久保田万太郎の句

October 22101996

 あきかぜのふきぬけゆくや人の中

                           久保田万太郎

込みのなかの淋しさ。極めて現代的で都会風の抒情句だ。銀座あたりの人込みだろうか。平仮名を使ったやわらかい表現から、時間的には秋晴れの日の昼下がりだろう。これを「秋風の吹き抜け行くや人の中」とでもやったら、とたんにあたりは暗くて寒くなってしまう。すなわち、翻訳不可能な作品の典型ともいえる。人込みのなかの淋しさを、むしろここで作者は楽しんでいるのである。(清水哲男)


March 2631997

 あたたかきドアの出入りとなりにけり

                           久保田万太郎

日文芸文庫新刊(97年4月刊)結城昌治『俳句は下手でもかまわない』所載の句。うまいですねー。この無造作な語り口。一歩誤れば実につまらない駄句になる所を、ギリギリの所で俳句にできる作者の腕の確かさ。まさに万太郎俳句の精髄がここにある。季語は「暖か」。この句の舞台はビルでしょうね。すると、ドアは回転ドアか。くるっと回れば、もう外は春です。杉の花粉も飛んでくるけど……。(井川博年)


May 1951997

 遠近の灯りそめたるビールかな

                           久保田万太郎

近は「おちこち」。たそがれ時のビヤホール。まだ、店内には客もまばらだ。連れを待つ間の「まずは一杯」というところか。窓の外では、ポツポツと夜の灯りが点りはじめた。いかにも都会派らしい作者のモダンな句だ。この作品はまずまずとしても、意外なことにビールの句にはよいものが少ない。種々の歳時記を見るだけで、ビール党の人はがっかりするはずである。なぜだろうか……。今日はおまけとして、情緒もへったくれもあったものじゃないという短歌を二首紹介しておく。「小説を書く苦しみを慰さむは女房にあらずびいる一杯」(火野葦平)。「原稿が百一枚となる途端我は麦酒を喇叭(らっぱ)飲みにす」(吉野秀雄)。俳句では、逆立ちしてもこうはいかない。(清水哲男)


September 0191997

 震災忌向あうて蕎麦啜りけり

                           久保田万太郎

和三十五年、死の三年前の作品である。万太郎は浅草生まれで、震災にもあい戦災にもあった。そういうこともあり、まったく物質的な執着がない人だったという。大震災からはるかな年月を経て、そば屋で当時の体験などを話しながら向き合っているのは誰だろうか。それが誰であろうと、作者はここにこうして生きてある自分の幸運をこそ味わっているのだ。この句は、万太郎門の成瀬櫻桃子が月刊「うえの」の最新号(1997年9月号)で紹介している。万太郎は常々「蕎麦は、食べると言っては駄目。啜る(すする)だ」と、弟子たちに教えていたと書いている。(清水哲男)


January 1311998

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

                           久保田万太郎

逝する五週間前に、銀座百店会の忘年句会で書かれた句。したがって、辞世の気持ちが詠みこまれているとする解釈が多い。万太郎は妻にも子にも先立たれており、孤独な晩年であった。そういうことを知らなくても、この句には人生の寂寥感が漂っている。読者としても、年齢を重ねるにつれて、だんだん淋しさが色濃く伝わってくる句だ。読者の感覚のなかで、この句はじわじわと成長しつづけるのである。豆腐の白、湯気の白。その微妙な色合いの果てに、死後のうすあかりが見えてくる……。湯豆腐を前にすると、いつもこの句を思いだす。そのたびに、自分の年輪に思いがいたる。けだし「名句」というべきであろう。『流寓抄以後』(1963)所収。(清水哲男)


November 22111998

 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに

                           久保田万太郎

の市は、十一月の酉の日に各地の神社で行われる祭礼。若いころ、新宿・花園神社の近くの酒場に入り浸っていた。そこのマダムが熱心で、毎年客の誰かれを誘っては熊手を求めに出かけていたものだが、私はいつも留守番組であった。行かなかった理由は、単純に寒いから……。とくに二の酉ともなると、夜は冷えこむ。何を好きこのんで、寒空の下で震えに出かける必要があろうか。とまあ、不精だったわけだ。したがって逆に、句の作者のほっとしたような心持ちだけはわかる。曇ってくれば、多少とも寒気が薄れる。ありがたや、という気分。それと「二の酉」は「一の酉」とはちがって、少し緊張感には欠ける面がある。そんな気分的な余裕も、よく描かれている。各地の神社の祭礼と言ったが、本来は鷲(おおとり)神社のそれで、東京だと浅草千束の大鳥神社が発祥の地。江戸期にはふだんは誰も参詣せず、酉の市の日だけ賑わったそうで、なんだか可哀相な神社だったらしい。もっと可哀相なのは、実は鷲神社の本社は大阪堺の大鳥神社なのだが、本店は栄えずに支店のほうがお株を奪ってしまったことだ。大阪の人に「お酉さま」と言っても、「ナンヤ、ソレ」みたいな顔をする。(清水哲男)


February 0121999

 叱られて目をつぶる猫春隣

                           久保田万太郎

月。四日は立春。そして、歳時記の分類からすれば今日から春である。北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、地方によっては「二月早や熔岩に蠅とぶ麓かな」(秋元不死男)と暖かい日も訪れる。まさに「春隣(はるとなり)」だ。作者は、叱られてとぼけている猫の様子に「こいつめっ」と苦笑しているが、苦笑の源には春が近いという喜びがある。ぎすぎすした感情が、隣の春に溶け出しているのだ。晩秋の「冬隣」だと、こうは丸くおさまらないだろう。「春隣」とは、いつごろ誰が言いだした言葉なのか。「春待つ」などとは違って、客観的な物言いになっており、それだけに懐の深い表現だと思う。新しい歳時記では、この「春隣」を主項目から外したものも散見される。当サイトがベースにしている角川版歳時記でも、新版からは外されて「春近し」の副項目に降格された。とんでもない暴挙だ。外す側の論拠としては、現代人の「隣」感覚の希薄さが考えられなくもないが、だからこそ、なおのこと、このゆかしき季語は防衛されなければならないのである。(清水哲男)


