杉田久女の句

January 1011997

 冬の朝道々こぼす手桶の水

                           杉田久女

道の普及していなかった時代には、よほどの旧家でも、庭の井戸から水を汲んできて、台所のカメに溜めてから炊事などに使っていた。もちろん井戸のない家もたくさんあり、そうした家では他家の井戸水をもらってくるか、近所の湧き水を利用するか、いずれにしても水は毎日外から家に運びこんでくるものだった。とりわけて寒さの厳しい冬の朝、貴重な水を道々にこぼしてしまうのは、身を切られるようにつらく感じられたにちがいない。「手桶」は「おけ」と読ませる。この句は大正六年「ホトトギス」誌上の「台所雑詠」欄に載った久女のデビュー作だ。久女その後の数奇な運命(「ホトトギス」からの除名など)を思うとき、句の一所懸命さが、いっそうの哀れを誘う。(清水哲男)


July 2871997

 熟れきつて裂け落つ李紫に

                           杉田久女

しすぎた李(すもも)が紫色に変色して落ちてしまった。よくある光景だが、久女という署名がつくと、どうしても深読みしたくなる。女人の哀しいエロティシズムを感じてしまう。李そのものが艶っぽい姿形をしていることもある。口にあてるときに、ちょっと緊張感を強いられる。蛇足ながら「スモモモモモモモモノウチ(李も桃も桃の内)」とは、新米アナウンサーが練習用に使う早口言葉のひとつだ。そういえば、富安風生に「わからぬ句好きなわかる句ももすもも」というのがある。(清水哲男)


November 19111998

 足袋つぐやノラともならず教師妻

                           杉田久女

女の、あまりにも有名な代表作。ノラはイプセン『人形の家』の女主人公の名前で、彼女は「では、さようなら」と言って夫ヘルメルのもとを去っていった。旧家(愛知県西加茂郡)の嫁として、夫の赴任先である小倉で二児をもうけ、善良だが古い考え方を持つ教師である夫に仕えていた久女は、破れた足袋を繕いながら、かく自嘲する。「暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失つている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、たゞ忍苦と諦観の道をどこまでもふみしめてゆく」。句もコメントも高浜虚子の俳誌「ホトトギス」誌上に発表されたものだが、こんなことを書かれては、いかに善良な夫でも、黙って見過ごすわけにはいかなかっただろう。親戚などの間でも、相当に物議をかもしたようだ。大正十年(1921)の作で、ときに久女三十二歳。たしかに当時の嫁の立場は、とくに久女のように東京で高等教育を受けた(東京高等師範学校付属高等女学校卒)女性には辛かったろう。その辛さはよく出ているが、しかし、人には「それを言ってはおしまい」ということもあるのだ。まことに悲しい名句である。(清水哲男)


August 0981999

 朝顔や濁り初めたる市の空

                           杉田久女

女の代表作。既に二女の母だった三十八歳(1927)の作である。「市(いち)」は、彼女が暮らしていた小倉の街だ。このころの久女は、女学校に図画と国語を教えにいったり、手芸やフランス刺繍の講習会の講師を勤めるなど、充実した日々を送っていた。そうした生活が反映されて、まことに格調高く凛とした一句となった。今朝も庭に咲いた可憐な朝顔の花。空を見上げると小倉の街は、はやくも家々の竃(かまど)からの煙で、うっすらと濁りはじめている。朝顔の静けさと市の活気との対照が、極めてスケール大きく対比されており、生活者としての喜びが素直に伝わってくる。朝顔は夏に咲く花だけれど、伝統的には秋の花とされてきた。ついでに言えば「ひるがお科」の花である。久女は虚子門であり当然季題には厳しく、秋が立ってから詠んだはずで、「濁り初めたる市の空」にはすずやかな風の気配もあっただろう。まだスモッグなど発生しなかった時代の都会の空は、濁り初めても、かくのごとくに美しかった。『杉田久女句集』(1952)所収。(清水哲男)


