀬の人の心の微妙な動きをとらえた名句だと言えよう。余談だが、中学時代に投稿していた「毎日中学生新聞」の俳句の選者が爽雨だった。毎週のように採ってもらったことを思い出す。現代俳人の皆吉司は、爽雨の実孫にあたる。はるばると来つるものかな。(清水哲男)


July 0471998

 河鹿鳴く夕宇治橋に水匂ふ

                           皆吉爽雨

都は宇治川畔の美しい夏の夕暮れの風情。絵葉書にしたいような旅人の歌だ。作者は中洲である塔の島あたりから、宇治橋を眺めているのだろうか。高い宇治橋の上からでは、水の流れる音しか聞こえないはずだからだ。そして何をかくそう、私がこの宇治橋の畔にひょろりと登場(笑)したのは、今から四十年前のことであった。当時の京都大学の新入生は、みな宇治分校なる「チョー田舎のボロ校舎」に集められたからである。で、最近この句に出会って考えるに、はたして宇治川辺りで河鹿が鳴いていたかということだが、まったくもって記憶がない。橋のたもとに出ていた屋台で、毎晩キャベツだけを肴に(なにしろキャベツは無料だったから)、共に飲んだくれていた佃学が生きていたら確かめようもあるのだけれど、それも適わない。大いに河鹿は鳴いていたのかもしれないが、旅人と違って、住みついた人間の耳や目は環境に慣れ過ぎてしまい鈍感になるので、こういうことになってしまう。一昨年の夏、多田道太郎さんのお宅をベースに、余白句会の仲間で宇治を訪れた。もちろん宇治橋も見に行った(!)が、もはやこの句のような美しさとは完璧に無縁であった。(清水哲男)


July 3071999

 暑気中りどこかに電気鉋鳴り

                           百合山羽公

烈な暑さが身体に命中してしまった。いわゆる「暑さ負け」(これも季語)の状態が「暑気中り(しょきあたり)」だ。夏バテよりも、もう少し病気に近いか。夏には元気はつらつとした句が多い反面、とても情けない句も結構たくさんある。「暑気中り」をはじめ、「寝冷え」「夏の風邪」「水中り」「夏痩」「日射病」「霍乱(かくらん)」「汗疹(あせも)」など、身体的不調を表現する季語も目白押しだ。不調に落ち込んだ当人は不快に決まっているが、傍目からはさして深刻に見えないのは、やはり夏という季節の故だろう。掲句もその意味で、作者にとってはたまったものではない状態だが、元気な人にはどこかユーモラスな味すら感じられるだろう。そうでなくともぐったりとしている身に揉み込むように、どこからか電気鉋(かんな)のジーッシュルシュルというひそやかな音が、一定のリズムのもとに聞こえてくる。辛抱たまらん、助けてくれーっ、だ。皆吉爽雨には「うつぶして二つのあうら暑気中り」があって、こちらの人は完璧にノビている。こんな句ばかりを読んでいると、当方が「句中り」になりそうである。(清水哲男)


October 21101999

 万太郎が勲章下げし十三夜

                           長谷川かな女

宵の月が「十三夜」。陰暦八月十五日の名月とセットになっていて「後(のち)の月」とも言い、大昔には十五夜を見たら十三夜も見るものとされていたそうだ。美しい月の見納め。風雅の道も大変である。で、片方の月しか見ないのを「片見月」と言ったけれど、たいていの現代人は今宵の月など意識してはいないだろう。それはともかく、十三夜のころは寒くなってくるので、ものさびしげな句が多い。「りりとのみりりとのみ虫十三夜」(皆吉爽雨)、「松島の後の月見てはや別れ」(野見山朱鳥)。そんななかで、この句は異色であり愉快である。「万太郎」とは、もちろん久保田万太郎だろう。秋の叙勲か何かで、万太郎が勲章をもらった(ないしは、もらうことになった)日が十三夜だった。胸に吊るした晴れがましい勲章も、しかし十三夜の月の輝きに比べると、メッキの月色に見えてしまう。ブリキの勲章……。かな女は、そこまで言ってはいないのだけれど、句には読者をそこまで連れていってしまうようなパワーがある。勲章をもらった万太郎には気の毒ながら、なんとなく間抜けに思われてくる。寿ぎの句だが、寿がれる人物への皮肉もこめられていると言ったら、天上の人である作者は否定するだろうか。にっこりするだろうなと、私は思う。(清水哲男)