March 2831999

 鎌倉に清方住めり春の雨

                           久保田万太郎

方は、美人画で有名だった画家の鏑木清方(かぶらき・きよかた)のことだ。典型的な「文人俳句」と言ってよいだろう。こういう句が好きになるかどうかは、詠まれた画家の絵を知っていなければ話にならないし、知っていてもその絵が嫌いでは、またどうにもならない。清方の絵をこよなく愛した作者ならではの一句であり、わからない人にはわからなくてもよいという気構えのある作品だ。文人俳句と言った所以である。早い話が、仲間内ないしは清方ファンにさえ受ければよい句だということ。清方は生粋の江戸っ子であったが、戦後になってから鎌倉に移り住んだ。「芸術新潮」の四月号(1999)が清方を特集していて、なかなかに充実している。同誌によると、この句が作られたときの清方は鎌倉材木座の住人だったそうで、その後、同じ市内の雪ノ下に転居し、そこを終の住処とした。旧居跡(鎌倉市雪ノ下1-5-25)は現在、鏑木清方の名を冠した個人美術館になっている。写真で見ると、ひっそりと建つ平屋の美術館で、こちらも春の雨がしっくりと似合いそうなたたずまいだ。(清水哲男)

[鏑木清方展 回想の江戸・明治 郷愁のロマン]東京国立近代美術館にて、5月9日まで開催中。


May 1451999

 神田川祭の中をながれけり

                           久保田万太郎

面から見て、有名な神田明神の祭礼かと思いきや、浅草榊神社(私は場所も知りません)の夏祭を詠んだ句だという。となれば、そんなに大きな規模の祭ではないだろう。浅草神社の三社祭のように観光客が押し寄せる荒祭でもなく、小さな町内の人々がお互いに精一杯祭を盛り上げるなか、神田川はいつものように静かに流れているという情景。つつましい暮らしのなかの手作りの祭の味わいが、じわりと読者の胸に、川面に写る祭提灯の影のように染み込んでくる。井の頭に源を発する神田川(神田川上水)は、いかにも都会の川らしく、流れる場所や季節によって複雑に表情を入れ替える。そんな神田川の一面を、万太郎が鮮やかに切り取ってみせた句だ。ちなみに、句の季題は「祭」で夏だけれど、古くは単に「祭」というと、ちょうどこの時期に行われる京都の「葵祭」だけを意味していた。古典を読む際には、こんな知識も必要だ。でも、そんな馬鹿なことを、誰が決めたのか。もとより、千年の都が勝手に決めたのである。昔の都は、とてもエラかったから。『草の丈』所収。(清水哲男)


May 1052000

 夏場所やもとよりわざのすくひなげ

                           久保田万太郎

場所見物。「すくひなげ」得意のひいき力士が、見事にその技で勝ってくれた。胸のすくような相撲ぶりだった。「これでなくっちゃあ」と、作者の力こぶが「もとより」にこめられている。夏場所だけに、相撲が撥ねた後の川風の心地よさも、きっと格別だろう。いかにも江戸っ子らしい、粋な味わい。技巧的ではあるが、嫌みがない。現代でも「夏場所」が特別視されるのは、その昔に神社仏塔営繕の資金を募った勧進相撲の名残りだからである。明治初期にはじまった本場所は、この夏場所と一月の春場所との二度しかなかった。しかも、一場所は十日間。すなわち「一年を二十日で暮すいい男」というわけだ。いまは六場所制だが、四場所になったのは1953年(昭和28年)のことで、昔は現在のように年中本場所興行があったわけではない。したがって、ファンの熱の入れようも大変なものだったろう。取り組みの一番一番が貴重だったのだ。加えて戦前までは、町や村のあちこちに当たり前のように土俵があり、子供から大人まで相撲人口も多かった。すそ野が広かった。だから、こういう句も生まれるべくして生まれてきたのである。平井照敏編『新歳時記』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0712001

 竹馬やいろはにほへとちりぢりに

                           久保田万太郎

いていの歳時記の「竹馬」の項に載っている句。小学時代以来の親友の篠原助一君(下関在住)は、会うたびに「なんちゅうても、テッちゃんとは竹馬(ちくば)の友じゃけん」と言う。聞くたびに、いい言葉だなあと思う。もはや死語に近いかもしれぬ「竹馬の友」が、私たちの間では、ちゃんと生きている。よく遊んだね。そこらへんにいくらでも竹は生えていたから、見繕って切り倒してきては、竹馬に仕立て上げた。乗って歩いているときの、急に背が高くなった感じはなんとも言えない。たしかアンドレ・ブルトンも言ってたけれど、目の高さが変わると世界観も変わる。子供なので世界観は大仰だとしても、この世を睥睨(へいげい)しているような心地よさがあった。揚句の「いろはにほへと」には、三つの含意があると思う。一つは竹馬歩きのおぼつかなさを、初学に例えて「いろはにほへと」。二つ目は、文字通りに「いろはにほへと」と一緒に習った仲間たちとの同世代意識。三番目は、成人したあかつきを示す「色は匂えど」である。それらが、いまはすべて「ちりぢりに」なってしまった。子供のころ、まだまだ遊んでいたいのに夕暮れが来て、竹馬遊びの仲間たちがそれぞれの家に「ちりぢりに」帰っていったように……。ここで「ちりぢりに」は、もちろん「ちりぬるを」を受けている。山本健吉は「意味よりも情緒に訴える句」と書いたが、その通りかもしれず、こんな具合に分解して読むよりも、なんとなくぼおっと受け止めておいたほうがよいような気もする。とにかく、なんだか懐かしさに浸される句だ。(清水哲男)


