小沢信男の句

November 06111996

 ためらってまた矢のごとき蜻蛉かな

                           小沢信男

蛉は「あきつ」と読ませる。そのほうが「矢」に照応するからである。この句、実に巧みに蜻蛉(とんぼ)の生態をとらえていて、しばし「うーむ」と唸ってしまった。こうした一瞬の蜻蛉の姿を誰それの人生になぞらえることもできそうだが、この場合には、私は素直にこのまま受け取るほうを選ぶ。小沢信男は作家にして、わが「余白句会」の宗匠的存在。俳風は軽妙洒脱、反骨精神旺盛である。俳号は「巷児」と、いかにも谷中の住人にふさわしい。(清水哲男)


December 22121996

 あかんべのように師走のファクシミリ

                           小沢信男

ァクシミリから出てくる情報は、たいていが仕事に関わるものである。それでなくとも追い立てられる気持ちでいるところに、追い討ちをかけるような情報が届く。読まなくても中身はほとんどわかっているのだが、家庭用の機械からのろのろと吐き出されてくるロール紙を見ていると、まるで「あかんべ」とからかわれているかのようだ。わかりますねえ、この気持ち。小沢信男は作家だが、こうした時事句は、専門俳人こそもっと数多くつくってしかるべきべきだろう。『昨日少年』所収。(清水哲男)


January 1511997

 徴兵も成人の日もないまんま

                           小沢信男

イツから帰国中の娘が、今年は配偶者の弟が徴兵にかかるのだと言う。一年の兵役義務だ。ドイツにかぎらず、世界の多くの国の若い男たちは、その青春の日々の一定期間を軍隊で過ごさねばならない。敗戦前の日本でもそうだった。句の前書に「昭和二年生まれ」とある。作者は敗戦で徴兵は逃れたのだが、「成人の日」が制定される前に二十歳は過ぎてしまった。生まれあわせがよかったような、そうでもないような……。この世代独特の苦笑である。『昨日少年』所収。(清水哲男)


June 0361997

 学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

                           小沢信男

書きに「月島西仲通り」とあり、東京下町の風景であることがわかる。この句と「もんじゃ焼き」については種村季弘の『好物漫遊記』(ちくま文庫)中に「月島もんじゃ考」の項があるので御覧を乞う。小沢さんは何言おう。評者達詩人の俳句会「余白句会」の師匠である。従って弟子としては梅雨がくる度にこの句を宣伝したい。人口に膾炙する迄「もんじゃの小沢」を宣伝しまくりますぞ。この句、小沢さんによれば「学のあるひとばっかりが誉めるんだよねえ……」。それはそうでしょう。小年老イ易ク 学成リ難シ 一寸ノ光陰 軽ンズベカラズ。『東京百景』(89年・河出書房新社)所収。(井川博年)


August 2381998

 雲の峰みるみるしらがのおじいさん

                           小沢信男

宮城の乙姫様から土産にもらった玉手箱を開けてみたら、白い煙がたちのぼり「みるみるしらがのおじいさん」になってしまったという浦島太郎。真っ白い雲の峰を仰ぎながら、作者はふと浦島伝説を思い出している。このとき、雲の峰は玉手箱からの白煙であり、作者は「しらがのおじいさん」である。なんともスケールの大きい句であるが、大きいだけに、どこか物悲しい味わいがある。ペーソスという外国語を当て嵌めるほうが、ぴったりきそうな句境と言うべきか。かといって、作者は自分が「みるみる」老いたことを嘆いているのではない。人生は夢の如しと、悟っているわけでもない。気がついてみたら「しらがのおじいさん」になっていたという、どちらかといえば自分でも得心のいかない不思議な気分を、このような表現に託したのだと思う。浦島太郎もよほどびっくりしただろうが、自然に年令を重ねているつもりの普通の人も、たまにはこのように「みるみる」歳を取ったという実感に襲われることがあるようだ。私も、ようやくそんなことがわかりかける年令にさしかかってきた。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