May 1152000

 朱欒咲く五月となれば日の光り

                           杉田久女

書に「出生地鹿児島 六句」とある冒頭の一句。久女は、幼児期を鹿児島で過ごした。父親は鹿児島県庁に勤務する役人だったというから、まずは良家の子女と言えるだろう。句は、久女が四十路に入ってから、往事を懐しく追想したものだ。誰か、故郷を想わざる……。残念なことに、私は朱樂(ザボン)の花を見たことがない。白色五弁花で、香り高い花だという。見たことはないけれど、南国特有の紺碧の空を背景に白い花が咲いている様子は、想像できる。はたして三歳か四歳の久女に、幼児期の正確な記憶があったのかどうかは別にして、五月の「日の光り」とともにあった幸福な時期を追想した気持ちもよくわかる。清々しい句だ。「幼児期にこそ生命の躍動(エラン・ヴィタル)がある。黄金時代がある」と言ったのは、誰だったか。花の記憶とともに小さかった頃をしのべるというのは、やはり女性に固有の才質だろう。私などには、花の記憶のかけらもない。あるのは、飛びまわっていた蜻蛉だとか蝙蝠だとか、あるいは地を這っていた蜥蜴だとか蝦蟇だとか……。色気のない話である。『杉田久女句集』(1952)所収。(清水哲男)


July 1972000

 夕顔に水仕もすみてたゝずめり

                           杉田久女

仕(みずし)は水仕事。台所仕事のこと。一日の水仕事を終え、台所を拭き清めてから裏口に出ると、薄墨色の流れる庭の片隅に大輪の白い夕顔の花が開いていた。しばしたたずむ久女の胸に去来したものは、何だったろう。いや、何も思わず、何も考えなかったのかもしれない。この夕刻のひとときに、女と夕顔が溶け込んでいるような情景だ。「みずしもすみてたたずめり」の音感について、上野さち子は「どこか遠くを想うようなひそかなしらべがある」と書いている(岩波新書『女性俳句の世界』)。すらりとした姿のよい句だ。1929年(昭和四年)の作、久女三十九歳。久女にかぎらず、当時の主婦は、日常的にこうした夕景のなかに身を置いただろう。ことさらに人に告げるべき情景でもないが、それを久女がこのように詠んだとき、昭和初期の平凡な夕景は、美しくも匂やかに後世に残されることになった。むろん久女の手柄ではあるが、その前に、俳句の手柄だと言うべきか。女にせよ男にせよ、かりに同じような夕顔の情景に立ちあったとしても、もはや当代では無理な作句だろう。現代の夕刻は、滅多に人をたたずませてはくれないからである。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男)


November 10112000

 よろこべばしきりに落つる木の実かな

                           富安風生

興吟だと思う。いいなあ、こういう句って。ほっとする。そんなわけはないのだが、作者が「よろこべば」、木の実も嬉しがって「しきりに」落ちてくれるのだ。双方で、はしゃぎあっている。幼いころの兄弟姉妹の関係には、誰にもこんな時間があっただろう。赤ちゃんがキャッキャッとよろこぶので、幼いお兄ちゃんやお姉ちゃんも嬉しくなって、いつまでも剽軽な振る舞いをつづける。作者は、そんな稚気の関係を赤ちゃんの側から詠んでおり、実にユニーク。無垢な心の明るさを失って久しい大人が、木の実相手に明るさを取り戻しているところに、いくばくかの哀感も伴う。発表当時には相当評判を呼んだ句らしく、「ホトトギス」を破門になったばかりの杉田久女がアタマに来て、「喜べど木の実もおちず鐘涼し」とヒステリックに反発した。「風生のバーカ」というわけだ。生真面目な久女の癇にさわったのだが、狭量に過ぎるのではないだろうか。俳句は、融通無碍。その日その日の出来心でも、いっこうに構わない。「オレがワタシが」の世界だけではない。そうした器の大きさが、魅力の源にある。バカみたいな表現でもゆったりと受け入れるところも、俳句の面白さである。しゃかりきになって「不朽の名作」とやらをひねり出そうとするアタマでっかちを、きっと俳句の神は苦笑して見ているのでしょう。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