March 2732001

 とりわくるときの香もこそ桜餅

                           久保田万太郎

かにも美味しそうだ。「桜餅」の命が味の良さにあるのはもちろんだが、独特な葉の香りにもある。だから「香もこそ」と言い、それが生きている。「とりわけて」いる段階で、もう「桜餅」は命の輝きを放ちはじめている。食べ物の句は、とにかく美味しそうでなければならない。読んだ途端に、読者が食べたくなるようでなければならぬ。同じ作者による別の一句は「葉のぬれてゐるいとしさや桜餅」というものだ。こちらもとても美味しそうであり、郷愁にも誘われる。万太郎は、よほど「桜餅」が好きだったのだろうか。ところで「桜餅」の定義だが、角川版歳時記に「うどん粉を水に溶いて焼いた皮に、餡を入れて巻き、塩漬けの桜の葉で包んだもの。皮には桜色と白とがあり、桜の葉の芳香が快い。文政年間に江戸向島の長命寺境内で山本新六という人が売り出したのが始まりという」とある。桜餅の定義などはじめてちゃんと読んだが、ええっと思った。菓子類には情け無いくらいにうといので、私だけのびっくりなのだろうけれど、この十年ほどに二個か三個か食した桜餅は、どれも皮はうどん粉(小麦粉)ではなくて、もっとすべすべしていたように思う。少なくとも、皮を焼いたものではなかった。蒸した感じ。となれば、私が食べ(させられ)たのは、元祖とは製法が違ったものだったのだろう。新しい講談社の歳時記に載っている「桜餅」の写真でも、皮は焼いてないように見える。この本では片山由美子さんが「小麦粉と白玉粉を溶いて焼いた薄皮」と説明していて、となれば、すべすべしていたのは白玉粉のせいなのかもしれない。元祖よりも、口当たりをよくした現代版というところか。でも、いまでも焼いた皮の「桜餅」があるとしたら、ぜひとも、我慢してでも(笑)食べてみたい。そんなのは「どこにでもある普通のもの」なのだろうか。「味の味」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


September 0992001

 秋まつり雨ふつかけて来りけり

                           久保田万太郎

ムラノチンジュノカミサマノ、キョウハメデタイオマツリビ、……。いまの音楽教科書には載ってないそうだが、「秋祭」といえば絢爛たる都会の祭よりも、この素朴でひなびた味わいの「ムラマツリ」のほうがふさわしい。そんな村祭を見物している途中で、パラパラッと雨が降ってきた。この季節には、よくあることだ。天を仰いでしかめ面をする人もいるだろうが、作者はこれも風情のうちさと機嫌がよろしい。「ふつかけて」という威勢のよい表現に、それがうかがえる。おそらくは神輿(みこし)見物の最中で、担ぎ手の威勢の良さに触発された措辞だと思う。巧みな句だ。ウメエもんだ。昨日今日と、我が町でも遠く三鷹村以来の伝統的な「オマツリビ」である。天気予報によると、少しは「ふつかけ」られるかもしれない。見物する側は万太郎のように風情を楽しめばよいのだが、神輿の管理者は渋い表情になる。とりわけて白木の神輿が雨水を吸い込むと、後の手入れが大変だと聞いた。乾くのに三日はかかり、しかも造作はガタガタになる。最初から雨降りならばビニールシートで覆うそうだけれど、渡御(とぎょ)の途中ではそうもいかない。そういう立場の人が掲句を読んだら、ますます渋い表情で即座に「冗談じゃねえや」と吐き捨てることだろう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


November 21112001

 まなうらは火の海となる日向ぼこ

                           阿部みどり女

語は「日向ぼこ」で冬。ところで、いったい「日向ぼこ」とは何なのだろうか。冬は暖かい日向が恋しいので、日向でひととき暖かい場所を楽しむ。物の本にはそんなふうに書いてあるけれど、どこかしっくりこない。しっくりこないのは、ほとんどの人が「日向ぼこ」それ自体を、自己目的とすることがないからだろう。たとえば夏に太陽の下に出て肌を焼くというのなら自己目的だけれど、「日向ぼこ」にはそういうところがないようだ。昔の縁側で縫い物などをしている女性をよく見かけたが、彼女には縫い物が主なのであって、暖かい場所にいること自体は付随的な状態である。「さあ、日向ぼこをするぞ」と、さながら入浴でもするように目的化して、そこにいるのではないだろう。なるほど駅のベンチでも日が射しているところから席は埋まるが、そこに座ることが誰にとっても本当の目的ではない。すなわち「日向ぼこ」とは、主たる目的に付随した「ついでの行為」のようだ。その「ついでの行為」が、季語として確立しているのが面白い。掲句に従えば、傍目には暢気に見える「日向ぼこ」の人も、「まなうら(目裏)」では「火の海」を感じる人もいるというわけだ。たしかに冬の日の明るい場所で目を閉じると、瞼の裏に鮮烈な明るさを覚える。周辺に暗い場所が多いので、余計にそんな感じがする。が、それを形容して「火の海」と言うかどうかは、自身の精神的な状態によるだろう。「日向ぼこ」が必ずしも人をリラックスさせるものではないのだと、作者は言いたげである。久保田万太郎曰く「日なたぼっこ日向がいやになりにけり」。そりゃ、そうさ。「日向ぼこ」を自己目的化するからさ。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