September 1491998

 射的屋のむすめものぐさ秋祭

                           小沢信男

屋がけの小さな射的屋。ほろ酔い気分のひやかし気分で、作者は的を射っている。だが、めでたく命中して下に落ちた景品に、なかなか店の娘が反応してくれないのだ。いちいち声をかけないと、動こうとはしない。そのうちに、だんだん腹が立ってくる。まだタマは残っているけれど、もう止めたっ。そんな情景だろうか。しかし、娘に立腹はしてみたものの、射的屋を離れて祭りの人込みにまぎれてみれば、目くじらを立てるほどのことでもなかったと、作者は苦笑しているようだ。あの娘だって、旅から旅の生活で疲れているんだろう。そう思えば、娘のやる気のないものぐさな態度も、許せるような気がしてくる。この秋の祭り情緒のひとつとして、やがては作者の胸のうちに溶けていってしまう。夏祭での出来事だと、気持ちはとてもこんな具合には収まるまい。かくのごとくに、秋は人の心をやさしくさせる。この句を読んで、子供のときの村祭りを思い出した。特別にもらった十円ほどの小遣いを握り締めて、つまらない小物ばかりを買っていた。射的屋もものぐさ娘も、ただ仰ぎ見るだけの存在だった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


April 2641999

 ある朝の焼海苔にあるうらおもて

                           小沢信男

苔(のり)に裏と表があるくらいは、誰でも承知している。でも、食卓でいちいち裏表を気にしながら食べる人はいないだろう。ご飯などに巻きつけるときに、ほとんどの人は海苔の表を外側にしていると思うが、無意識に近い食べ方である。ところが、作者はある朝に、どういうわけか海苔の裏表を意識してしまった。「ふーむ」と、箸にはさんだ「山本山」か何かの焼き海苔を、裏表ひっくり返してみては、しきりに感心している。こんな図を漱石の猫が見たら、何と言うだろうか。想像すると、楽しくなる。しかし、こういうことは誰にでも起きる。当たり前なことを当たり前なこととして直視することがある。他人には滑稽だけれど、本人は大真面目なのだ。そして、この大真面目を理解できない人は、スカスカな人間に成り果てるのだろう。余談になるが「山本山」のコマーシャル・コピーに「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」というのがあった。すかさず「裏から読んでもヤマモトヤマ」と反応したのが、今は早稲田大学で難しそうな数学の先生をやっている若き日の郡敏昭君であった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


July 2771999

 ありそうでついにない仲ところてん

                           小沢信男

き氷や蜜豆くらいならばまだしも、ところてん(心太)は目掛けて食べに行くようなものではない。ちょっと休憩と店に入り、たまたま品書きで見つける程度の存在感の薄い嗜好品だ。しかも「心太ひとり食うぶるものならず」(山田みづえ)とあって、確かにひとり心太を食べる図というのも似合わない。句のように、男女の場つなぎの小道具みたいなところがある。このとき「ところてん」ではなく「かき氷」や「蜜豆」では、逆に絵にならない。あくまでも少々陰気な「ところてん」がふさわしいのだ。なんとなく、二人の仲が曰くありげに見えてくるではないか。でも、目の前の相手との曰くは「ありそうでついにない」という仲。「ありそう」だったのは昔のことで、「ついにない」まま過ぎてきた。それでいいのさ、と作者は微笑している。相手の女性も、同じ気持ちだろう。いささかの恋愛感情を含んだ大人の男女の微妙な友情が、さりげなく詠まれていて心地好い。あまり美味いとは思わないが、そんな誰かと裏町のひっそりとした店で「ところてん」を食べたくなってくる。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 02111999

 栗剥くは上手所帯は崩しても

                           小沢信男

の剥(む)き方は、あれでなかなか難しい。剥いているのは女性だろう。それも、小さな飲屋の「おかみ」というところか。客の前で生の栗を剥くはずはないから、茹でた栗か焼き栗かを、実に器用に剥いている。剥きながら、問わず語りに過去の不幸を語っているのかもしれない。栗を上手に剥くことと所帯をうまくやっていくことの間には、さしたる関係もないのであるが、作者はいささかの好意をもっている女性だけに、その関係を濃いものとしてとらえている。こんなに器用なのだから家事全般については、何の落ち度もなかったろうに……。人生はうまくいかないものだなア、と。このとき「所帯は崩しても」に皮肉の意図はなく、哀感を強調するための用語法である。大きな「所帯」と小さな「栗」との対比が利いている。彼女が所帯を崩すには、もとよりそれなりの事情があったのだろうが、そこまでを直接尋ねるわけにはいかない。たいていの身の上話は、どこかに曖昧な要素を残しながら終わってしまうものだ。それでいいのである。小津映画の一シーンのような句だとも思った。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