May 1652001

 バナナ下げて子等に帰りし日暮かな

                           杉田久女

語は「バナナ」で、夏。母心だ。同じような句が、細見綾子にもある。「青バナナ子に買ひあたふ港のドラ」。いずれもまだ「バナナ」が貴重品で、なかなか庶民の口には入らなかった時代の句。パイナップルも、そうだった。子供の喜ぶ顔が見たくて奮発してバナナを求め、足早に家路をたどった「日暮」である。ああ、そのような時もありき、と回想している。あの頃は、私も若くて張り切っていた、と……。さて、バナナがいかに貴重だったか。私がちゃんとしたバナナを食べたのは、二十歳を過ぎてからだ。子供のころに食した記憶はない。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』などで存在は知っていたけれど、到底手の届かぬ幻の果実だった。そのかわりに戦時中には、乾燥バナナなる珍品が出回り、これはバナナを葉巻ほどの大きさにまで乾燥させたものである。おそらく、軍隊用の保存食だったにちがいない。食べるとなんとなく甘い味はしたが、なにしろ水気がないのだから、後に知った本物とは相当に味わいが違う。それでも「バナナ」は「バナナ」。戦後になると、それすらも姿を消した。本物は夢だとしても、なんとかもう一度食べたいと思っているうちに、高校時代の立川駅の売店に、かの乾燥バナナが昔のかたちそのままに忽然と登場したときには嬉しかった。昭和二十年代も終わりの頃である。見つけたときには、心臓が早鐘を打った。英語のシールが貼ってあったところからすると、米軍もまた保存食にしていたのだろうか。早速求めて帰り、家族で食べた。「昔と同じ味だね」。父母がそう言い、私は「うん」と言った。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


March 3032002

 風に落つ楊貴妃桜房のまま

                           杉田久女

女、絶頂期(1932年)の一句。つとに有名な句だ。「楊貴妃桜(ようきひざくら)」は八重桜で、濃艶な色彩を持つ。誰の命名だろうか。かの玄宗の寵愛を一身に集めた絶世の美女も、かくやとばかりに匂い立つ。ネットで調べてみたら、わりにポピュラーな品種で、全国のあちこちで見られるようだ。久女は、かつての大企業・日本製鉄(戦後の八幡製鉄の前身)付属施設の庭で見ている。風の強い日だったのだろう。花びらの散る間もなく、房ごとばさりと落ちてきた。それを、そのまま見たままに詠んでいる。痛ましいと思いたいところだが、しかし不思議なことに、句はそれほどの哀れや無惨を感じさせない。強く的確な写生の力が、生半可な感傷を拒否しているからだろう。この句については、多くの人がいろいろと述べてきた。なかで、ほとんどの人が口を揃えたように久女のナルシシズムを見て取っている。つまり、ここで自分を楊貴妃に擬していると言うのだ。落ちてもなお美しい私というわけだが、どうしてそういう解釈が出てくるのか、私には理解できないところだった。久女は俳壇の伝説的存在ではあるので、そうした伝説が加味されての解釈かとも思っていた。が、最近になって同じ情景を詠んだ次の句を知って、ははあんとうなずけた。「むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず」、これである。掲句の解説みたいな句だ。この句には、たしかに殺された悲劇のヒロインをみずからに擬した気配が漂っている。だから、この句を知ってしまうと、掲句の解釈にもかなり影響してくるだろう。なあんだ、そういうことだったのか。よほど私が鈍いのかと悲観していた。ほっ。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男)