October 26102002

 あきくさをごつたにつかね供へけり

                           久保田万太郎

書に「友田恭介七回忌」とある。友田恭介は新劇の俳優だった。戦時中、友田夫人の女優・田村秋子らとともに、万太郎は文学座を結成する手筈だったが、友田の応召、そして戦死で、計画は宙に浮いた。すなわち盟友の七回忌というわけで、「ごつたにつかね(束ね)」の措辞に、作者万感の思いが込められている。「あきくさ(秋草)」は秋の草花や雑草の総称であり、むろん秋の七草も含まれているけれど、作者は草の名の有名無名を問わず、あえて「ごつたに(乱雑に)」混ぜ合わせて供えたのだ。友田にはこれがふさわしいと、いかにも親愛の情に溢れた供え方である。この供え方にはまた、有名無名などにとらわれず、生き残った我々は貴君が存命だったころと同じように、ひたすら良い舞台作りに専念していると、故人への近況報告も兼ねていると読める。そしておそらく「あきくさ」の「あき」は、墓前の田村秋子の「秋」にかけられているのだろう。残されているエピソードなどから推して、田村秋子は決して時流などには流されない強い芯を持っている人だったようだ。友田が戦死したとき、さっそく取材に訪れた新聞記者に、こう語ったという。「友田は役者ですから、舞台で死ぬのなら名誉だと思うし、本望だと思うけれど、全然商売違いのところで、あんな年取った者があんな殺され方をして、何が名誉なんでしょう。 『主人が名誉の戦死をしてとても本懐でございますと、健気に言った』なんて、絶対に書かないで下さい。『可哀そうで可哀そうで仕方がない』と言ったと書いて下さい」。『草の丈』所収。(清水哲男)


March 0132003

 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり

                           皆川盤水

まりに美味なので、ついたてつづけに「三つ」も食べてしまった。で、いささか無法なことでもしでかしたような、狼藉を働いたような感じが残ったというのだろう。和菓子は、そうパクパクと食べるものではない。食べたって構わないようなものだが、やはりその姿を楽しみ、香りを味わい賞味するところに、他の菓子類とは違う趣がある。「葉の濡れてゐるいとしさや桜餅」(久保田万太郎)という案配に……。しかし、こんなことを正直に白状してしまっている掲句は、逆に「無頼」とは無縁な作者のつつましい人柄を滲ませていて、好もしい。こうした体験は、誰にでも一度や二度はあるのではなかろうか。大事にしていた高級ブランデーを、つい酔いにまかせてガブガブ飲んじゃったときとか、ま、後のいくつかの例は白状しないでおくけれど、誰に何を言われる筋合いはなくても、人はときとして自分で勝手に「無頼」めき、すぐに反省したりする。そこらへんの人情の機微が的確に捉えられていて、飽きない句だ。なお余談ながら、一般的に売られている桜餅は、一枚の桜の葉を折って餅を包んであるが、東京名物・長命寺の桜餅は大きな葉を三枚使い、折らずに餅が包んである。『随處』(1994)所収。(清水哲男)


September 0892003

 合弟子は佐渡へかへりし角力かな

                           久保田万太郎

語は「角力(相撲)」で秋。九月場所がはじまった。たまにテレビで観る程度だが、いまの相撲にはこうした哀感がなくなったなと思う。いまだって、将来を嘱望されながらも、遂にメが出ずに遠い故郷に戻る男も少なくはないだろう。状況は昔と似たようなものなのに、土俵にセンチメントが感じられなくなって久しい。何故だろうか。1987年、横綱の双羽黒が立浪親方との対立から現役のまま廃業したあたりからおかしくなってきた。廃業して間もない彼に会ったことがあるが、気さくな青年だった。相撲部屋の古色蒼然たる「しきり」に堪えかねたのだろうとは、そのときの私の直感だ。自己顕示欲は人一倍強いと見たが、そりゃそうさ、天下の横綱にまでのし上がった男だもの。そうした相撲界の時代とのズレもあるけれど、哀感が失せた最大の理由を、私はこの世界の裾野の狭さに見ている。狭いというようなものではなくて、もはや限りなくゼロに近いのだ。私の子供のころには、どこの小学校でも土俵を持っていて、私のようなヨワッピーでも、とにかく土俵で相撲を取った体験がある。また、村祭などでも若い衆の相撲大会があって、みんなが相撲の何たるかを心得ていた。だから、プロの相撲取りがどんなに凄いのかが身体的に感じられた。感じられたから、たとえ関取以下のお相撲さんにでも尊敬の念を持つ。逆に体験が無い人には、敬意の持ちようが無い。敬意のないところには、非運に対する思いやりも生まれない。当代の力士には敬意を払われる雰囲気は皆無に近いので、風格なんぞは糞食らえ、勝てばいいんだろみたいな低次元にとどまってしまう。私などには哀しいことだが、きっと近い将来に相撲は滅びてしまうだろう。しかも、誰の涙も無しに、である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 2892004

