星野立子の句

February 0221997

 何といふ淋しきところ宇治の冬

                           星野立子

和十四年の宇治(京都)での句。大学に入って私が宇治に下宿したのは、この句の約二十年後ということになるが、やはり同様に淋しいところであった。喫茶店ひとつなかったから、若い人間にとっては、それこそ「何といふ淋しきところ」と感じるしかなかった。とりわけて、冬は寒く寂寥感に満ちていた。宇治川の流れは、見るだけで胸にコタえた。先年亡くなった学友で詩人の佃学と、いっそのこと「大学なんてやめちまおうか」などと語りあったことを思い出す。立子は、ここでいわば通行人として宇治の感想を述べているわけだが、通行人にまで淋しさをいわれる町は、心底淋しいところなのである。現在の宇治はにぎやかだが、いま訪れると、逆に往時の淋しさが懐しい。『続立子句集第一』所収。(清水哲男)


February 0621997

 楽屋口水の江滝子ジャケツきて

                           星野立子

和九年の作品。このとき、水の江滝子十九歳。断髪、男装の麗人として、松竹レビューのトップスターだった。愛称ターキー。そんな大スターの素顔を、素早くスケッチした立子は三十一歳。ターキーの日常的スタイルを目撃できた作者は、おそらく天下を取ったような気分だったはずだが、その気分の高まりをぐっと抑制している句風が、実にいい。これ以上、余計な解説は不要だろう。昔はよかった(この言葉は、こういう句を読んだときに使うのである)。いまはスターならぬ人気タレントの素顔どころか裏の顔まで、テレビが写し出してしまう時代だ。「スター」なんて存在が成立するはずもないのである。『立子句集』所収。(清水哲男)


March 1931997

 ひらきたる春雨傘を右肩に

                           星野立子

わらかく暖かい雨。降ってきたので傘をひらくと、淡い雨なので、身構える気持ちがほどけて、自然と傘を右肩にあてる。少しくらい濡れたっていい、という気分。だから、句では「ひらきたる春雨傘を」という順序なのである。最初から春雨を意識していたのなら「春雨やひらきたる傘」となる。ま、そんな理屈は別にして、最近では、女性が傘を斜めにさして歩く姿を、とんと見かけなくなった。混み合う道を早足で歩いている習慣から、強情なほど垂直に持つ癖がついてしまったのだろうか。女性ならではの優美な仕種が、いつの間にかまたひとつ消えていた……。傘そのものの形態は、昔からちっとも変わっていないというのに。(清水哲男)


May 0951997

 たはむれにハンカチ振つて別れけり

                           星野立子

目っけを上手に発揮できる女性は、意外に少ない。男性に「モテる」条件の一つだけれど……。この場合は女性同士の挨拶で、何かとても楽しいことのあった後での別れにちがいない。お互い、少しハイな気分になっている。考えてみれば、ハンカチを振る別れなどは、映画の一シーンくらいでしか見たことはない。たいていの人が、実際に体験することは一生ないだろう。それにふと気がついて、早速実行してしまったというわけだ。「たはむれ」とはいいながらも、胸に残ったのは生きていることの充足感である。『立子句集』所収。(清水哲男)


September 1691997

 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ

                           星野立子

は虚子。自分の名前に誇りを抱くことの清々しさもさることながら、父への敬愛の念をこれほど率直に表現した句も珍しい。直接に仰ぐのは月であるが、この月はまた天下の虚子その人なのである。臆面もないと感じる読者がいるかもしれぬ。が、父のつけてくれた名前にかけて凛とした人生を生きていくという気概が、そうしたいぶかしさを撥ね除ける句だと、私には思われる。月を仰ぐ人には、人それぞれの感慨がある。『立子句集』所収。(清水哲男)


April 1241998

 春たのしなせば片づく用ばかり

                           星野立子

を開けたほうが暖かく感じる。そんな日がつづくと、洗濯や掃除など、主婦の仕事は大いにはかどる。はかどることが、また次の用事を片づけることに拍車をかけてくれる。洗濯や掃除といっても、立子の時代には洗濯機や掃除機があるわけではなし、主婦は大変であった。とくに作者の場合は、主婦業の他に、俳人としての仕事もあったわけで、ついつい先伸ばしにしていた「用」も、いろいろとあったことだろう。しかし、億劫に思っていた「用」も、やりはじめてみれば何のことはない。簡単にすんでしまう。それもこれもが、この明るい季節のおかげである。こういうことは、主婦にかぎらず、もちろん誰にでも起きる。春はありがたい季節なのだ。地味な句だが、季節と人間の関係をよくとらえていて卓抜である。『続立子句集第二』(1947)所収(清水哲男)


May 2451998

 午後からは頭が悪く芥子の花

                           星野立子

い日の午後、誰しもがいささかボーッとなってしまう状態を、「頭が悪く」と表現したところが面白い。このとき、作者に見えている芥子(けし)の花は何色だったろうか。辟易するような暑気と釣り合うということになれば、やはり赤い大輪だろう。花それ自身も、なんだかボーッとしているように見えるからだ。句が作られたのは、戦後間もなくの時期らしい。あの頃は、そこらへんに芥子が咲いていたものだ。美空ひばりの「私は街の子」にも、芥子は東京あたりでも平凡に「いつもの道に」咲いているように歌われている。ところが、この植物は阿片の原料になることから、現在では栽培が禁止されており、めったに見られなくなってしまった。私が頼りにしている花のカタログ集・長岡求監修『野の花・街の花』(講談社・1997)にも載っていないという情けなさ。「どう咲きゃいいのよ、この私……」と歌ったのは、やはり芥子の花が出てくる「夢は夜ひらく」の藤圭子であったが、いまでは日本のどこかで、きっと芥子のほうこそが「どう咲きゃいいのよ」と見悶えしていることだろう。『続立子句集・第二』(1947)所収。(清水哲男)


August 0281998

 重き雨どうどう降れり夏柳

                           星野立子

立や梅雨ではなく、本降りの夏の雨である。三橋敏雄の句にも「武蔵野を傾け呑まむ夏の雨」とあるように、気持ちのよいほどに多量に、そして「どうどう」と音を立てて豪快に降る。気象用語を使えば「集中豪雨」か、それに近い雨だ。そんな雨の様子を、夏柳一本のスケッチでつかまえたところが、さすがである。柳は新芽のころも美しいが、幹をおおわんばかりに繁茂し垂れ下がっている夏の姿も捨てがたい。雨をたっぷりと含んだ柳の葉はいかにも重たげであり、それが「重き雨」という発想につながった。実際に重いのは葉柳なのだが、なるほど「重き雨」のようではないか。この類の句は、できそうでできない。ありそうで、なかなかない。うっかりすると、句集でも見落としてしまうくらいの地味な句だ。が、句の奥には「俳句修業」の長い道のりが感じられる。作者としては、もちろん内心得意の一作だろう。夏の雨も、また楽しからずや。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