February 0922000

 ふくらんで四角薬屋の紙風船

                           小沢信男

ういえば、ありましたね。四角い紙風船。薬屋がおまけにくれた風船を、ふくらませてみたら四角だった。丸い風船のイメージがあったので、ちょっと意表を突かれたというところ。いかめしい感じの商売の薬屋だから、やっぱり風船もいかめしいや……。と、作者は心楽しくも腑に落ちている。そんな作者の納得顔が想像されて、もう一つ読者は楽しくなるという仕掛け。ところで、四角い紙風船はなかなか巧くつけない。どうかすると、とんでもない方角に飛んでいってしまう。不人気の理由である。そこへいくと、誰が発明したのか、丸い風船は実によくできている。形状の美しさもさることながら、ついているうちに内部の空気量が調節されるメカニズムの妙には、いつも驚かされてきた。寺田寅彦あたりに「紙風船論」はないのかしらん。ないのであれば、誰か専門家にぜひとも書いてほしいテーマである。「紙風船息吹き入れてかへしやる」(西村和子)。遊び道具を媒介にした、こうしたこまやかな心遣いの美学についても。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


February 1422000

 老教師菓子受くバレンタインデー

                           村尾香苗

生徒からリボンをかけた小函を差し出されて、一瞬いぶかしげな表情になる。が、すぐに破顔一笑「ありがとう」という光景。きっと、先生の笑顔は素敵だったろう。題材を「老教師」にとったところが、作者の腕前を示している。バレンタインデーのいわれは、いまさらのようだから省略するが、こうしたほほ笑ましい交歓を生んできたところもあり、一概にチョコレート屋の商業戦略をののしってみたところではじまるまい。「義理チョコ」というミもフタもない言葉もあるけれど、この場合はそうではなく、やはり真っ当な愛情表現の一つになっている。この日の句では、小沢信男の「バレンタインデー樋口一葉は知らざりき」も傑作だ。彼女の薄幸の生涯を想うとき、句にはまことに哀切な響きがあると同時に、返す刀で「義理チョコ」世相の軽薄を討つ姿も見て取れる。で、ひさしぶりに、一葉の淡い愛の世界を読みたい気分になった。ついさきほど、たしかこのあたりに文庫本があったはずだと書棚を眺めてみたが、見当たらない。発作的にある本が読みたくなったときに、こうして、私は同じ本を何冊も買う羽目におちいってしまう。昔からだ。(清水哲男)


March 1132000

 落第も二度目は慣れてカレーそば

                           小沢信男

語は「落第」で春。変な季語もあったものだが、学校の社会的位置づけが高かった時代の産物だ。いうところの「キャリア」を生み出すためのシステムだけに、逆に落伍者も大いに注目されたというわけである。落第した当人は、一度目はがっかりしてショボンとなるが、二度目ともなるとあきらめの境地に入り、暢気にカレーそばなんかを食っている。それでも、ザルそばなんかじゃなく、少しおごってカレーそばというあたりが、いじらしい。自分で自分を慰めているのだし、甘やかしてもいるからだ。私も、大学で二度落第した。一度目は絶対的な出席日数不足。二度目は甘く見て、田中美知太郎の「哲学概論」を落としたのが響いた。句の通りに、二度目でも確かに「慣れ」の気分になるものだ。学費を出してくれている父親の顔はちらりと思い出したが、深く落ち込むことはなかった。同病相哀れむ。同じ身空の友人たちと酒を飲みながら、「このまま駄目になっていくのかなあ」とぼんやりしていた。後に大学教授になる友人に「おまえらは怠惰なんや」と言われても、一向にコタえなかった。落第生には、優等生が逆立ちしてもわかりっこない美学のようなものが、なんとなくあるような気すらしていたのだ。石塚友二に「笛吹いて落第坊主暇あり」がある。「暇」は「いとま」。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


May 2052000

 そもそものいちぢく若葉こそばゆく

                           小沢信男

もそも私たちが若葉や青葉というときに、たいがいは樹木についた新葉をひっくるめてイメージするはずである。ほとんど「新緑」と同義語に解している。いちいち、この若葉は何という名前の木の葉っぱで……などと区別はしないものだ。なかに「柿若葉」や「朴若葉」と特別視されるものもあるけれど、それはそれなりの特徴があるからなのであって、まさか「いちぢく」の葉を他の若葉と景観的に切り分けて観賞する人はいないだろう。そこらへんの事情を百も承知で、あえて切り分けて見せたところに句の妙味がある。誰もが見る上方遠方の若葉を見ずに、視線を下方身近に落として、そこから一挙に「そもそも」のアダムとイヴの太古にまで時間を駆けのぼった技は痛快ですらある。「そもそも」人類の着衣のはじまりは、かくのごとくにさぞや「こそばゆ」かったことだろう。思わずも、日頃関心のなかったいちぢくの葉っぱを眺めてみたくなってしまう。ただし、この諧謔は俳句だから面白いのであって、例えばコント仕立てなどでは興ざめになってしまうだろう。俳句はいいなア。素朴にそう感じられる一句だ。ついでだけれど、同様に青葉の景観を切り分けた私の好きな一茶の句を紹介しておきたい。「梅の木の心しづかに青葉かな」。梅の青葉です。言われてみると、たしかに「しづか」な心持ちになることができます。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