January 2412000

 日脚伸ぶ夕空紺をとりもどし

                           皆吉爽雨

なみに、今日の東京の日没時刻は16時59分。冬至のころよりは30分近く、夕刻の「日脚」が伸びてきた。これからは、少しずつ太陽の位置が高くなって、家の奥までさしこんでいた日光が後退していく。それにつれて、今度は夕空の色が徐々に明るくなり「紺」を取り戻すのである。この季節に夕空を仰ぐと、ひさしぶりの紺色に、とても懐しいような感懐を覚える。「日脚伸ぶ」という季語を、空の色の変化に反射させたセンスは鋭い。まさに「春近し」の感が、色彩として鮮やかに表出されている。私などは、本当の春よりも、新しい季節が近づいてくるこうした予感のほうに親しみを覚える。単なるセンチメンタリストなのかもしれないが、たまさか「よくぞ日本に生まれけり」と思うのは、たいていが移ろいの季節にあるときだ。一方、病弱だった日野草城には「日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり」という感慨があった。本音である。「生きたい」という願望が、自然の力によって「生かされる」安息感に転化している。病弱ではなくとも、「いのち」のことを思う人すべてに、この句は共感を呼ぶだろう。(清水哲男)


December 28122000

 書をはこびきて四壁なり煤ごもり

                           皆吉爽雨

払い(すすはらい)の際に邪魔にならないよう、年寄りや病人が一室に籠ることを「煤ごもり」とか「煤逃げ」などと言う。足手まといになる子供らにも言うし、手伝わずに威張って自室に籠っている一家の主人にも言ったようだ。ただし、煤ごもりに用いられる部屋には、他の部屋の家具類が一時置き場として運び込まれるから、ゆっくりできる気分にはなれない。まさに「四壁」状態となる。つまり、普通の状態だと、部屋にはドアや襖などの出入り口があるので「三壁」。揚句の場合には、書物が出入り口にまでうずたかく積まれてしまっているので、どう見ても「四壁」状態とあいなったわけだ。出るに出られない。これでは籠っているのだか、押し込まれているのだかわからんなと、たぶん作者は苦笑している。ある程度住宅が広くないと、こういうことはできない。だから私には経験はないのだが、「煤ごもり」ではなく「煤逃げ」という言葉を拡大解釈すれば、ないこともない。何度か大掃除の現場から逃走して、映画館に籠ったことがあった。むろん親には別の理由をつけての話で、そんなときの映画には、さすがに身が入らなかった。そうした後ろめたい理由さえなければ、押し詰まってからの映画館は快適だ。大晦日は、特にお薦め。客が少ないからである。一度だけ、たった一人だったこともある。たしか、東京駅の横っちょにあったちっぽけな小屋(業界用語なり)だった。そうなると、逆にとても落ち着いては見ていられない気分だったけれど(笑)。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 14122001

 冬帽や画廊のほかは銀座見ず

                           皆吉爽雨

前の句だろうか。時間がなくて、調べられなかった。当時の都会のいっぱしの男は、好んで中折れ帽をかぶったようだ。昔の新聞の繁華街の様子を写真で見ると、そう思える。だとすれば、作者の「冬帽」も中折れ帽だろう。脱ぐときは、ちょいと片手でつまむようにして脱ぐ。そこに、その人なりのしゃれっ気も表われる。句意は明瞭。寒い中、それでも作者が銀座に出かけていくのは画廊が唯一の目的であり、その他の繁華には無関心だと言うのである。「冬帽」と「画廊」との結びつきの必然性は、女性とは違って、男が画廊に入るときには必ず帽子を脱ぐことによる。それから、室内の帽子掛けにかける。銀座は、昔から画廊の多い街だ。一箇所を見終わると、すぐ隣りのビルに入ったりする。次々と訪れるたびに帽子を脱ぐので、どうしても「冬帽」が、つまむ手に意識されるというわけだ。繁華には目もくれず絵画に没頭する作者の気概と自負が、帽子を扱う微妙な所作に収斂されているように読めて面白い。いつもの余談になるけれど、私が俳人のなかで、どなたかを「先生」と呼ぶことがあるとすれば、作者はその筆頭に来る。一度もお会いしたことはなかったが、先生は環境の激変に翻弄されていた私の少年期に、拙い投稿句をいつも「毎日中学生新聞」に載せてくださった。今日までの私の俳句愛好は、爽雨先生に発している。平井照敏編『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1862002