November 23111998

 余日なき十一月の予定表

                           星野立子

一月と言ったところに、心憎いほどの巧みさがある。これを「十二月の予定表」とやると、ひどく月並みでつまらない句になってしまう。ただし、句の背後には、実は「十二月」がちゃんと隠されているのであって、作者の心は明らかに師走に向いているのだ。けれども、そのことを表面には出さないで、さりげなくそれと暗示している。このあたりの隠し味の利かせ方を、俳句の妙と言うべきなのだろう。俳句ならではの物言いである。十一月もあと僅かともなれば、誰の予定表にも十二月が染み込んでくるようで、だんだんと追い立てられるような気分になってくる。でも、必ずしもそれがすべて鬱陶(うっとう)しいというわけでもなく、そこらあたりが十二月のせっぱ詰まった気分とは、まだかなり違うのである。今月の私の予定表も、かなりたてこんでいる。今週の土曜日の項には「忘年会」と記されている。毎年のことながら、ドサクサにまぎれるようにして師走へと入り込んでいく。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


January 2811999

 斯かる人ありきと炭火育てつつ

                           星野立子

後六年目(1951)の作句。立子、四十七歳。まだ、炭火で暖を取るのが当たり前だった頃の句だ。毎日の火鉢の炭火にしてもけっこう育てるのは難しく、それなりに一家言のある人がいたりして、いま思い出すとそれこそけっこう面白い作業ではあった。したがってこの句の「斯(か)かる人」とは、いま眼前に育ちつつある炭火のようなイメージの人というのではなくて、炭火の育て方の巧みだった人のことを言っている。それも育て方を直接教わったというのではなく、その巧みさに見惚れているうちに、いつしか彼の流儀が身についてしまったようだ。で、いつものように炭火を扱っていたら、ひょいとその人のことを思い出したというわけだ。手がその人を覚えていた。遠い昔のその人も、やはりこうやって炭を扱っていたっけ。そして、もっと見事な手さばきだった……。と、作者は炭火の扱い以外には何の関心も抱かなかったその人のことを、いまさらのように懐しく思い出すのである。こういうことは、私にも時々起きる。教室の火鉢にちっちゃな唐辛子を遠くから正確に投げ込んで、みなを涙にくれさせた某君の名コントロールを、こともあろうに突然プロ野球実況を見ながら思い出したりするのである。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


April 0541999

 娘泣きゆく花の人出とすれ違ひ

                           星野立子

の名所に向かって、ぞろぞろと歩いていく人々。作者も、そのなかの一人だ。そんな浮かれ気分の道を逆方向に歩いてくる人も、もちろんいる。ほとんどは、地元の人だろう。いちいち擦れ違う人を意識するわけでもないけれど、作者の目はふと、向こうから足早にやって来る若い女性の姿にとらえられてしまった。「泣きゆく」というのだから、嗚咽をこらえかねている様子を、娘は全身から発していた。思わず、顔を盗み見てしまう。一瞬の「すれ違ひ」に、人生の哀楽を対比させて詠みこんだ巧みな句だ。桜の句には、花そのもののありようよりも、こうした人事を詠んだ句のほうが多いかもしれない。純粋に「花を見て人を見ず」というわけには、なかなかいかないということだ。いや、花見は「人見」や「人込み」とごちゃまぜになっているからこそ、独特な雰囲気になるのだろう。こんな句もある。「うしろ手を組んで桜を見る女」(京極杞陽)。さきほどの娘とは違って、この女性の様子はたくましいかぎりだ。今風に言うと「キャリア・ウーマン」か。作者は、この発見ににんまりしている。たった十七文字で、見知らぬ女の全貌をとらえ切った気持ちになっている。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


April 2941999

 青麦に沿うて歩けばなつかしき

                           星野立子

や茎が青々としている麦畑は、見るほどに清々しいものだ。そんな麦畑に沿って、作者は機嫌よく歩いている。「なつかしき」とあるが、何か特定の事柄を思い出して懐しんでいるのではない。昔は、麦畑などどこにでもあったから、青麦は春を告げる極く平凡な植物というわけで、よほどのことでもないかぎり、記憶と深く結びつくこともなかったろう。したがって、ただ、なんとなく「なつかしき」なのだと解釈したほうが、句の情感が深まる。そして今や、この句全体が、それこそなんとなく懐しく思えるような時代になってしまった。東京のようなところで、毎日のように俳句を読みつづけていると、いかに季節感とは無縁の暮らしをしているかが、よくわかる。かつての田舎の子としては、胸が詰まるような寂しさを感じる。「みどりの日」などと言うけれど、いまさら何を言うかと、とても祝う気にはなれないのである。昭和天皇の誕生日だったことから、この日を「昭和の日」にしようという右翼的な人たちの運動があるらしい。その人たちとはまた別の意味から、私も「昭和の日」に賛成だ。昭和という時代を、それぞれがそれぞれに思い出し考える日としたほうが、なにやらわけのわからん「みどりの日」よりも、よほど意義があろうかと愚考している。(清水哲男)


June 2461999

 茄子もぐは楽しからずや余所の妻

                           星野立子

子の父親である虚子の解説がある。「郊外近い道を散歩しておる時分に、ふと見ると其処の畠に人妻らしい人が茄子をもいでおる。それを見た時の作者の感じをいったものである。あんな風に茄子をもいでおる。如何に楽しいことであろうか、一家の主婦として後圃(こうほ)の茄子をもぐということに、妻としての安心、誇り、というものがある、とそう感じたのである。そう叙した事に由ってその細君の茄子をもいで居るさまも想像される」(俳誌「玉藻」1954年一月号)。その通りであるが、その通りでしかない。どこか、物足りない。作者がわざわざ「余所(よそ)の妻」と強調した意味合いを、虚子が見過ごしているからだと思う。作者は、たまたま見かけた女性の姿に、同性として妻として鋭く反応したのである。おそらくは一生、彼女は俳句などという文芸にとらわれることなく生きていくに違いない。そういう人生も、またよきかな。私も彼女と同じように生きる道を選択することも、できないことではなかったのに……。という、ちょっとした心のゆらめき。戦争も末期の1944年の句とあらば、なおさらに運命の異なる「余所の妻」に注目しなければならないだろう。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