June 2962000

 学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

                           小沢信男

書に「月島西仲通り」とある。東京の下町だ。「もんじゃ(焼き)」は近年マスコミで紹介され、東京土産としてセットも売られているので、全国的に知られるようになってきた。一応『広辞苑』から定義を引いておくと、「小麦粉をゆるく溶き、具をあまり入れずに、鉄板で焼きながら食べる料理。焼く時に鉄板にたねで字を書いて楽しんだことで『文字焼き』の転という」。句意は明瞭にして、句感はひどく切ない。同じような食べ物でも、「お好み焼き」だとこうはいかないだろう。座が、はなやぎ過ぎるからだ。ところで、当ページにときどき出てくる「余白句会」は、実はこの句に発している。作者と辻征夫などが詩誌「詩学」投稿欄の選者だった折り、雑談で俳句の話になり、そのときに辻が好きな句としてあげたのが、この句だった。彼は種村季弘が句を激賞していた文章で覚えていたのだが、作者名は失念してしまっていた。で、「作者は忘れちゃったんですけど……」と、作者本人を前に滔々と激賞したというわけだ。このときの作者の困ったような顔を想像すると、可笑しい。それがきっかけとなって楽しい句会が誕生したのだが、こういう場合はいったい誰に感謝すればよいのだろうか(笑)。井川博年の観察によれば、掲句は学者など「学成った人」に評判がよいそうだ。わかるような気がする。なお掲句については、既にその井川君の観賞が掲載されています(1997年6月3日付)。『んの字 小沢信男全句集』(2000)。(清水哲男)


September 0592000

 んの字に膝抱く秋の女かな

                           小沢信男

立ての妙。「余白句会」で、満座の票をかっさらった句だ。たしかに「んの字」の形をしている。「女」は、少女に近い年齢だろう。まだあどけなさを残した「女」が物思いにふけっている様子だから、その姿に「秋」を感じるのだ。「んの字」そのものが、相対的に見ると、独立した(成熟した)言語としての働きを持たないので、なおさらである。爽やかさと寂しさが同居しているような、秋にぴったりの風情。からっとして、ちょっぴり切ない風が、読者に吹いてくる。佐藤春夫の詩の一節に「泣きぬれた秋の女を/時雨だとわたしは思ふ」(表記不正確)があり、同じ「秋の女」でも、こちらには成人した女性を感じさせられる。時雨のように、この「女」はしめっぽい。そして、色っぽい。ついでに、私がそらんじている「女」の句に、島将五の「晩涼やチャックで開く女の背」がある。「晩涼」は、夏の夕暮れの涼しさ。小沢信男は「女」を横から見ているが、島は背後から見ている。すっとチャックを降ろしたとすると、真っ白い背中が現われる。……という幻想。これだけで涼味を感じさせる俳句も凄いが、考えてみたらそうした感覚を喚起する「女」のほうが、もっと凄い。ねえ、ご同役(??)。「男」だって、簡単に「んの字」くらいにはなれる。いまどきの「地べたリアン」なんて、みんなそうじゃないか。などと、冗談にもこんなことを言うヤツを、常識では野暮天と言う。小沢や島、そして佐藤の「粋」が泣く。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 2592000

 蓑虫や天よりくだる感嘆符!