 月の雨ふるだけふると降りにけり

                           久保田万太郎

宵は十五夜。仲秋の名月だが、東京あたりの雲行きでは、まず見られそうもない。全国的にも今日は天気が良くなくて、天気図から判断すると、見られるとしても北海道や北陸の一部くらいだろうか。季語は「月の雨(雨月)」。雨降りで、せっかくの名月が見られないことを言う。雨ではなく曇りで見えなければ「無月」となる。しかし雨月にせよ無月にせよ、本義ではそれでも空のどこかが月の光りでほの明るい趣きを指すようだ。これには、楽しみにしていた十五夜が台無しになるのは、いかにも残念という未練心が見え隠れしている。そこへいくと掲句の雨は、もう明るいもヘチマも受け付けないほどのどしゃぶりだ。これほど降ればあきらめもつくし、いっそ気持ちがすっきりするじゃないかと、作者は言うのである。いわゆる江戸っ子の竹を割ったような気性が、そう言わせているのだろう。いつまでぐじぐじしていても、何も始まらねえ。早いとこ、さっさと布団を引っ被って寝ちまおうぜ。とまではさすがに言ってはいないけれど、そこに通じる一種被虐的な快感のような心持ちは感じられる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0822005

 いそまきのしのびわさびの余寒かな

                           久保田万太郎

語は「余寒(よかん)」で春。立春以後、まだのこる寒さのことを言う。暦の上では春なのだから、そろそろ暖かくなってもよいはずだがと期待するだけに、よけいに寒さが恨めしくなる。だがなかには作者のように、従容として寒さに従う人もいる。従うどころか、春過ぎの寒さに粋なものだと感じ入っている。「いそまき」は「磯巻き」で、要するに海苔で巻いた食物のことだ。磯巻きせんべいがポピュラーだが、句の場合にせんべいではいささか色気に欠けるだろう。たとえば薄焼きタマゴを高級海苔で巻いた料亭料理などが、私にはふさわしいように感じられる。一箸取って口に含むと、隠し(しのび)味的に入れられた「わさび」の味と香りがほんのりと口中に漂ったのだ。その微妙で心地よい味と香りが、余寒の情緒に溶けていくように想われたというのである。いかにも万太郎らしい感受性の光る句柄だが、世に万太郎の嫌いな人はけっこういて、その人たちはこうしたことさらな粋好みを嫌っているようだ。かくいう私も嫌いというほどではないが、あまりこの調子でつづけられると辟易しそうではある。たまに、それこそ他の作者たちの多くの句のなかに二、三句はらりと「しのばせて」あるくらいが、ちょうど良い案配でしょうかね。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)


February 2322006

 春しぐれやみたる傘を手に手かな

                           久保田万太郎

語は「春時雨(はるしぐれ)」。同じ雨でも、木の芽の萌え出したころの時雨は明るい感じで、冬の寂しい陰気なところがない。むしろ、華やぎさえ感じることがある。掲句は、そんな明るい雨がやんだ後の情景を詠んで、いやが上にも春の明るく華やいだ気分を盛り上げている。春時雨だけでも人々の気分は明るいのに、傘を手に手に雨上がりの路を行く人々の表情はもっと明るい。句の成立事情は知らないが、この「春時雨」を句会の兼題として詠んだものなら、春時雨をやませた発想だけで、句友を二歩も三歩もリードしたと言えるだろう。まったくもって、憎らしいくらいに上手いものです。雨上がりの都会の、あの独特の雨の匂いまでが伝わってきそうな句ではないか。ところで雨の匂いとはよく言うが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、あの匂いは虹の匂いだと言ったそうだから、なかなかのロマンチストだったのかもしれない。今日では正体が解明されていて、二種類の物質が発する匂いだという。一つは「ペトリコール」。これは土の中の粘土の匂いで、湿度が80パーセント以上になると鉄分と反応して匂いが強まるそうだ。雨が降り出してしまうと匂いが流されるため、雨が降る直前のほうが匂いが強まる。もう一つは「ジオスミン」という物質。これは、土の中の細菌の匂いである。こちらは土に雨が染み込むと匂いが強まるので、降りはじめよりも雨上がりのほうが匂いが強くなるというから、掲句に匂いがあるとすれば、ジオスミンが発していることになる。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


May 3052006

 セルむかし、勇、白秋、杢太郎

                           久保田万太郎

語は「セル」で夏。薄手のウールのことで、初夏の和服に用いられ、肌触りが良く着心地が良い。。明治になって織られはじめ、一時大流行したという。掲句には「『スバル』はなやかなりしころよ」の前書きがある。「セル」を着る季節になって、作者はその大流行の時期に文芸誌「スパル」で活躍した何人もの文人たちを、懐かしく思い出している。「勇」は歌人の吉井勇のことだが、あるいは句の三人がセルを着て写っている写真があるのかもしれない。石川啄木が編集長だった創刊号が出たときには、作者は十歳くらいであったから、その後の多感な少年期にリアルタイムで「スバル」を読み、大いに刺激を受け啓発されたのだったろう。しかも、その執筆メンバーの、なんとはなやかで豪華だったことか……。この他にも、森鴎外がいたし与謝野晶子がいたし、若き高村光太郎も参加していた。この句には、いかにも文壇好きという万太郎の体質が出ているけれど、ひるがえってもはや後年、こうして懐旧されることもないだろう現代の文学界に対して、こういう句を読むと寂しさを覚える。なかで「俳壇」だけは現在でもかろうじて健在とは言えそうだが、しかし半世紀後くらいにこのように懐かしんでくれる読者がいるだろうかと思うと、はなはだおぼつかない。その要因としては、むろん明治や大正とは違い、メディアの多様化や受け手の関心の細分化などがあるとは思う。が、しかしジャンルとしては昔のままの文学様式はまだ生きているのだから、そこには志や情熱の熱さの往時との差があるのかもしれない。物を書いて飯が食えなかった時代と食える時代との差。そう考えることもできそうだ。俳誌「春燈」60周年記念号(2006年3月)所載。(清水哲男)