August 0682002

 かくらんに町医ひた待つ草家かな

                           杉田久女

語は「かくらん(霍乱)」で夏。暑気中りが原因で起きる病気の総称である。現在では日射病などの熱中症を指す場合が多いが、古くは命にかかわるようなコレラやチフスの重病も含めていたようだ。よく言われる「鬼の霍乱」は、重病のケースだろう。句意は明瞭。家族の誰かが急に具合が悪くなり、あまりに苦しそうなので、町から医者に来てもらうことにした。病人を励ましながら、医者を待つ時間の何と長くて暑く、心細くもいらいらさせられることか。「町」と「草家」の対比で、作者の家が町から遠い場所にあることが知れる。いまならば確実に救急車を呼ぶところだが、昔の村などではみな、こうしてじいっと医者が来るまで「ひた待つ」しかなかった。そのうちに、やっと看護婦を従えた医者が到着する。あれは不思議なもので、医者が到着するだけで家内の雰囲気がぱっと明るくなり、病人も安堵するので、もう半分くらいは治ったような気持ちになるものだ。少年時代の私も、病人としてその雰囲気を体験したことがある。「助かった」と、心底思ったことであった。久女に、もう一句。「かくらんやまぶた凹みて寝入る母」。しかるべき処置をして、医者が帰っていった後の句だろう。やつれてはいるけれど、すっかり安心して、静かに寝入っている母よ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 19112002

 折詰に鯛の尾が出て隙間風

                           波多野爽波

語は「隙間風」で冬。「鯛の尾が出て」いる「折詰(おりづめ)」が配られているのだから、何か祝いの席なのだろう。大広間だ。いまのように暖房装置が発達していなかったころの日本間は、本当に寒かった。坐る場所によっては、小さな隙間から容赦なく風が入り込んでくるので辛かった。なにしろ「寸分の隙間うかがふ隙間風」(杉田久女)というくらいなものである。たとえすぐ傍らに火鉢が置いてあっても、何の役にも立ちはしない。運悪く、作者はそんな席に着いている。寒くてかなわん、早く終わってくれ。そんなときに限って、祝辞やら挨拶やらがいつ果てるともなくつづいていく。目の前の仕出し弁当も、どんどん冷たくなっていくようだ。やがてこの冷えきった折詰を開いてつつくのかと思うと、いよいよ寒さが募ってくる。出されたお茶などは、とっくのとうに冷えきっている。ときどき非難するような目で、隙間風の入ってくる方を見やったりする作者の姿までもが浮かんできて滑稽だが、当事者にしてみれば切実な問題なのだ。折詰の隙間からは、鯛の尾。部屋の隙間からは、冷たい風。この対比が、なおさらに滑稽感を誘ってくる。このように、気の毒だけれど滑稽に思えることは、他にもよくあることだ。それを短い言葉で的確に表現できる様式は、俳句をおいて他にはないだろう。『花神コレクション・波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


May 0852003

 谺して山ほととぎすほしいまゝ

                           杉田久女

女の名吟として、つとに知られた句。「谺」は「こだま」。里ではなく、山中という環境を得て自在に鳴く「ほととぎす」の声の晴朗さがよく伝わってくる。読者はおのずから作者と同じ場所に立って、少しひんやりとした心地よい山の大気に触れている気持ちになるだろう。おもわずも、一つ深呼吸でもしたくなる句だ。作者は下五の「ほしいまゝ」を得るまでに、かなりの苦吟を重ねたといわれる。確かに、この「ほしいまゝ」が何か別の言葉であったなら、この句の晴朗さはどうなっていたかわからない。よくぞ思いついたものだが、なんでもある神社にお参りした帰り道で白い蛇に会い、帰宅したところで天啓のようにこの五文字が閃いたのだそうだ。となれば、句の半分は白い蛇が作ったようなものだけれど、白い蛇と言うから何か神秘的な力を想像してしまうのであって、詩歌の創作にはいつでもこのような自分でもよくわからない何かの力が働くものなのだ。ついに理詰めには行かないのが詩歌創作の常であり、とりわけて俳句の場合には、言葉はむしろ自分から発するというよりも、どこからか降ってくるようなものだと思う。作者が動くのではなく、対象が客のように向こうからやってくるのだ。やってくるまで辛抱強く待つ状態を指して、苦吟と言う。その苦吟の果てに、この五文字を感得したときの久女の喜びはいかばかりだったろう。咄嗟にあの白い蛇のおかげだと思ったとしても、決して頭がどうにかなったわけではないのである。『杉田久女句集』(1969)などに所収。(清水哲男)