                           小沢信男

虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


April 1242001

 夕東風や銭数えてる座頭市

                           小沢信男

頭(ざとう)とは、元来が琵琶法師の座に属する剃髪した盲人の官位を指す。近世になると、琵琶を演奏するだけではなく、一方で按摩や金貸しなどを業とした。転じて、盲人の意味もある。江戸期、そんな盲人の一人に「座頭市」と呼ばれた凄い男がいた。子母沢寛の随筆にほんの数行だけれど、按摩にして居合い抜きの達人がいたと出てくる。この数行をふくらませたのが京都大映の脚本家・犬塚稔で、それまでは白塗りで鳴かず飛ばずだった勝新太郎をスターの座に押し上げてしまった。「座頭市シリーズ」である。第一作目は『座頭市物語』(1962)。下総の大親分・飯岡助五郎一家に草鞋を脱いだ座頭市は、賭場では目明き以上の眼力を発揮したし、仕込み杖を逆手に握った居合い抜きの冴えには恐るべきものがあった。それが浮き世のしがらみから、お互いに剣の実力を認め合っている笹川繁蔵の用心棒・平手造酒との直接対決となる。このあたりは、むろん脚本家のフィクションだ。映画なので、座頭市が勝つ。勝つのだが、好まざる命のやりとりに空しさを覚えた座頭市が下総を去っていくところで、映画は終わる。前説が長くなったけれど、掲句はそよそよと心地よく吹く夕東風のなかで、座頭市が真剣な手つきで銭を数えている。それも、按摩の仕事で得た小銭をだ。仕込み杖さえ使う気になれば大金が転がり込んでくるというのに、それをしないで真っ当に按摩で稼いだ銭をいとおしんでいる。その姿を、作者もまたいとおしんでいる。春の夕景は、こうあってほしいものだ。このわずかな銭を元手に、これから彼がちんけな賭場に上がり込むにしても、だ。平手造酒とは違って、座頭市は身をやつしているわけじゃない。居合い抜きの名手であることも、彼にとって社会的な価値でも何でもない。あんなに腕が立つのなら、もっとよい暮らしができるのにと思うのは、現代人の見方。そうはいかなかったのが、江戸という時代だ。そのへんの事情にも、作者の思いはきちんと至っている。文芸同人誌「橋」(第16号・2001年4月)所載。(清水哲男)


June 2262001

 四方に告ぐここにわれありアマリリス

                           小沢信男

の形は百合に酷似する「アマリリス」だが、アフリカやメキシコなど熱帯地方の原産だという。ヒガンバナ科。深紅色とでも言うべき花の色が、それを告げている。しゃきっと咲いた「アマリリス」の姿は、なるほど「ここにわれあり」と「四方(よも)」に存在を主張しているかのようだ。花の姿を見ての印象は、むろん個々人によって様々かつ微妙に異なるわけだが、この句にはそうした印象のずれを許さない迫力がある。試みに句の「アマリリス」を他の花と入れ替えてみれば、事は瞭然だろう。形の近しい百合では、清楚に過ぎて役不足。しゃきっとは咲くけれど、昂然と眉を上げるような気概にはほど遠い気がする。かといって本家のヒガンバナだと、「四方に告ぐ」が暑苦しくも不遜な科白に聞こえてしまう。「アマリリス」の気品が、不遜に聞かせないのだ。アジサイでは、はじめからこんなことは言わないだろうし……。などと詰めていくと、他の花には置き換えられないことがわかってくる。さらには、ちょっと深読みになるが、この「アマリリス」は、作者の江戸っ子気質と照応しており、いわば肝胆相照らすような存在だとも思える。江戸っ子の心意気を、花に託して申し述べれば「かくのごとし」という句ではなかろうかと。「アマリリス」の擬人化が、この読みを引きだした。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 13112001

 菊人形問答もなく崩さるる

                           藤田湘子

語は「菊人形」で秋。漱石の『三四郎』に本郷団子坂での興業の賑わいぶりが登場する。明治末期の話だが、この時期の娯楽としては相当に人気が高かったようだ。さて、掲句は現代の作。菊師(きくし)入魂の作品である人形も、興業が果てて取りかたづけられる段になると、かくのごとくに「問答無用」と崩されていく。丹精込める菊師の人形作りには「問答」があるけれど、始末する作業者にはそれがない。ないから、むしろ小気味よい感じで「崩さるる」のだ。このときの作者には、せっかくの人形を乱暴に崩すなんてなどという感傷はないだろう。見る間に崩されていく場景を、むしろ無感動に近い気持ちで見つめている。仮に哀れの念がわくとしても、それはこの場を去ってからのことにちがいない。あまりにも見事な崩しぶりに、感じ入っているだけなのだ。ひどく乾いた抒情が、句から伝わってくる。ところで、小沢信男に「凶の籤菊人形の御袖に」がある。「凶」だとはいえ、そこらへんに捨ててしまうわけにもいかず、持ち歩いていた御神籤(おみくじ)の札を、そっと「菊人形の御袖に」しのばせたというのである。なかなかに、洒落れた捨て所ではないか。で、展示が終了したときに、この人形をどさどさっと手際よく作業者が崩しにかかると、なにやら白い紙がひらひらっと舞い上がり、男の額にぺたりと張り付いた。なんだろうと、男が紙を開いてみる。……。「へい、おあとがよろしいようで」。『去来の花』(1986)所収。(清水哲男)