 蛇苺いつも葉っぱを見忘れる

                           池田澄子

語は「蛇苺(へびいちご)」で夏。おっしゃる通り。たまに蛇苺を見かけても、ついつい派手な実のほうに気をとられて、言われてみればなるほど、「葉っぱ」のほうは見てこなかった。こういうことは蛇苺にかぎらず、誰にでも何に対してでも日常的によく起きることだろう。木を見て森を見ず。そんなに大袈裟なことではないけれど、私たちの目はかなりいい加減なところがあるようで、ほんの一部分を認めるだけで満足してしまう。いや、本当はいい加減なのではなくて、目が全焦点カメラのように何にでも自動的にピントがあってしまつたら、大変なことになりそうだ。ものの三分とは目が開けていられないくらいに、疲れ切ってしまうにちがいない。その意味で、人の目は実によくできている器官だと思う。見ようとしない物は見えないのだから。それにしても、やはり葉っぱを見ないできたことは気になりますね。このあたりが、人心の綾の面白さ。ならば、一度じっくり見てやろうと、まことに地味な鬼灯の花にかがみこんだのは皆吉爽雨だった。「かがみ見る花ほほづきとその土と」。その気になったから「土」にまでピントがあったのである。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


January 0112003

 世に在らぬ如く一人の賀状なし

                           皆吉爽雨

ぶん、作者のほうからは、毎年「賀状」を出しているのだ。にもかかわらず、相手からは、今年も来なかった。すなわち、相手は「世に在らぬ如く」に思えるというわけだが、実際にはそんなことはない。ちゃんと「世に在る」ことは、わかっている。しかも、元気なことも知っている。賀状を書かないのが、彼の流儀なのかどうか。とにかく、昔から賀状を寄越したことがない。実は、私にも、そういう相手がいる。同性だ。こちらは気になっているのだから、はがき一枚くらい寄越したっていいじゃないかと、単純に思う。だが、彼からは「うん」でもなければ「すう」でもないのだ。となると年末に、もうこちらから出すのは止めにしようかと、一瞬思ったりもするが、気を取り直して、とりあえずはと、出してしまう。それだけ、当方には親近感がある人なのだ。でも、来ない。そうなると、年々ますます気にかかるのだけれど、どうしようもない。ま、今日も来ないでしょうね。そんな具合に、年賀状には人それぞれに、けっこうドラマチックな要素がある。青春期の異性への賀状などは、その典型だろう。昨年末は調子が悪く、私は書かないままに、多く残してしまった。こんなことは、あまりないことだった。いまだ「世に在る」私としては、今日は仕事から一目散に戻ってきて、年賀状書きに邁進することになるだろう。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 09112004

 かく隙ける隙間風とはわらふべし

                           皆吉爽雨

語は「隙間風」で冬。戦後住宅空間の大変化の一つは、隙間風が入らなくなったことだ。もはや、ほとんどの住居は密閉され、外気と遮断されている。昔は十一月ともなれば、夜の隙間風が心細いばかりに身に沁みたものだ。戸や障子の細い隙間から、鋭くて冷たい風が吹き込んできた。子供の頃の我が家では、壁の隙間からも風が入ってきた。あれは細い隙間から入ってくるので「隙間風」なのだが、掲句の場合には「かく隙ける」というくらいに細くはないところから、吹き込んできている。よほど建て付けの悪い家なのだ。「わらふべし」に漢字を当てれば「嗤ふべし」で、自宅だったら自嘲になるし、他家であれば怒りになる。いずれにしても、呆れるほどの隙間に癇癪を起こしている作者を想像すると、なんとなく可笑しい。これも俳味というものだろう。建て付けが悪いといえば、独身時代に住んだアパートはかなりのものだった。北向きの大きな窓が、どうやってもきちんと閉まらない。いつも、上か下のほうが少し開いたままなので、まさに隙間風様歓迎風の恰好であり、あまり寒い日には部屋でコートも脱がなかったことがある。ちゃちな電気炬燵くらいでは、背中に来る風の冷たさは防ぎようもなかった。で、ある朝目覚めると枕元に白い帯状のものが見えるので、何だろうと思ったら、寝ている間に隙間から吹き込んだ雪がうっすらと積っていたのでした。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 1532005