January 2412007

 鉄瓶に傾ぐくせあり冬ごもり

                           久保田万太郎

ごもりは「冬籠」とも書く。雪国ならば、雪がどっさり降り積もり、雪囲いをすっかり終わった薄暗い家のなかで、炬燵にもぐりこんで冬をやりすごす。もさもさと降る牡丹雪。ときに猛烈な吹雪。雪国の人々はかつて、たいていそんな冬にじっと堪えしのんでいた。もちろん「冬ごもり」の舞台は雪国に限らない。いずれにせよ、冬は寒気が人の動きを鈍くしてしまう。昨今は、暖房や除雪のやり方がすっかり進化して、生活スタイルが「冬ごもり」などという季語を空文化したようにも感じられる。ここで個人的な好みを言わせてもらえば、「冬ごもり」という言葉の響きに対する私の愛着は深い。生活形態を離れて、心情としての「冬ごもり」にこだわっているということかもしれない。この季語が滅びない限り、俳句の冬も大丈夫(?)。そもそも「冬ごもり」という言葉は「万葉集」の枕詞の一つであり、本来は「冬木茂(も)る」の意味だったとか。「鉄瓶」という言葉もその存在も、私たちの日常生活から次第に遠いものになりつつあるけれど、火鉢(これも遠いものになりつつ・・・・)の燠の上に五徳(これも遠い・・・・)を置いて、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かす。三脚の五徳の上で、鉄瓶はなぜかすわりがよくない。「傾(かし)ぐくせ」とは五徳のせいなのか鉄瓶のせいなのか、いつ載せてもピタリとうまく決まらない。そのことに神経質にこだわっているのも、冬ごもりという動きの少ない神妙な生活形態のせいなのだろう。繊細な発見が、冬ごもりをますます深く籠らせてくれるような気さえする。さすが「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」と名句を詠んだ人の細やかさが、ここでも感じられる。万太郎は自分の句については「余技」と言い、「かくし妻」とも言ったそうだ。うーん、うまいことを言ったものだ。「かくし妻」なればこその微妙な味わいが掲出句にもにじんでいる。万太郎が急死した年に刊行された句集『流寓抄以後』(1963)所収。(八木忠栄)


February 2322007

 時計屋の時計春の夜どれがほんと

                           久保田万太郎

句という土俵をこんなに広くみせることのできる俳人はめったにいない。俳句は難しい。季題を用い、その本意を意識し、類想はないか、切れ字は的確か、切れは多すぎないか、一七音は余らぬよう、足らざるなきよう。さまざまの条件を意識し、それらをみずからの表現に課すたびに句は硬直化し、理想的な細部を寄せ集めたあげくまったく個性のない合成写真の顔のような作品ができあがる。そこに陥らぬよう意識して、大らかに作ったように見せかけようとすると余計ドツボにはまる。一時、若手と言われる世代でも、大正時代の俳句の大らかさに学ぼうなどというテーマが流行ったが、知的に繊細な技術を駆使して「大らかさ」を出そうとするのはピストルで戦艦を狙うのと同じかもしれない。時代が違うから、社会的存在である人間自体が違う。現代には現代の感性があり、今の感性に沿った今の文体が必要なのだ。この句、切れは二つ目の「時計」のところ。「春の夜」は微妙に下句につながる。「どれがほんと」は口語。破調でも独自のリズムがあり、口語でも季題の本意は崩さない。こんな「かわいい」句を明治二十二年生まれの人に作られたひにゃ今の「かわいい」はどう作りゃいいんだよお。「俳句現代・読本久保田万太郎」(2001年3月号)所載。(今井 聖)


June 0362007

 夏場所やひかへぶとんの水あさぎ

                           久保田万太郎

存知のように夏場所は白鵬が連続優勝を飾り、来場所からは久々の2横綱になります。と、知ったようなことを書きましたが、最近は相撲をテレビ観戦する習慣もなく新聞の大きな見出しに目を通すばかりです。掲句を読んでまず注目したのは「水あさぎ」という語でした。浅学にも、色の名称であることを知らず、いったいこのあざやかな語はどういう意味を持っているのだろうと思ったのです。調べてみれば、「あさぎ」は「浅葱」と書いて、「みずいろ」のことでした。さらに「水あさぎ」は「あさぎ」のさらに薄い色ということです。そういわれて見れば、「水あさぎ」という音韻は、すずしげな水面を連想させます。句の構成はいたって単純です。「夏場所」から「ひかへぶとん」へ連想はつながり、「ひかへぶとん」の属性(色)として「水あさぎ」が置かれているだけです。言い換えれば中七の「ひかへぶとん」が連結器の役割をして、両腕にイメージの強い2語がぶら下がっている格好です。しかし、構成は単純でも、出来上がった作品は独自の世界を見せています。「ひかへぶとん」の「ひかへ」が、「あさぎ」と相まって句全体に奥ゆかしさをもたらしています。みずみずしく力の漲った、透き通るような句です。作者には「夏場所やもとよりわざのすくひなげ」という句もあります。夏場所についての解説を含め、興味のある方は増俳2000年5月10日をクリックして下さい。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