December 09122001

 それがまた間違いファクス十二月

                           小沢信男

人との会話を、そのまま句にしている。我が家でもそうだが、「ファクス」が届くと「誰からだった?」と聞かれたり聞いたりする。そこで作者は「それがまた間違いファクス」でね、やっぱり「十二月」だなあ、忙しいので間違えちゃうんだよ、と……。古来、当月のあわただしさはいろいろに表現されてきたが、掲句はそれをさらりと現代風にとらえてみせている。そう言えば、ちょうど今頃だ。数年前に届いた「間違いファクス」に、あわてふためいたことがある。旅行会社からで、正規の受取人にとっては急を要する内容だった。受取人は海外ツァーのキャンセル分を申し込んでいたらしく、文面にはキャンセルが出たので三日後の出発が可能になったとある。ついては、折り返し至急返事を寄越すようにというのだけれど、これには弱りましたね。間違いなのだから他人事なのだからと、冷たく放ってはおけない。正規の受取人に連絡しようにも、名前しかわからないのでお手上げだ。ならば旅行会社にと、よくよく見ても、肝心の会社名や電話番号のあたりがかすれてしまっていて、判読できない。ようやく発見した手がかりは、送信文の上のほうににつけられていた会社のファクス番号とおぼしき数字であった。これっきゃないと、そこに間違いの旨を送信しておいたのだが、正規の受取人は果たしてちゃんと旅行に行けただろうか。旅行会社からは、ウンでもなければスーでもなかった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


July 0372002

 羅に透けるおもひを怖れをり

                           櫛原希伊子

語は「羅(うすもの)」で夏。絽(ろ)、紗(しゃ)など、絹の細い繊維で織られた単衣のこと。薄く、軽やか。女性ものが多い。作者自註、「たいした秘密でないにしても、知られたくないこともあるもの。透けるとしたら絽よりも紗の方があやうい気がする」。肌や身体の線が透けることにより、心の中までもが透けて見えてしまいそうだというこの感覚は、まず、男にはないものだろう。俳句を読んでいると、ときおりこうしたさりげない表現から、女性を強く感じさせられることがある。作者は別に自分が女であることを強調したつもりはないと思うが、男の読者は「はっ」とさせられてしまうのだ。逆に意識した例としては、たとえば「うすものといふをはがねの如く着て」(清水衣子)があげられる。薄いけれども「はがねの如く」鋭利なのだよと言うのだが、むしろこの句のほうに、作者の心の内がよく見て取れる面白さ。いずれにしても、女性でなければ発想できない世界だ。前述したように、本来「羅」は和装衣を指したが、最近では夏着一般に拡大して使うようになってきた。小沢信男に「うすものの下もうすもの六本木」がある。この女性たちに、掲句の味わいというよりも、発想そのものがわかるだろうか。私としては、問うを「怖れ」る。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


June 1762003

 アマリリス男の伏目たのしめり

                           正木ゆう子

アマリリス
語は「アマリリス」で夏。熱帯の百合とでも言うべき華やかさと気品がある。私がすぐに思い出すのは、小沢信男の「四方に告ぐここにわれありアマリリス」で、まことに言い得て妙。その気品であたりを払うような存在感が、しかと刻まれている。擬人化するとすれば、男はたいていこの句に近い感覚で扱う花だろう。ひるがえって、掲句は女性の感覚でつかまえたアマリリスだ。小沢句の花も正木句のそれも、ともに昂然といわば面を上げているところは同じだ。が、いちばんの違いは、小沢句が花を自分に擬していないのに対して、掲句は直裁的に述べてはいないけれど、最終的にはみずからに擬している点である。当たり前と言えば当たり前で、男が自分を花に例えるなどめったにない。せいぜいが散り急ぐ桜花くらいか。ただ当たり前ではあっても、掲句の展開にはどきりとさせられた。花に擬すとはいっても、男は「立てば芍薬坐れば牡丹」などと、いつも外側からの擬人化であるのに比べて、女性はどうやら花の内側に入り込んでしまうようなのである。擬人化した主体が花化している。入り込んでいるので、ちょっと蓮っ葉な「男の伏目たのしめり」という物言いも嫌みにならない。すべてを当人が言っているのではなくて、花が言っているのでもあるからだ。常日ごろ「伏目」がちの私としては、この句を知ったときから、女性をアマリリスの精だと思うことにしている。そう思ったほうが、気が楽になる。半分はホントで、半分はウソだけど……。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