August 1781999

 桃食うて煙草を喫うて一人旅

                           星野立子

中吟だろう。車内はすいている。おまけに、一人旅だ。誰に遠慮がいるものか。がぶりと大きな桃にかぶりつき、スパーッと煙草をふかしたりもして、作者はすこぶる機嫌がよろしい。「旅の恥はかきすて」というが、可愛い「恥」のかきすてである。昔(1936年の作)のことだから、男よりも女の一人旅のほうが、解放感が倍したという事情もあるだろう。私は基本的に寂しがり屋なので、望んで一人旅に出かけたことはない。止むを得ずの一人旅は、それでも何度かあり、でも、桃をがぶりどころではなかった。心細くて、ビールばかりを飲むというよりも、舐めるようにして自分を励ますということになった。現地に着いても、すぐに帰りたくなる。困った性分だ。だが、好むと好まざるとに関わらず、私もやがては一人旅に出なければならない時が訪れる。十万億土は遠いだろうから、ビールを何本くらい持っていけばよいのか見当もつかない。帰りたくなっても、盆のときにしか帰れないし……。などと、ラチもないことまで心配してしまう残暑厳しい今日このごろ。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


December 04121999

 暗さもジャズも映画によく似ショールとる

                           星野立子

前の句。作者が入ったのは、クラシック・スタイルのバーだろう。ほの暗い店内には静かにジャズが流れており、心地よい暖かさだ。大人の店という雰囲気。まるで映画の一場面に参加しているような気分で、作者はショールをとるのである。その手つきも、いささか芝居がかっていたと思われるが、そこがまた楽しいのだ。ショールというのだから、もちろん和装である。和装の麗人と洋装の紳士との粋な会話が、これからはじまるのだ。こうした店には、腹に溜まるような食べ物はない。間違っても、焼きおにぎりやスパゲッティなんぞは出てこない。あくまでも、静かに酒と会話を楽しむ場所なのである。いつの頃からか、このような店は探すのに苦労するほど減ってしまった。あることはあるけれど、めちゃくちゃに高いのが難である。強いて言うならば、現在の高級ホテルのバーと似ていなくもない。が、やはり違う。ホテルの店では、バーテンダーのハートが伝わってこないからだ。その意味からしても、最近の夜の遊び場はずいぶんと子供っぽくなってきている。だから、社会全体も幼稚で大人になれないのだ。遊び場は重要だ。遊び場もまた、人を育て社会を育てる。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


February 2422000

 雛飾りつゝふと命惜しきかな

                           星野立子

十歳を目前にしての句。きっと、幼いときから親しんできた雛を飾っているのだろう。昔の女性にとっての雛飾りは、そのまま素直に「女の一生」の記憶につながっていったと思われる。物心のついたころからはじまって、少女時代、娘時代を経て結婚、出産のときのことなどと、雛を飾りながらひとりでに思い出されることは多かったはずだ。「節句」の意味合いは、そこにもある。そんな物思いのなかで、「ふと」強烈に「命惜しき」という気持ちが突き上げてきた。間もなく死期が訪れるような年齢ではないのだけれど、それだけに、句の切なさが余計に読者の胸を打つ。俳句に「ふと」が禁句だと言ったのは上田五千石だったが、この場合は断じて「ふと」でなければなるまい。人が「無常」であるという実感的認識を抱くのは、当人にはいつも「ふと」の機会にしかないのではなかろうか。華やかな雛飾りと暗たんたる孤独な思いと……。たとえばこう図式化してしまうには、あまりにも生々しい人間の心の動きが、ここにはある。蛇足ながら、立子はその後三十年ほどの命を得ている。私は未見だが、鎌倉寿福寺に、掲句の刻まれた立子の墓碑があると聞いた。あと一週間で、今年も雛祭がめぐってくる。『春雷』(1969)所収。(清水哲男)


March 2932000

 下萌にねじ伏せられてゐる子かな

                           星野立子

の子の喧嘩だ。取っ組み合いだ。「下萌(したもえ)」というのだから、草の芽は吹き出て間もないころである。まだ、あちこちに土が露出している原っぱ。取っ組み合っている子供たちは、泥だらけだ。泥は、無念にも「ねじ伏せられてゐる」子の顔や髪にも、べたべたに貼りついているのだろう。それだけの理由からではないが、どうしても「ねじ伏せられてゐる」子に、目がいくのが人情というもの。通りかかった作者は「あらまあ、もう止めなさいよ」と呼びかけはしたろうが、その顔は微笑を含んでいたにちがいない。元気な子供たちと下萌の美しい勢いが、春の訪れを告げている。取っ組み合いなど、どこにでも見られた時代(ちなみに句は1937年の作)ならではの作品だ。句をじっと眺めていると、この場合には「ゐる」の「ゐ」の文字が実に効果的なこともわかる。子供たちは、まさに「ゐ」の字になっている。これが「い」では、淡泊すぎて物足りない。旧かなの手柄だ。私も「ねじ伏せられたり」「ねじ伏せたり」と、短気も手伝って喧嘩が絶えない子供だった。去年の闘魂や、いま何処。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


April 2442000

 うぐひすや寝起よき子と話しゐる

                           星野立子

くもなく暑くもない春の朝は、それだけでも快適だ。加えて、若い作者には、すこぶる寝起きのよい幼な子がいる。この場合の「寝起よき子」には、多少の親ばかぶりを加味した「かしこい子」という意味合いが含まれている。とにかく、自慢の娘(実は、現俳人の星野椿さん)なのだ。そんな娘と他愛ない会話をしているだけで、作者の気持ちは晴れ晴れとしている。ご満悦なのだ。近くで鳴いている鴬の音も、まるで我と我が子を祝福しているかのように聞こえている。そんな立子の上機嫌は、読者にもすぐに伝わってくる。昭和十年代も初期か少し前の作品だと思う。この国が大戦争へと雪崩れて行きつつあった時代だが、市井の生活者には、まだ目に見えるほどの影響は及んでいなかった。こんな朝の通りに出れば、どこからともなく味噌汁の香りが流れてき、登校前の小学生が国語読本を音読する声も洩れ聞こえてきただろう。戦前の映画で、そのような雰囲気のシーンを見たことがある。「時は春、日は朝、朝は七時、……」と書いたのはロバート・ブラウニングだったと記憶するが、句の鴬の鳴き声も、作者にはきっとこのように響いていたのではあるまいか。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


July 2972000

 いふまじき言葉を胸に端居かな

                           星野立子

まりに暑いと身体もだるくなるが、それに伴って心も弱くなりがちだ。隙(すき)もできる。こういうときには「いふまじき言葉」も、ポロリと吐き出しそうになったりする。つい、家人にアタりたくなってしまう。でも、それを言ってはおしまいなのだ。そこで作者は涼むふりをして、家人のいない縁側へと移動した。吐き出しそうになった言葉を、からくも胸に閉じこめて……。しかし、胸に秘めた言葉が言葉であるだけに、いっこうに暑さはおさまらない。「端居(はしい)」は、家内の暑さを避けて、風通しのよい縁先などでくつろぐこと。日常的にはお目にかからない言葉だが、俳句ではいまでも普通に使われている。短い詩型だけに、縁側のある家が少なくなった現代でも重宝されているのだろう。縁側などなくても家の端に窓辺はあるから、もっぱら窓辺に倚る意味での使用例が多い。たとえば星野椿に「端居して窓一杯の山を見る」と、明確に窓辺で詠んだ句がある。星野椿は立子の娘(したがって、虚子の孫にあたる俳人)。すなわち、母の時代の「端居」は縁側で、娘の時代のそれは窓辺でというわけだ。時代は変わる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