May 2352003

 ほとゝぎす女はものゝ文秘めて

                           長谷川かな女

正初期の作。当時の虚子の鑑賞があるので読んでみよう。「女といふものは男ほど開放的にし兼ねる地位にあることから、ある文を固く祕めて人にみせずにゐるといふのである。これが男の方だとたとひその祕事が暴露したところで一時の出来事として濟むのであるが、女になるとさうはゆかぬ場合が多い。それはもともと女が社會的に弱者の地位に在るといふことも原因であらうが、そりばかりでなく、元来女のつつましやかな、やさしげな性情から出発して来てゐるものともいへる。ほとゝぎすと置いたのは、主観的の配合で、ほとゝぎすといふ鳥は僅かに一聲二聲を聞かせたばかりでたちまち遠くへ飛び去つて姿はもとよりそのあとの聲も聞えぬ鳥である。さういふ鳥の人に與へる感じと、女のものを祕め隠す心持とに似通つた點を見出して配したものである」(『進むべき俳句の道』1959・角川文庫)。だいたいの解釈としてはこれでよいとは思うが、しかし、虚子の物言いはひどく曖昧だ。言い方を変えれば、諸般の事情に配慮しての鑑賞文である。かな女はこのときに、同じく「ホトトギス」の投句者であった長谷川零餘子の夫人であった。そのことは、虚子も承知している。承知しているばかりか「かな女君は長谷川家の家附きの娘さんであつて、零餘子君は他から入家した人である」と世間に「暴露」している。したがって、虚子が掲句に注目したポイントは、この鑑賞文にはほとんど何も書かれていないということだ。……なんてことを言う私のほうが下世話に過ぎるのかとも一瞬思ったけれど、そんなこともないだろう。淡くぼかしてはあるが、それでも相当な勇気をふるって投稿した作者は、このように鑑賞されたのでは不本意だったに違いない。与謝野晶子の『みだれ髪』が世に出てから、ゆうに十年以上も経っていたというのに……。かな女のライバルであった杉田久女は、虚子に同人除名という仕打ちにあったずいぶん後で「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と詠んだけれど、虚子の「社會的」(「経営者的」と言える)なバランスを重んじすぎる感覚に無言ながら不満だった人は、けっこういたのではなかろうか。(清水哲男)


September 1692005

 呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉

                           長谷川かな女

語は「芙蓉(ふよう)」で秋。近所に芙蓉を咲かせているお宅があり、毎秋見るたびに掲句を思い出す。といっても、共鳴しているからではなくて、かつてこの句の曖昧さに苛々させられたことが、またよみがえってくるからである。つとに有名な句だ。有名にしたのは、次のような杉田久女に関わるゴシップの力によるところが大きかったのだと思う。「(久女の)ライバルに対する意識は旺盛でつねに相手の俳句を注視し、思いつめてかな女の句が久女より多く誌上にのると怒り狂い、『虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯』という句をわざわざ書いて送ったりするが、かな女のほうは『呪ふ人は好きな人なり花芙蓉』と返句する。軽くいなされて久女はカッとなった」(戸板康二「高浜虚子の女弟子」)。「花芙蓉」は「紅芙蓉」の誤記だ。プライドの高かった久女のことだから、さもありなんと思わせる話ではあるが、実はまったくの誤伝である。誤伝の証明は簡単で、掲句は久女句よりも十五年も前の作だからだ。しかし戸板もひっかかったように、長年にわたってこの話は生きていたようで、「ため」にする言説は恐ろしい。ところで、私が句を曖昧だと言うのは、「呪ふ」の主体がよくわからないところだ。ゴシップのように「呪ふ」のは他者であるのか、それとも「好き」の主体である自分なのか、はなはだ漠然としている。どちらを取るかで、解釈は大きく異なってくる。考えるたびに、苛々させられてきた。失敗作ではあるまいか。諸種の歳時記にも例句として載っているけれど、不思議でならない。私としては、まずこの句をこそ呪いたくなってくる(笑)。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