March 1332004

 あの店はいつつぶれしや辻朧

                           小沢信男

語は「朧(おぼろ)」で春。普段よく通る道なのだけれど、はじめて「あの店」が閉じられていることに気がついた。あるいはもう、店自体が跡形も無くなっていたのかもしれない。たぶんその店は古くからそこにあって、ひっそりと「辻」のたたずまいの中に溶け込んでいたのだろう。作者には無縁の店だったから、あってもなくても日常の生活には影響がない。たとえば小間物屋だとか駄菓子屋だとか……。はてな、いつごろ「つぶれ」たのだろうか。なんだか狐につままれたような気持ちで、あらためて辻を眺め渡してみるのだが、やはり無いものは無いのだった。こういうことは、むろん春夏秋冬いずれの季節にもあることなのだが、つぶれた店にはお気の毒ながら、まるで「朧」のように朦朧と霞んで消えていたところに、淡くて苦い詩情が浮かんでくるのだ。他の季節では、こうはいくまい。私は、いまの土地(東京・三鷹)に暮らして四半世紀になる。このあたりは都心に近いベッドタウンということもあって、句の辻とは反対に店の消長が激しすぎ、「はてな」といぶかる間もあらばこそ、どんどん店が入れ替わってきた。ここは元は何屋だったのか。と、思い出す気にもならないほどだ。住みはじめたころの店は、近所に一軒も残っていない。スーパーやコンビニ、それになぜか美容院が乱立している町では、消えてしまっても掲句のような情緒は望むべくもないのである。ネギ一本でも売ってもらえた八百屋が懐しいな。夕方になるとラッパを吹いて売りに来ていた豆腐屋のおじさんも、いつしか姿を消してしまった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


August 1082005

 羅を着し自意識に疲れけり

                           小島照子

語は「羅(うすもの)」で夏。昔は薄織の絹布の着物を指したが,現在では薄く透けて見える洋服にも言うようだ。「うすものの下もうすもの六本木」(小沢信男)。あまりに暑いので,思い切って「羅」を着て外出した。そうすると普段とは違って,どうしても「自意識」から他人の視線が気になってしまう。どこに行っても,周辺の誰かれから注視されているようで、気の休まるひまがない。すっかり疲れてしまった、と言うのである。さもありなん、共感する女性読者も多いだろう。この「自意識」というやつは被害者意識にも似て、まことに厄介だ。むろん女性に限ったことではないが、とかく過剰になりがちだからである。一歩しりぞいて冷静に考えれば,誰もが自分に注目するなど、そんなはずはあり得ないのだけれど、自意識の魔はそんな客観性を許さない。他人の視線に身を縮めれば縮めるほど,ますます魔物は肥大するばかりなのである。疲れるわけだ。そして更に自意識が厄介なのは,作者の場合は過剰が恥じらいに通じているのだが、逆に過剰が厚顔無恥に通じる人もいる点である。こうした人の場合には,誰もが自分に注目しているはずだと信じ込んでいて,ちょっとでも視線を外そうものなら(比喩的に言っているのですよ)、自分を無視したと怒りだしたりする。いわゆる「ジコチュー」的人種で、政治家だの芸能人に多いタイプだ。ま、それくらいでないと勤まらない商売なのだろうが、あんまりお友だちにはなりたくないね。俳誌「梟」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


November 14112005

 目薬に冬めく灯り校正室

                           小沢信男

語は「冬めく」。風物がすっかり冬になっわけではないが、五感を通してそこはかとなく感じられる冬の気配を言う。掲句の「冬めく」は、まさにこの本意にぴったりの使い方だ。雑誌の編集者は最後の追い込み段階になると、印刷所にある「校正室」に出かけていく。昔の印刷所は二十四時間稼働していたので、編集者側も徹夜で校正することが多かった。なにしろ長時間、原稿とゲラ刷りをにらんでの仕事だから、よほど目の良い人でも、そのうちにしょぼしょぼしてくる。そんなときには、とりあえず「目薬」をさす。この句は、目薬をさしたすぐ後の印象を詠んだものだろう。さしたばかりの目薬が目に馴染むまでの数秒間ほど、あたりのものがぼやけて写り、なかで「灯り(あかり)」はハレーションを起こして滲んで見える。このときに作者は、その灯りにふっと冬の気配を感じたというわけだ。電灯などの灯りに季節ごとの変化などないはずなのに、そこに「冬めく」雰囲気を感じるというのは、五感の不思議な働きによるものである。また、編集者体験のある人にはおわかりだろうが、この句のさらなる魅力は、根を詰めた仕事から束の間ながら解放されたときの小さな安らぎを描いている点だ。まことにささやかながら、こんなことでも気分転換になるのが校正というものである。校正で大事なことは、原稿の意味を読んではいけない。ただひたすらに、一字ずつ間違いがないかどうかをチェックする索漠たる仕事なのだ。だから、目薬も単なる薬品以上の効果をもたらす必需品とでも言うべきか。元編集者としては、実に懐かしい抒情句と読んでしまった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