September 2792000

 リヤカーにつきゆく子等や花芒

                           星野立子

和初期の句。何を積んでひいているのだろうか。引っ越し荷物だとしても、「つきゆく子等」は、リヤカーをひく人の子供たちではないだろう。近所の子供らが、好奇心にかられて寄ってきたのだ。「花芒(はなすすき)」は、さわさわと子供らの手にある。こういう光景は、よく市井に見られた。何か珍しいものを見かけると、すぐに子供らは飛んで行った。まだ自動車が珍しかったころには、私も表に飛んで出た。近所からも、ばらばらっと出てきた。しばらく後を追っかけて、胸いっぱいにガソリンの臭いを吸い込むのであった。落語にも、町内にまわってきたイカケヤを悪ガキどもが取り囲み、そのやりとりを面白可笑しく聞かせる咄がある。昔はよかった。と、一概には言えないにしても、少なくとも昔の道端はよかった。面白かった。いまは、ちっとも面白くない。すべての道が点から点へ移動するためのメディアとして消費されており、ゆったりとした道端時間がないからだ。東京あたりでは、たまの大雪などで点と点の間を移動する機能が麻痺したときにだけ、道端時間が忽然と復活する。そんなときにだけ、私は積極的に表に飛び出す気になる。こんな道端事情だから、話は飛ぶが、いまの子供らには「路傍の石」の含意もわかるまい。最近、山本有三の文章が国語の全教科書から消えたと聞いた。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


March 0132001

 時刻きゝて帰りゆく子や春の風

                           星野立子

が子のところに遊びに来ていた子供が「おばさん、いま何時ですか」と聞きに来た。時刻を告げてやると、「もう帰らなくては……、ありがとうございました」と帰っていった。その引き上げ方が、「春の風」のように気持ちの良い余韻を残したのである。日は、まだ高い。もっと遊んでいたかっただろうに……。躾けのゆきとどいた清々しい良い子だ。昔の子供は母親から帰宅すべき時間をきつく言い含められて、遊びに出かけたものだ。無論いまでもそうだろうけれど、しかし、昔の門限はとてつもなく早かったように思う。日のあるうちに帰らないと、叱責された。親が帰宅時間を言い含めたのは、多く他家に迷惑をかけたくないからという理由からだったが、本音は外灯もろくにない暗い道を一人で帰らせるのが不安だったからではあるまいか。かなりの都会でも、夜道はとても暗かったのだ。そんな子供にとって気になるのは「時刻」であるが、現在のように子供部屋にまで時計があるわけではない。一家の茶の間に、柱時計一台きりが普通。だから、しょっちゅう「おばさん」に聞かなければならない。私も経験があるけれど、帰りたくなくて「時間よ、止まれ」くらいの思いで「おばさん」に聞いたものだった。逆に大人になってからも、表で遊んでいる見知らぬ子に「いま何時ですか」とよく聞かれたが、最近ではそういうこともなくなった。みんな腕時計くらいは持っているし、第一、表で遊ぶ子供たちが少なくなってしまったからである。ちなみに、掲句は1939年(昭和十四年)の作。『続立子句集第一』(1947)所収。(清水哲男)


September 0392001

 夕月夜人は家路に吾は旅に

                           星野立子

れから旅に出る作者が、駅へと向っている。私にも何度も覚えがあるが、重い旅行鞄を提げ、勤め帰りの人たちの流れに逆流して歩く心持ちは、妙なものである。旅立ちの嬉しさと、束の間にせよ、住み慣れた町を離れる寂しさとが混在するようなのだ。「夕月夜」だから、天気はよい。それがまた、かえって切なかったりする。そんな気持ちを、言外に含ませている句だ。夜行列車で出かけるのだから、かなりの遠出を想像させる。新幹線のなかった時代には、東京大阪間くらいでも、多くの人が夜行を利用していた。昼間の急行でも九時間以上はかかったので、よほど早朝に乗らないと、着いた先では夜になってしまう。それよりも、寝ながら行って朝着いたほうが、気持ちもよいし時間の経済にも適うという心持ちであり理屈であった。ところで「夕月夜」だが、単に日の暮れた後の月夜ではなく、新月から七、八日ごろまでの上弦の宵月の夜を言う。夕方出た月は、深夜近くにはもう沈んでしまう。そんなはかない月の姿も、掲句に微妙な色合いを与えている。ちなみに今宵の月は満月を過ぎたばかりなので、厳密には句の感興にはそぐわない。『実生』(1957)所収。(清水哲男)


January 1712002

 大仏の冬日は山に移りけり

                           星野立子

子は鎌倉の人だったから、長谷の「大仏」だろう。何も技巧を弄することなく、見たままに詠んでいる。いままで大仏にあたっていた「冬日(ふゆび)」が移って、いまはうしろの山を照らしている。それだけのことを言っているにすぎないが、大きな景色をゆったりと押さえた作者の心持ちが、とても美しい。それまでにこの情景を数えきれない人たちが目撃しているにもかかわらず、立子を待って、はじめて句に定着したのだ。それもまだ初心者のころの作句だと知ると、さすがに虚子の娘だと感心もし、生まれながらに俳人の素質があった人だと納得もさせられる。いや、それ以前に立子の感受性を育てた周囲の環境が、自然に掲句を生み出したと言うべきか。短気でせっかちな私などには、逆立ちしても及ばない心境からすっと出てきた句である。なお参考までに、山本健吉の文章を紹介しておく。「俳句の特殊な文法として、初五の『の』に小休止を置いて下へつづく叙法があるが、この場合は休止を置かないで『大仏の冬日は山に』と、なだらかに叙したものである。それだけに俳句的な『ひねり』はなく、単純な表現だが、淡々としたなかに、大づかみにうまく大景を捕えている」。……この「単純な表現」が難しいのですよね。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