September 2192007

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

                           杉田久女

分の心の暗部を表白する俳句が、大正末期の時代の「女流」に生まれていたのは驚くべきことである。厨房のこまごまを詠んだり、自己の良妻賢母ぶりを詠んだり、育ちの良い天真爛漫ぶりを演じたり、少し規範をはみ出すお転婆ぶりを詠んだり、当時のモガ(モダンガール)を気取ったりの作品は山ほどあるけれど、それらは、どれも「男」から見られている「自分」を意識した表現だ。それは当時の女流の限界であって、そういう女流を求めていた男と男社会の責任でもある。今においては、「女流」なんて言い方は時代錯誤と言われそうだが現代俳句においてどれほど意識は変革されたのか。ここからここまでしか見ないように、詠わないようにしましょうと啓蒙し、自分は自在に矩を超えて詠んだ啓蒙者のいた時代は終わった。自ら進んで規範に身をゆだね啓蒙される側に立つのはもうやめよう。男も女も。われらの前にはただ空白のキャンバスが横たわっているのみである。『杉田久女句集』(1951)所収。(今井 聖)


March 2832008

 入学児に鼻紙折りて持たせけり

                           杉田久女

の句、「折りて」が才能。言われてみると子どもに持たせるんだからそりゃあ折って渡すだろうと思うかも知れないが、俳句を作る段になれば言える表現ではない。努力では到達できない表現だろう。庶民の多くの階層に自己表現への道を拓いた虚子は女性には台所俳句と呼ばれた卑近な日常を詠むことを説いた。「もの」を写す「写生」ではなく、倫理観の方を優先させて良妻賢母の在り方を自己主張するように導いたのである。虚子がというより当時の社会がそういう「女」を求めたからだ。妻として母として自分が如何に健気に自分を殺して生きているか。当時の女流作品の多くはそんな世界が主流であった。入学児に鼻紙を持たせるのは母親としての愛情とあるべき配慮。ここまでが基準課題の合格点。ここからが才能である。久女は当時の男社会が要求する「女性らしさ」の定番を易々とクリアしてみせつつ、「折りて」に定番を超えた「自己」を噴出させる。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


April 0842008

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

                           杉田久女

釈迦さまの誕生日を祝う仏生会は4月8日だが、近所の護国寺では日曜日に合わせて先日6日に行われた。色とりどりの生花をあしらった花御堂のなかには「天上天下唯我独尊」と言われたという右手を天に掲げたポーズで誕生仏が納められる。可愛らしい柄杓でお釈迦さまの身体に甘茶をかける習わしは、誕生のときに九龍が天から清らかな香湯を吐き注いで、産湯をつかわせた伝説に基づくものだという。晴天のもと、桜吹雪のなか、善男善女の列に加わり、薄甘いお茶を押しいただけば、まったく無責任に「ああ、極楽ってよさそうなところ」などと夢想する。雪のクリスマス、花の仏生会、信仰心にほとんど関係なくそれぞれの寿ぎの祝典を抵抗なく受け入れているのは、どちらも根幹には命の誕生という健やかさが共通して流れているからだと考える。しかし、掲句はこの場にぬかづいている自分をわずかに持て余す心地が頭をもたげている。それは、さまざまな欲に満ちた日常もそれほど悪くないことを知っているわが身が、眼前に繰り広げられている極楽絵巻のなかにさりげなく溶け込むことができないのだ。孤独でシニカルな視線は、常に影となって久女の身に寄り添っている。『杉田久女句集』(1969)所収。(土肥あき子)