August 2782006

 毀れやすきものひしめくや月の駅

                           小沢信男

語に「fragile」という単語があります。この語には「壊れやすい、もろい」のほかに、「はかない、危うい」という意味もあります。通常は運搬時、小包の中身が壊れやすいと思われる場合にこの単語が使われるのですが、場合によっては「人」を表現するためにも使います。たしかに人というものは、自分の容器を壊れないように、あるいは中身がこぼれないように、日々注意して運んでいるようなものです。人をひとつの壊れやすい容器と見ることは、俳句を通した日本独特の感じ方ではなくて、英語圏にもあるようです。おそらくどこの国の人も、自分が容易に壊れてしまうものであることを知っているのです。掲句は、「実妹伊藤栄子を送る追悼十句のうち」の一句で、前書に、「通夜へ、人身事故により電車遅延」とあります。肉親の生命の消失によって、作者は強く心を揺り動かされています。そこへ、電車が遅れるというあまりにも日常的な出来事が割り込んできます。その日常の出来事でさえ、人身事故という人の生死につながっています。駅の上空の月は、それら生きるもの死ぬものをへだてなく、広く照らしています。目の前にひしめく多くの見知らぬ乗降客でさえ、月の光に個々の生命をくっきりと照らし出されて、作者の目の前を通過してゆきます。この駅は、日常と非日常、生きることと死ぬことの、乗換駅ででもあるかのようです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


February 2722008

 古書市にまぎれて無口二月尽

                           小沢信男

年は閏年(うるうどし)ゆえ二月は二十九日まである。とはいえ、二月の終わり、つまり二月尽である。まだ寒い時季に開催されている古書市であろう。身をすくめるようにして古書を覗いてあるく。汗だくの暑い時季よりも、古書市は寒いときのほうがふさわしい。買う本の目当てがあるにせよ、特にないにせよ、古書探しは真剣そのものとなってしまう。連れ立ってワイワイしゃべくりながら巡るものではあるまい。黙々と・・・・。運よく稀購本を探し当てても声はあげず、表情を少しだけそっとゆるめる程度だが、心は小躍りしている。リュックを背負ったりして、無口居士を決めこみ、時間をたっぷりかけて入念に探しまわる。そんな無口居士がひしめくなかに、自分もどことなくひそかに期待を抱いてまぎれこんでいるのだ。お宝探しにも似た、緊張とスリルがないまぜになったひとときであるにちがいない。ほしい本にはなかなか出くわさない。いっぽうで、もう二月が終わってしまうという、何となくせかされるような一種の切迫感もあるのだろう。ゆったりしたなかにも張りつめた様子が目に見えるようだ。歴史ものや調べものの著作が多い信男ならではの、思いと実感が凝縮されていながらスッと覚めている。無口といえば、信男には「冬の河無口に冬の海に入る」という句もある。掲出句は当初、ほんの62句だけ収めた句集『昨日少年』(1996)に収められた。句集と言っても、一枚のしゃれた紙の表裏に刷りこんで四つに畳んだもので、掲出句は〈春〉の部の二句目にならぶ。全句集『んの字』(2000)所収。(八木忠栄)


June 2962016

 すべすべもつやもくぼみもさくらんぼ

                           小沢信男

まれているのは、まぎれもないさくらんぼのいとしおさである。さはさりながら、それにとどまるものでないことは言うを待たない。「すべすべ」「つや」「くぼみ」――それらは、ずばり女体である。老獪な信男による女体礼讚となっていると読みたい。よって、このさくらんぼの形体も色つやも、さらに旨味さえもいや増してくるのだ。句が平仮名書きになっていることによって、なめらかさを強調していることにも注目しなくてはならない。きわどい句ではあるけれど、嫌味は寸分も感じられない。《骨灰紀行》のある信男にして、このエロティシズムはみごと! 何年か前、ある団体の詩のセミナーを山形市で開催することになり、担当していた私は、どうせなら、さくらんぼの時季に合わせたらいいという提案をして実現した。セミナーの翌日、高価な佐藤錦をみんなでうんざりするほど(木に登ったりして)食したことがある。「桜の坊」→「さくらんぼ」は日本に、佐藤錦、高砂、ナポレオンなどをはじめ1000種類があるという。もちろん生産量は山形県が圧倒的。信男の夏の句には「うすものの下もうすもの六本木」がある。掲出句は当初、第三句集『足の裏』(1998)に収められ、その後、全句集『んの字』(2000)に収録された。(八木忠栄)




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