February 0522002

 春泥に歩みあぐねし面あげぬ

                           星野立子

語は「春泥(しゅんでい)」。春のぬかるみ。春先は雨量が増え気温も低いので、土の乾きが遅い。加えて雪解けもあるから、昔の早春の道はぬかるみだらけだった。掲句には、草履に足袋の和服姿の女性を想像する。ぬかるみを避けながら、なんとかここまで歩いてはきたものの、ついに一歩も進めなくなってしまった。右も左も、前方もぬかるみだ。さあ、困った、どうしたものか。と、困惑して、いままで地面に集中していた目をあげ、行く先の様子を見渡している。見渡してどうなるものでもないけれど、誰にも覚えがあると思うが、半ば本能的に「面(おも)あげぬ」ということになるのである。当人にとっての立ち往生は切実な問題だが、すぐ近くの安全地帯にいる人には(この句の読者を含めて)どこか滑稽に見える光景でもある。作者はそのことをきちんと承知して、作句している。そこが、面白いところだ。我が家への近道に、通称「じゃり道」という短い未舗装の道がある。雨が降ると、必ずぬかるむ。回り道をすればよいものを、つい横着をして通ろうとする。すると、年に何度かは、掲句のごとき状態に陥ってしまう。上野泰に「春泥を来て大いなる靴となり」がある。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


March 0332002

 立子忌や岳の風神まだ眠る

                           市川弥栄乃

語は「立子忌」で春。実は、今日三月三日が星野立子の命日である。雛祭の日に亡くなった女性は数えきれないほどおられるだろうが、何も女の子のハレの日に亡くならなくとも……と思えて、ひどく切ない。ましてや、立子にはよく知られた名句「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。切なすぎる。作者はこの切なさを踏まえて、あえて雛飾りから目を外し、遠くの「岳(だけ)」に目をやっている。ここが、掲句の眼目だ。岳には、やがて春の嵐をもたらす「風神」も「まだ」ぴくりともせず静かに眠っている。立子の住んだ鎌倉でも、春一時期の風は強く激しい。彼女の安らかな眠りのためには、三月三日とはいえ、むしろ風神が荒れ狂う日などよりも余程よかったのではなかろうか。静かな眠りにつかれたのではなかろうか。立子を尊敬する作者は、そう自分自身に言い聞かせているのだと読んだ。だいぶ以前に当欄で書いたことだが、私は「○○忌」なる季語は好きではない。使うのなら、身内や仲間内で勝手にやってくれ。いかに高名な俳人の命日であろうとも、こちらはいちいち覚えてはいられないからと。そんな私が掲句について書いたのは、やはり雛祭と女性である立子の忌日が同じであるという哀しさ故である。忌日で思い出すのは、もう一人。宝井其角は、旧暦二月三十日に世を去った。新暦だと、彼の命日は永遠にやってこない理屈である。俳誌「草林」HomePage所載。(清水哲男)


May 2552002

 簾巻きて柱細りて立ちにけり

                           星野立子

語は「簾(すだれ)」で夏。夕刻になって、涼しい風を入れるために簾を巻き上げた。と、普段は気にも止めていなかったのだが、意外なほどに我が家の柱の細いことに気づかされたのである。簾の平面と柱の直線の切り替わりによって、以前より細くなったように見えた。もっと言えば、まるで「柱」みずからが、昼の間に我と我が身を細らせたかのようにすら見えてくる。こんなに細かったのか。あらためて、つくづくと柱を見つめてしまう……。「柱の細く」ではなく「柱細りて」の動的な表現が、作者の錯覚のありようを見事に捉えており、「巻きて」「細りて」と「て」をたたみかけた手法も効果的だ。日常些事に取材して、これだけのことが書ける作者の才能には、それこそあらためて脱帽させられた。俳句っていいなあと感じるのは、こういう句を読んだときだ。簾といえば、篠原梵に「夕簾捲くはたのしきことの一つ」があるが、私も少年時代には楽しみだった。巻き上げても両端がちゃんと揃わないと気がすまず、ていねいに慎重にきっちりと巻いていく。少しでも不揃いだと、もう一度やり直す。格別に整理整頓が好きだったわけではなく、単なる凝り性がたまたま簾巻きにあらわれたのだろう。いまでも乱暴に巻き上げられた簾を見かけると、直したくなる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


June 1262002

 物指をもつて遊ぶ子梅雨の宿

                           星野立子

のために表に出られない旅館の子が、帳場のあたりでひとりで遊んでいる。それも子供らしい遊び道具でではなく、「物指(ものさし)」を持って遊んでいるところへの着目が面白い。男の子だったら、物指を刀に擬してのチャンバラの真似事だろうか。宿の様子については何も描写はされていないけれど、子供と物指との取りあわせが宿全体の雰囲気を雄弁に語っている。観光地にあるような大きな旅館ではなく、経営者の家族の住まいも片隅にある小さな宿であることが知れる。それも満室ではなく、閑散としている。もしかすると、他に泊まり客はいないのかもしれない。作者は出そびれて無聊をかこち、子供はそれなりの遊びに無心に没頭していて、さて表の雨はいっこうに止む気配もない。そんな雨の降りようまでが感じ取れる。うっとおしいと言うよりも、今日はもう出かけるのをあきらめようと思い決めた作者の気持ちが、じわりと伝わってくるような句だ。子供がいる宿には何度か泊まったことがあるが、店主の子供が出入りする町の食堂などと同じように、そういうところの子供には不思議な存在感がある。あちらはごく普通の生活空間として動き回り、こちらは非日常空間として受け止めるからなのだろう。その昔香港の食堂で、大きな飼い犬までが出てきたときには、さすがにまいった。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


July 2972002

 冷淡な頭の形氷水

                           星野立子

かき氷
い日がつづきます。氷水など如何でしょう。私の好きな「宇治金時」。デザイン的に「冷淡な頭の形」を餡で覆って、冷淡に見えないように工夫された(のかどうかは知らないけれど、そんな気がする)発明品だ。掲句は、正直言ってよい出来ではない。でも、後世のために(笑)書いておくべきことがあるので、取り上げた次第。すなわち、立子は主に東京や鎌倉で暮らした人だったから、氷水(かき氷)というと「冷淡」とイメージしていたのだろう。面白い見方とは思うが、何を言っているのかわからない人も大勢いるはずだ。というのも、東京近辺の氷水はシロップを器に入れてから、その上に氷をかく。したがって、「頭」部は写真の餡を取り払った感じになり、氷の色そのものしか見えないので、なるほどまことに冷淡に写る。が、名古屋以西くらいからは、氷をかいた上にシロップを注ぐ。と、見かけはちっとも冷淡じゃなくなる。九州の一部の地方では、まずシロップを入れて氷をかき、その上に重ねてシロップを注ぐという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは確認できていない。いずれにしても、俳句を読むときに厄介なのは、こうした地方的日常性や習慣習俗などをわきまえていないと、とんでもない誤読に陥ってしまうケースがよくあるということだ。当サイトでも、かくいう私が何度も誤読してきたことは、読者諸兄姉が既にご承知の通り。ましてや、時代を隔てた句となると、作者の真意をつかむのが余計に難しくなる。誤読もまた楽し、と思ってはみるものの、あまりのそれは恥ずかしい……。ところで写真の宇治金時は、一つ5,500円也。550円の誤記ではありません。何故なのかは、おわかりですよね。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1772004