November 28112008

 さも貞淑さうに両手に胼出来ぬ

                           岡本 眸

は「ひび」。出来ぬは「出来ない」ではなくて「出来た」。完了の意。「胼ありぬ」なら他人の手とも取れるから皮肉が強く風刺的になるが、「出来ぬ」は自分の手の感じが強い。自分の手なら、これは自嘲の句である。両手に胼なんか作って、さも貞淑そうな「私」だこと。自省、含羞の吐露である。「足袋つぐやノラともならず教師妻」は杉田久女。貞淑が抑圧的な現実そのものであった久女の句に対し、この句では貞淑は絵に描いた餅のような「架空」に過ぎない。貞淑でない「私」は、はなっから自明の理なのだ。含羞や自己否定を感じさせる句は最近少ない。花鳥や神社仏閣に名を借りた大いなる自己肯定がまかり通る。含羞とは楚々と着物の裾を気にする仕種ではない。仮面の中に潜むほんとうの自分を引きずり出し、さらけ出すことだ。『季別季語辞典』(2002)所収。(今井 聖)


October 08102010

 我を捨て遊ぶ看護婦秋日かな

                           杉田久女

性看護士への悪口。「芋の如肥えて血うすき汝かな」同時期にこんな句もある。僕の友人だった安土多架志は長く病んで37歳で夭折したが、神学校出で気遣いのある優しい彼でさえ、末期の病床で嫌な看護婦がいるらしかった。その看護婦が来るとあからさまに嫌な顔をした。病院という閉鎖的な状況に置かれた人の気持ちを思えばこういう述懐も理解できる気がする。同じように長く病んだ三好潤子には「看護婦の青き底意地梅雨の夜」ある。それにつけても看護の現場に生きる人は大変だ。閉鎖的空間に居ることを余儀なくさせられた病者の気持ちに真向かう職業の難しさ。俳句は共感というものを設定し、それに適合するように自己を嵌め込むのではなくて、まず、自分の思うところを表現してみるということをこういう俳句が示唆してくれる。「詩」としての成否はその次のこと。『杉田久女句集』(1951)所載。(今井 聖)


September 1692011

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                           杉田久女

本健吉が『現代俳句』の中で絶賛している。曰く、「「秋冷いたる」の音調は爽やかで快く、「信濃かな」の座五も磐石のように動かない。なぜ動かないか、理屈を言っても始まらぬ。とにかく微塵揺るぎもしないこの確かさは三嘆に価する。」健吉の評価に影響されずに読んでもまさに秀吟であることに異存はないが、今ならこんな句は絶対詠えないし、詠えても果たして評価を得るだろうかという思いが湧く。時代の推移による自然環境の変化という話ではない。今でもこの風景は信濃なら一般的。問題はふたつの季語が使われている点である。梅雨期の紫陽花という季語の本意に捉われてしまうと「秋冷」は絶対使えない。仮に句会でこの句を見たら本意を離れた特殊な設定として評価のうちに入れないような気がする。思えば当時はふたつの季語など俳句では一般的であった。一句に季語はひとつとうるさく言い出したのは戦後である。無季派との論議が盛んになったために季語の持つ有効性を強調する必要に迫られたことも影響しているのかもしれないが、早く効率的に俳句の技量を上げるという技術指導が流布したことが大きいのではないか。駄句をなるべく作らないという方法は同時に奇蹟のような秀句の誕生も阻害する。一句に季語はひとつという「約束」は効率以外のなにものでもないことはこういう句を見るとわかる。最近はそれを意識してか、一句に意図的に複数の季語を入れる試みをしている俳人もいる。そういう技術の披瀝を目的のあざとさが見えるとこれも不満。技術本の罪は大きい。『現代俳句』(1964)所収。(今井 聖)




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