April 0142009

 噴水のりちぎに噴けり万愚節

                           久保田万太郎

日は万愚節(四月馬鹿)。今の時季、あちこちの句会ではこの季語を兼題とした夥しい句が量産されているにちがいない。日本各地で“馬鹿”が四月の始まりを覆っていると思うと、いささか愉快ではないか。言うまでもなく、この日はウソをついて人をかついでもよろしいとされる日である。もともと西欧から入ってきた風習であり、April Fool's Day。フランスでは「四月の魚」と呼ぶ。インドが起源だとする説もあるようだが、一般に起源の確証はないそうである。現在の噴水はだいたい、コンピューター操作によって噴き方がプログラミングされているわけだから、勝手気ままに乱れるということなく、きちんと噴きあげている。掲出句は「りちぎ(律儀)」ととらえたところに、万太郎ならではの俳味が加わった。世間は「万愚節」だからといって、春の一日いたずら心のウソで人を惑わせようとくわだて、ひそかにニヤリとしているのに、噴水は昨日も今日も変わることなく水を高々と噴きあげている。万太郎は滑稽な噴水図を作りあげてくれた。人間世界に対する皮肉でもあろう。もっとも、そこいらじゅうに悪質なウソが繁殖してきている今の時代にあっては、万愚節という風習がもつゆとりとユーモアも半減というところか。万愚節を詠んだことのない俳人はいないだろう。「万愚節半日あまし三鬼逝く」(石田波郷)「また同じタイプに夢中万愚節」(黛まどか)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


December 16122009

 湯豆腐の小踊りするや夜の酌

                           玉村豊男

頃は忘年会の連続で、にぎやかな酒にも海山のご馳走にも食傷気味か? そんな夜には、家でそっとあっさりした湯豆腐でもゆっくりつつきたい――そんな御仁が多いかもしれない。湯豆腐は手間がかからなくて温まるうれしい鍋料理。豆腐が煮えてきて鍋の表面に浮いてくる寸前を掬って食べる、それがいちばんおいしいと言われる。「小踊りする」のだから、まさに掬って食べるタイミングを言っている。表面で踊り狂うようになってしまっては、もはやいけません。掲出句は食べるタイミングだけ言っているのではなく、湯豆腐を囲んでいる面々の話題も楽しくはずんでいる様子まで感じさせてくれる。「小踊り」で決まった句である。古くは「酌は髱(たぼ)」と言われたけれど、ご婦人に限らず誰の酌であるにせよ、この酒席が盛りあがっていることは、湯豆腐の「小踊り」からも推察される。酒席はつねにそうでありたいものである。万太郎の名句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」にくらべて、親しみとユーモアがほのぼのと感じられる。湯豆腐の句は数あるようだが、意外とそうでもないようだ。三橋敏雄に「脆き湯豆腐人工衛星など語るな」がある。なるほど。豊男には他に「天の寒地に堕ちて白き柱かな」がある。『平成大句会』(1994)所載。(八木忠栄)


February 0322010

 節分や灰をならしてしづごころ

                           久保田万太郎

の「灰」はもちろん火鉢の灰であろう。節分とはいえ、まだまだ寒い昨日今日である。夜のしじまをぬって、どこやらから「福は内!」「鬼は外!」の声が遠く近く聞こえてくる。(もっとも、近年は「鬼は外!」とは言わないようだ。おもしろくない!)その声に耳かたむけながら、何をするでもなく手もと不如意に、所在なくひとり静かにそっと火鉢の灰をならしている。あるいは、家人が別の部屋で豆まきをしている、と想定してみると、家人と自分との対比がおもしろい。ーーそんな図が見えてくる句である。火鉢など今や骨董品となってしまったが、ソファーに寝そべって埒もないテレビ番組に見入っているよりも、ずっと詩情がただよってくるし、万太郎らしい抒情的色彩が濃く感じられる。「家常生活に根ざした抒情的な即興詩」というのが、俳句に対する万太郎の信条だったと言われる。ほかに「節分やきのふの雨の水たまり」という一句もある。そして「春立つやあかつきの闇ほぐれつつ」の句もある。明日は立春。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


March 3132010

 一二三四五六七八桜貝

                           角田竹冷

んな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


November 17112010

 ポケットのなかでつなぐ手酉の市

                           白石冬美

年のことながら、酉の市の頃になると、ああ今年も残りわずかという感慨を覚えずにいられない。今年は11月7日と19日、二の酉まで。酉の市の時季、夜はかなり冷えこんでくるから、コートを着た参詣者は肩をすくめ背を丸めて歩く。恋人同士だろう、若い男女が人混みに押されながら寄り添い、男性のコートのポケットに女性が手を差し入れ、人知れずしっかりと握りあっている。どんな寒風が吹いていても、そこだけは寒さ知らずの熱々の闇。ほほえましい図である。外に出ているほうの手には小さな熊手が握られているのかもしれない。恋人同士なら寒暖に関係なく、ポケットのなかで手をつなぐことはいつでもできるけれど、掲句ではにぎわっている「酉の市」がきいている。二人は参詣したあと、気のきいた店で熱燗でも酌み交わすのかも。酉の市の夜、周辺の街はどの店も客でいっぱいになってしまうから大変だ。浅草では江戸時代中期以降に繁昌しだしたと言われる祭礼だが、もともとは堺市鳳町の大鳥神社が本社。関東では吉原に近かった千束の大鳥神社が中心になっている。久保田万太郎の句に「くもり来て二の酉の夜のあたゝかに」がある。冬美の俳号は茶子。他に「あやまちを重ねてひとり林檎煮る」がある。「かいぶつ句集」第五十号・特別記念号(2009)所載。(八木忠栄)