 昼寝する我と逆さに蝿叩

                           高浜虚子

の夏の生活用品で、今では使わなくなったものは多い。「蝿叩(はえたたき)」もその一つだが、句は1957年(昭和三十二年)の作だから、当時はまだ必需品であったことが知れる。これからゆっくり昼寝をしようとして、横になった途端に、傍らに置いた蝿叩きの向きが逆になっていることに気がついた。つまり、蝿叩きの持ち手の方が自分の足の方に向いていたということで、これでは蝿が飛んできたときに咄嗟に持つことができない。そこで虚子は「やれやれ」と正しい方向に置き直したのかどうかは知らないが、せっかく昼寝を楽しもうとしていたのに、そのための準備が一つ欠けていたいまいましさがよく出ている。日常生活の些事中の些事でしかないけれど、こういう場面を詠ませると実に上手いものだと思う。虚子の句集を見ると、蝿叩きの句がけっこう多い。ということは、べつに虚子邸に蝿がたくさんいたということではなくて、家のあちこちに蝿叩きを置いておかないと気の済まぬ性分だったのだろう。それかあらぬか、娘の星野立子にも次の句がある。「蝿叩き突かへてゐて此処開かぬ」。引き戸の溝に蝿叩が収まってしまったのか、どうにも開かなくなった。なんとかせねばと、立子がガタガタやっている様子が浮かんできて可笑しい。いやその前に、父娘して蝿叩きの句を大真面目に詠んでいるのが微笑ましくも可笑しくなってくる。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


April 1542005

 美しき人は化粧はず春深し

                           星野立子

語は「春深し」。桜も散って、春の艶も極まったころ。句は、真の美人は化粧しないものだなどと、小癪なことを言っているのではない。私は、この「美しき人」に年輪を感じる。どこにもそんなことは書いてないけれど、季語「春深し」との取り合わせから、そう受け取れるのである。「化粧はず」は「けわわず」だ。もはや若いときのように妍を競う欲からも離れ、容貌への生臭いうぬぼれや憧れもない。かといって枯れてしまったのではなく、また俗に言う可愛いおばあちゃんでもなく、おのれ自身の春が極まったとでも言おうか、自然体としての身体がそのままで美しくある「人」に、作者は好感している。いや、羨望の念すら抱いている。この人には、女性「性」のまったき円熟が感じられ、静やかな艶がおのずと滲み出ているのだ。すなわち、それが「春深し」の季節の極まりに深く照応しているのであって、この季語は動かし難い。そしてまた、「深し」すなわち極まりとは早晩過ぎ行くことの兆しをはらんでいるから、句はその兆しをも匂わせていて、ますます艶やかである。書かれたもので読んだのか、直接聞いたのだったかは忘れたが、埴谷雄高が「女は七十代くらいがいちばん良い」という意味のことを述べたことがある。逆説でも、ましてや珍説でもないだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 30102005

 ラヂオつと消され秋風残りけり

                           星野立子

語は「秋風」。「ラヂオ」という表記の時代には、携帯ラジオはなかった。したがって、作者は庭など戸外にいるのだが、聞こえているのは家の中に置いてある「ラヂオ」からの音だ。それも耳を澄まして聴いていたわけではなく、なんとなく耳に入っていたという程度だろう。そんな程度だったが、誰かに「つと消され」てみると、残ったのは「秋風」ばかりという感じで、あたりの静けさがにわかに心に沁みたというのである。静寂を言うのに、婉曲に「秋風残りけり」と余韻を持たせたところが心憎い。いかにも、俳句になっている。この句でふっと思い出したが、昔は表を歩いていても、よくラジオの音が聞こえてきたものだった。ということは、どこの家でも大きな音で聞いていたことになる。永井荷風は隣家のラジオがうるさいと癇癪を起こしているし、太宰治「十二月八日」の主婦は、やはり隣家のラジオでかつての大戦がはじまったことを知ったことになっている。なぜ大きな音で聞いていたのだろうか。と考えてみて、一つには昨今の住宅との密閉度の差異が浮かんでくるが、それもあるだろう。が、いちばんの理由は、現在のように音質がクリアーでなかったからではあるまいか。雑音が激しかった。つまり、大きな音で鳴らさないと、たとえばアナウンサーが何を言っているのかがよく聞き取れなかったせいだと思うのだが……。学校の行き帰りに、どこからともなく聞こえてきたラジオ。懐かしや。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1382006

 美しき緑はしれり夏料理

                           星野立子

わやかな句です。「美しき」から吹いてくる微風を、そのまま全体へ行き渡らせています。夏料理というと、真っ先に思い浮かぶのが冷たいもの、冷麦やそうめんですが、緑という語からすると、むしろ野菜類、ピーマンやパセリをさしているのかもしれません。最近は、夏カレーという言葉もありますから、食欲を増すために香辛料をきかせた、野菜たっぷりのカレーであってもよいでしょう。「はしれり」という動きを伴った語は、白い皿の海の上を、緑の野菜が帆を張って動くさまを想像させます。もともと「食べる」という行為は、生きることの根源に関わるものですから、表現者にとっては抜き差しならないテーマであるわけです。しかし、ここではもちろん、「生き死に」から遠い距離を持ったものとしての食事が描かれています。「緑はしれり」といえば、もうひとつ思い浮かぶのが、白いそうめんに入っている緑や赤の数本の麺です。流しそうめんであれば、まさしく「緑はしれり」となるわけです。しかし、この色つき麺は、もとはそうめんと区別するために冷麦だけにまぜたもののようです。それがのちには、そうめんにも入ったというのですから、もう、なんの意味もないわけです。なんの意味もないからこそ、緑はまさしく緑であり、わたしたちの目の中を、美しくはしるのです。『俳句への道』(1997・岩波文庫)所載。(松下育男)


October 21102006

 激し寄る四方の川水下り簗

                           星野立子

に簗(やな)というと夏季、魚簗とも書く。下り簗は秋季、文字通り川を下ってくる落鮎などを捕るための仕掛けである。今年の名月、関東地方は概ね無月であったが、深夜、雨で水かさの増えた栃木県の那珂川には、鮎三百キログラム(約五千匹?)、鰻百本が落ちたという。那珂川のみならず日本中のあちこちの川で、満月に鮎が次々に落ちていく、と想像すると幻想的である。落鮎の句を探して歳時記を開くと、隣の「下り簗」のところにこの句が。いかにも立子らしいと言われる句、ではない気もして調べると、昭和十一年、利根川での吟行句とわかる。句日記に「(簗は)想像してゐた以上の美事なものだと思ふ。」とあるので、簀(す)を張り渡した本格的なものだったのだろう。初めて目にする簗、川原に相当長い時間立ち続けていたようである。その足に、力強い水音が絶えず響いている。秋の日差しは思いの外強く、簀にぶつかった白い水しぶきに吹き上げられて鮎がはね、小石がはねる。激し寄る、に見える僅かな主観は季題にのみ向けられ、四方(よも)の川水が、一気に簗に落ち込んでいく。蝶に目をとめて一句、釣り人に会い一句、この日の吟行句、書き残されているものは十四句だが、呼吸をするように作句していたことだろう。俳句は自分のために作るもの、ただ作っているときは、本当に楽しい。息抜きにもなったであろう吟行だが、じっと川を観ている立子の凛とした姿が浮かぶ。『虚子編新歳時記』増訂版(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