 蟻穴を出づる尻のみな傷み

                           皆吉爽雨

語は「蟻穴を出づ」で春。「地虫穴を出づ」に分類。「尻」は「いしき」と読ませている。衣服の尻当てのことを、昔は「いしき当て」と言った。春,暖かくなってきて,「蟻」たちが巣穴から出てきた。次々に出てくる彼らの「尻」は、しかし、固い表面の土にこすれて「みな傷(いた)」んでいると言うのだ。無惨というほどではないにしても、新しい生活に入るときには、みなこのように傷を負うのだという示唆は鋭い。そしてまたこの句には、生きとし生けるものの根源的な哀しみのようなものが滲んでいる。一見写生句のようにも思えるが,とうていこれは写生という範疇の叙述ではあり得ない。写生を突き詰めていって,その果てに忽然と生まれた想像の世界とでも言うべきだろうか。爽雨の晩年に詠まれた句で,感じたのは,ここには高齢者でなくては発想できない詩心があるということだった。老人にとっての巡り来る春とは,若年の頃のようにただ楽天的に謳歌できる性質のものではないからだ。春に新生の息吹きを感じるがゆえに,他方では滅びへの感覚も研ぎすまされてくる。それが作者にとっての「尻の傷」というわけだ。たとえ傷を負おうとも,若さはそれを苦もなく乗り越えられる。が、老人は負ったままで、これからも暮らさねばならぬことを知っている。その意識が,蟻たちに向けられたとき、はじめてみずからの不安定な心根をこのように詠み得たということになる。自愛と自虐,慈愛と残酷さが混在したまなざしだ。掲句は作者の孫の皆吉司『どんぐり舎の怪人・西荻俳句手帖』(2005・ふらんす堂)で知った。肉親ならではの爽雨像に、格別の関心をもって読んだ。好著である。句は『声遠』(1982)所収。(清水哲男)


October 26102006

 女湯もひとりの音の山の秋

                           皆吉爽雨

和二十三年、「日光戦場ヶ原より湯元温泉」と前書きのあるうちの一句。中禅寺湖から戦場ヶ原を抜け、湯元温泉に行くまでの道は見事な紅葉で人気のハイキングコース。爽雨(そうう)もこれを楽しんだあと心地よく疲れた身体をのばして温泉につかったのだろう。今は日光からの直通バスで湯元まで簡単に行けるようだが、昔の旅は徒歩が基本。若山牧水の『みなかみ紀行』にも山道を伝って幾日もかけ、山間の温泉を巡る旅が書かれている。湯元は古くからの温泉地。掲句からは鄙びた温泉の静かな佇まいが伝わってくる。温泉の仕切りを隔てた隣から身体に浴びせかける湯の音や木の湯桶を下に置く音がコーンと響いてくる。「隣も一人。」旅の宿に居合わせ、たまたま自分と同じ刻に湯につかっている女客。顔も知らず、たぶん言葉を交わすこともなく別れてしまうであろう相手の気配へかすかな親しみを感じている様子が「ひとりの音」という表現から伝わってくる。ひそやかなその音は湯殿に一人でいる作者とともに読み手の心にも響き、旅情を誘う。「山の秋」という季語に山間の冷涼な空気と温泉宿を包んでいる美しい紅葉が感じられる。『皆吉爽雨句集』(1968)所収。(三宅やよい)


May 0852010

 葉桜や橋の上なる停留所

                           皆吉爽雨

留所があるほどなので、長くて広い橋だろう。葉桜の濃い緑と共に、花の盛りの頃の風景も浮かんでくる。最近は、バス停、と省略されて詠まれることも多い、バス停留所。こうして、停留所、とあらためて言葉にすると、ぼんやりとバスを待ちながら、まっすぐに続いている桜並木を飽かずに眺めているような、ゆったりした気分になる。大正十年の作と知れば、なおさら時間はゆっくり過ぎているように思え、十九歳で作句を始めた爽雨、その時二十歳と知れば、目に映るものを次々に俳句にする青年の、薫風を全身に受けて立つ姿が思われる。翌十一年には〈枇杷を食ふ腕あらはに病婦かな〉〈ころびたる児に遠ころげ夏蜜柑〉など、すでにその着眼点に個性が感じられる句が並んでいて興味深い。『雪解』(1938)所収。(今井肖子)


August 2882015

 蕗を負ふ母娘の下山夜鷹鳴く

                           皆吉爽雨

鷹は別名蚊吸鳥といって夜行性で夕刻から活動して飛びながら蚊や蛾などの昆虫を捕食する。その鳴き声はキョッキヨッキョッと忙しく、一種凄みのある鳴き方である。蕗は山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、林の際などで多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風があまり強くない土地を好み繁殖する。蕗は山菜として独特の香りがある薹や葉柄、葉を食用とする。蕗の薹は蕾の状態で採取したものを、天ぷらや煮物・味噌汁・蕗味噌に調理して食べられる。一般的には花が咲いた状態で食べる事は避けられるが、細かく刻んで油味噌に絡める「蕗味噌」などには利用可能。山村の女性の労働はきついが辛い山の仕事も日常となれば慣れっことなり、蕗摘みの母と娘のお喋りは尽きない。山の夜は早くて恐い。ほうら夜鷹が忙しく鳴き出した。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(藤嶋 務)




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