February 2422007

 たんぽぽに立ち止まりたる焦土かな

                           藤井啓子

んぽぽ、と声に出すと、やはりその「ぽぽ」の音は、日常の日本語にはない不思議な響きだ。春の野原の代表のような、なじみ深い花の名前だから一層そう感じるのだろうか。それが〈たんぽゝと小聲で言ひてみて一人〉の星野立子句や、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉の坪内稔典句を生むのかとも思う。その名前の由来には諸説あるようだが、花を鼓に見立てて、「たん・ぽんぽん」という擬音から来ているという説など興味深い。野原いっぱいに咲く明るさにも、都会のわずかな土に根付いて咲く一輪にも、色といい形といい、春の太陽が微笑んでいる。掲句のたんぽぽは、おそらく二、三輪だろう。たんぽぽの明るさに対して、下五の、焦土かな、は暗く重い。焦土と化した原因は、戦争のようにも読めるが、作者は神戸在住、この句が詠まれたのは1995年の春。焦土の原因は、阪神・淡路大震災である。昨日まで目の前にあった日常の風景が、何の前触れもなく突然失われてしまう天災は、戦争とはまた違った傷を残すのかもしれない。たんぽぽの黄は、希望の春の象徴であり、その色彩を黒々とした土がいっそうくっきりと見せている。中七と下五の間合に、深い悲しみがある。「ああ生きてをり」と題された連作は〈春立ちぬ春立ちぬああ生きてをり〉で締めくくられている。「協会賞・新人賞作品集」(1999・日本伝統俳句協会編)所載。(今井肖子)


March 0832008

 外に出よと詩紡げよと立子の忌

                           岡田順子

年めぐってくる忌日。〈生きてゐるものに忌日や神無月 今橋眞理子〉は、親しい友人の一周忌に詠まれた句だが、まことその通りとしみじみ思う。星野立子の忌日は三月三日。掲出句とは、昨年三月二十五日の句会で出会った。立子忌が兼題であったので、飾られた雛や桃の花を見つつ、空を仰ぎつつ、立子と、立子の句と向き合って過ごした一日であったのだろう。〈吾も春の野に下り立てば紫に〉〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈曇りゐて何か暖か何か楽し〉まさに、外(と)に出て、春の真ん中で詠まれた句の数々は、感じたままを詩(うた)として紡いでいる。出よ、紡げよ、と言葉の調子は叱咤激励されているように読めるが、立子を思う作者の心中はどちらかといえば静か。明るさを増してきた光の中で、俳句に対する思いを新たにしている。今年もめぐって来た立子忌に、ふとこの句を思い出した。このところ俳句を作る時、作ってすぐそれを鑑賞している自分がいたり、へたすると作る前から鑑賞モードの自分がいるように思えることがあるのだ。ああ、考えるのはやめて外へ出よう。(今井肖子)


June 0662008

 漁師等にかこまれて鱚買ひにけり

                           星野立子

取県の米子から境港に向かう途中の弓ヶ浜は砂浜の海岸で、初夏になると投げ釣りの釣り人が波打ち際に並ぶ。鱚、めごち、ハゼが主な釣果。朝と夕方がよく釣れる。浜辺まで家から五百メートルほどだったので、僕も登校前の早朝、よく釣りに行った。思いきり投げて、あとは海底をリールで引きずりながらあたりを待つ。鱚は上品な外見で魚体の白色に光の角度で虹の色が見える。この句、漁港の朝市だろうか。地元の漁師たちに囲まれて旅行者の女性が鱚を買っている。旅行者は新鮮な鱚に目を奪われているが、漁師たちはこの旅行者の方を物珍しそうに見ている。鱚釣りをしていた中学生の頃、「キス」という発音が恥ずかしくて言いにくかった。米子弁で「キス釣りに行かいや」と言うだけで赤面したりしてたんだな。馬鹿だね、中学生って。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


July 0372008

 札幌の放送局や羽蟻の夜

                           星野立子

幌の放送局に羽蟻がいる。ふと目に留めたただそれだけのことが俳句になる秘密ってどこにあるのだろう。さりげなく何の仕掛けもないこうした俳句を見るたび不思議になる。作者が立子だから、という名前の効果もあるだろうけど、のびやかで風通しの良い句の持ち味はこの作者独自のものだ。むかし羽蟻が出ると家が崩れる、と聞き恐ろしくなった。たかだか蟻のくせに家を傾かすとは。家で見かけるのと同じ小さな羽蟻が遠く離れた札幌にいること、おまけにそこが近代的な機械を完備した冷え冷えとした放送局であるそのミスマッチがなんとも言えずおかしい。普段とは違う場所にいてもささやかな気づきをすらりと俳句に詠める力の抜きかげんはうらやましい限りである。新しいものを柔軟に受け入れる精神をモダンというなら、立子はいきいきと時代の素材を生かした句を作っていたように思う。『季寄せ』(1940・三省堂)所載。(三宅やよい)


February 2822009

 庭掃除して梅椿実朝忌

                           星野立子

倉三代将軍源実朝、歌人としても名高いことは言うまでもないが、陰暦一月二十七日に、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺されたという。今年は今日がその一月二十七日ということで、この句をと思った次第。梅も椿も、それぞれ春季であり、梅椿、と重ねた言い方を、私はこの句で知ったのだが、季重なりというより、梅も椿も咲いている早春のふわっとした空間を感じる。この句の場合構成を見ると、実朝忌と合わせて三つの季重なり、ということになるのだが、実朝忌の句だ。梅と椿が咲いている庭を掃除しながら、今日もいいお天気、空も春めいてきたなあ、などとちょっと手を止めた時、ああ、そういえば今日は実朝忌だわ、と気づいたのだろうけれど、こうして意味をとろうとするとなんだかつまらなくなる。くいっとつかまれるのだが、うまく説明できない、ということが、立子の句にはよくある。それはきっと、俳句でしか表現できないことを詠んでいる、ということなのだろう。『虚子編新歳時記 増訂版』(1995・三省堂)所載。(今井肖子)


May 2352009

 万緑のひとつの幹へ近づきぬ

                           櫻井博道

京の緑を見て万緑を詠んじゃいけないよ、と言われたことがある。万の緑、見渡す限りの緑であるから、まあ確かにそうなのかもしれない。それでも、時々訪れる目黒の自然教育園など夏場は、これが都心かと思うほどの茂りである。どこかの島の、圧倒的な緑の森に迷い込んだような錯覚に陥りながら歩いていると、星野立子の〈恐ろしき緑の中に入りて染まらん〉の句を思い出す。「万緑」は、それだけで強い力を感じる言葉なので確かに、万緑や、などと言ってしまうと後が続かなくてただぼーっとしてしまって、なかなか一句になりにくい。そんな万緑も、大地に根を張った確かな一本一本の木からできている。森を来た作者の視線の先には今、一本の大樹の太い幹があるばかりだが、読者には、作者が分け入ってきた、それこそ万の緑がありありと見えてくる。ひとつの、の措辞が、万に負けない力を感じさせる。『図説俳句大歳時記 夏』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


July 3172009

 残暑とはショートパンツの老人よ

                           星野立子

人にステテコは当たり前だが、ショートパンツとはさすがに客観写生の優等生である。ショートパンツの老人は現在の「花鳥諷詠派」の人たちでは出てこない表現だろう。古い情緒に適合しないからだ。俳句的情緒からいくと老人には着物つまり羅や白地。下着ならステテコや褌と取り合わせる俳人が多い。褌は「たふさぎ」などと古い読みを出してきて俳諧を気取る風潮もある。こんなのはみんな古い風流感の上に乗った陳腐なダンディズムだ。ショートパンツから皺だらけのやつれた肢が出ている。なんともみっともないこの肢こそが残暑の象徴だと作者は言っている。虚子は娘立子の素直さ、屈託の無さを最大限に評価した。意地悪な僕は女性の「育ちの良さ」ポーズや「屈託の無さ」仕種を簡単には信じないが、こんな句を見ると虚子の評価を肯わざるを得ない。『実生』(1957)所収。(今井 聖)


November 07112009

 初冬の徐々と来木々に人に町に

                           星野立子

きなり真冬の寒さかと思えば、駅まで足早に歩くと汗ばむほどの日もあり、季節の変わり目とはいえ、めまぐるしい一週間が過ぎて、今日立冬。その間に月は満ちたが、暁の空に浮かぶ満月はすでに透きとおった冬色だった。立子は、冬の気配が近づいてから立冬、初冬と過ぎてゆく十一月を特に好んだという。なつかしい匂いがする、とも。掲出句にあるように、いち早く黄葉して散る桜を初めとして、木々の色の移り変わりにまず冬を感じるのは、都会の街路樹でも同じだろう。落ち葉風にふかれ襟元を閉じて歩く人。そして町全体がだんだん冬めいてくることを、どこか楽しんでいるような作者。「初冬の徐々と来(く)」といったん切って、それから町がじんわり冬になっていく様を詠んでいるが、字余りで、一見盛りだくさんなようだけれど、リズムよく、「徐々」感が伝わってくる。この句に並んで〈柔かな夜につゝまれて初冬かな〉とある。なるほど好きな季節だったのだな、と思った。「立子四季集」(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


January 2812010

 障子閉めて沖にさびしい鯨たち

                           木村和也

の日ざしを受け鈍く光る障子は外と内とをさえぎりつつも外の気配を伝える。ドアは内と外を完全に遮断してしまうけど、障子は内側にいながらにして外の世界を感じる通路をひらいているように思う。「障子しめて四方の紅葉を感じをり」の星野立子の句がそんな障子の性質を言い当てている。掲句では障子を閉めたことでイマジネーションが高まり沖合にいる鯨が直に作者の感性に響いているといえるだろう。大きく静かな印象をもつ鯨を「鯨たち」と複数にしたことでより「さびしさ」を強めている。冬の繁殖期に日本の近海に回遊してくる鯨。その種類によっては広大な海でお互いを確認するためさまざまな音を出すという。「例えば、ナガスクジラは人間にも聞き取れる低い波長の音を出し、その音は海を渡ってはるかな距離まで響き渡る。」と、「世界動物大図鑑」に記述がある。閉めた障子の内側に坐して作者は沖にいる鯨の孤独を思い、ひそやかな鯨の歌に耳をすましているのかもしれない。『新鬼』(2009)所収。(三宅やよい)


February 2722010

 草萌えて黒き鳥見ることもなく

                           横山白虹

萌には草の青、下萌には土の黒をより強く感じる、と言われたことがある。下萌というと、星野立子の〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈下萌えぬ人間それに従ひぬ〉を思うが、そこには今まさに草萌えんとする大地の力がある。草萌は、二つ並んだ草冠がかすかにそよいで、文字通り明るい。掲出句の黒き鳥の代表は、カラスだろう。枯木に鴉、というと冬の象徴だが、音の少ない冬の公園などでは、確かにカラスのばさばさという羽音がいっそう大きく聞こえ、見上げると冬空より黒いその姿が寒々しい。やがて、水鳥が光をまき散らしながら準備体操を始め、尖った公園の風景も少しずつゆるんでくると、カラスもまた春の鴉となってお互いを呼び合うようになる。黒き鳥、が象徴する閉塞感が、外から、また身の内からゆっくりとほどけてゆく早春である。『横山白虹全句集』(1985)所収。(今井肖子)


November 20112011

 弱き身の冬服の肩とがりたる

                           星野立子

んとなく読み過ごしてしまいそうになりますが、本日の句に学ぶことは多いと思います。まず、人を見る目のあたたかさと柔らかさに驚いてしまいます。読めば読むほど、恐ろしいほどに眼差しの深さを感じるのです。「弱き身」とは、ことさら身体の弱い人のことを指しているのではないのでしょう。だれでもがその根っこのところでは、びくびくと生きているのです。その弱い精神を包み込むようにして着た服は、鎧のように肩がとがっているのかもしれません。すぐれた句を詠む、というよりも、すぐれた眼差しを持つことが、まずは目指されなければならないことなのだと、教えてくれているようです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


March 0332016

 立子忌の坂道どこまでも登る

                           阪西敦子

日は雛祭り。星野立子の忌日でもある。立子の句はのびのびと屈託がなく空気がたっぷり感じられるものが多い。例えば「しんしんと寒さがたのし歩みゆく」という句などもそうである。まず縮こまる寒さが「楽し」という認識に自然の順行が自分に与えてくれるものを享受しようとする開かれた心の柔らかさが感じられるし、「歩みゆく」という下五については山本健吉が「普通なら結びの五文字には何かゴタゴタと配合物を持ってきたくなる」ところを「歩みゆく」さりげなく叙するは「この人の素質のよさ」と言っているのはその通りだと思う。掲句の坂道を「どこまでも登る」はそんな立子のあわあわとした叙法を響かせているのだろう。立子の忌日に似つかわしい伸びやかさを持った句だと思う。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)




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