May 1152011

 夏場所やもとよりわざのすくひなげ

                           久保田万太郎

相撲夏場所は8日に幕をあけた。このところしばらく、八百長問題で23人の処分を出すなど、史上例のない騒動をつづけてきた大日本相撲協会。春場所につづいて夏場所の開催も危ぶまれたが、何とか走り出した。しかし、これですべて解決したというわけではない。異例の入場料無料での開催として、別に被災地への義援金を募るという。有料にして、それを義援金とすべしという声もあがった。こうしたすったもんだの挙句の本場所開催を、相撲好きだった万太郎は、彼岸でどう眺めているだろうか。「すくひなげ」は「掬い投げ」で、相手のまわしを引かずに掬うようにして投げる決まり手である。寄切りや押出しなどよりも、このわざが決まった時はじつに鮮やかである。往年のわざ師・栃錦か初代若ノ花のきびきびした土俵を彷彿させる。じっさい万太郎は彼らのわざを目の当たりにしていたか、イメージしていたのかもしれない。俳句として「もとよりわざの」という中七のテンポがみごとに決まっている。「すくひなげ」が、言うまでもなく当然のごとく決まったというのである。なかなかのわざ師。俳句で「もとより」などという言葉はやたらに使えるものではないし、ここは解放感のある夏場所でなくてはなるまい。わざが絵に描いたように決まって、館内の歓声までも聴こえてくるようだ。一月の春場所と五月の夏場所の本場所二場所制は、明治十年から長くつづいた。万太郎には他に「夏場所やひかへぶとんの水あさぎ」という秀句もある。いかにも夏。『新歳時記・夏』(1996)所収。(八木忠栄)


December 14122011

 やがて入り来る四五人や年忘

                           久保田万太郎

まさに忘年会まっさかり。「忘年会」とすっぱり言ってしまうより、「年忘(としわすれ)」のほうが情緒がある。もちろん「望年」という言い方も流布している。今年のような年は、誰にとっても忘れようにも忘れられない年だったから、むしろ新しい年の到来に望みを託し、希望のもてる年であるように祈念するという意味で「望年」のほうがふさわしいように思われる。当方は昨夜、ある「大望年会」に参加して、とても楽しかった。暮はどちら様も何かと忙しい。けれども忘年会を通過しないと一年が終わらない、義理が立たない等々、仕事で定刻に遅れてしまっても、何とか駆けつけたいというのが人情。なかには二次会か三次会からでも参加という義理がたい(?)御仁も。「やあ、どうもどうも」とか何とか言いながら、三々五々駆けつけてくるのだろう。そのたびに酒席は揺れ、陽気な声があがるという寸法。そんなにぎやかな宴の模様が伝わってくる句である。『日本歳時記』には「年忘とて、父母兄弟親戚を饗することあり。これ一とせの間、事なく過ぎしことを祝ふ意なるべし」とある。本来はそうだったのだろうが、現在はその意味合いがだいぶ変わってきたことになる。万太郎の年忘の句は他に「拭きこみし柱の艶や年忘」がある。几董には「わかき人に交りてうれし年忘」という、今日に心境が通用する句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2572012

 年毎の二十四日のあつさ哉

                           菊池 寛

句が俳句として高い評価を受けるに値するか否か、今は措いておこう。さはさりながら、俳句をあまり残した形跡がない菊池寛の、珍しい俳句として採りあげてみたい。この「二十四日」とは七月二十四日、つまり「河童忌」の暑さを詠んでいる。昭和二年のその日、芥川龍之介は服毒自殺した。三十六歳。「年毎の……あつさ」、それもそのはず、一日前の二十三日頃は「大暑」である。昔も今も毎年、暑さが最高に達する時季なのだ。昭和の初めも、すでに猛烈な暑さがつづいていたのである。「節電」だの「計画停電」だのと世間を騒がせ・世間が騒ぎ立てる現今こそ、発電送電体制が愚かしいというか……その原因こそが愚策であり、腹立たしいのだが。夏はもともと暑いのだ。季節は別だが、子規の句「毎年よ彼岸の入に寒いのは」をなぜか連想した。芥川自身にも大暑を詠んだ可愛い句がある。「兎も片耳垂るる大暑かな」。また万太郎には「芥川龍之介仏大暑かな」がある。そう言えば、嵯峨信之さんは当時文春社員として、芥川の葬儀の当日受付を担当した、とご本人から聞かされたことがあった。芥川の友人菊池寛が、直木賞とともに芥川賞を創設したのは昭和十年だった。さまざまなことを想起させてくれる一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 0212013

 沖かけて波一つなき二日かな

                           久保田万太郎

年もどうぞよろしくお願い致します。さて、正月二日は初荷であり、書初め、掃初めなど、元日と打って変わって、世のなかが息を吹き返して活気づき、日常の生活が戻ってくるという日である。本来は、やわらかく炊いた「姫飯(ひめいい)」を初めて食べる日ともされていた。『日本歳時記』には「温飯を食し温酒を飲むべし」とある。また、知られているように「姫始(ひめはじめ)」とも言われる。もう何年も前から、元日から営業するデパートや商店もあって、元日から福袋が飛ぶように売れているようである。初荷もへったくれもなくなってしまった。越後育ちの私などが子どもの頃は、雪のなかで三が日の毎朝は判で押したように、雑煮餅を自分の年齢の数ほども食べさせられた。おせちどころかご馳走は餅だけだった。そして昼食は抜きで早夕飯は自家製の手打蕎麦という特別な日だった。掲句は、まだ二日の海だから漁船の影もなく穏やかに凪いで、波一つないというのんびりした景色であろう。海のみならず、せめて三が日くらいは地上も何事もなく穏やかであってほしいものだが……。“芸ノー人”どもが寄ってたかって、馬鹿騒ぎをくり返している正月のテレビなど観ているよりは、時間つぶしに街へ三流ドンパチ映画でも観に行くか。万太郎の句には「かまくらの不二つまらなき二日かな」もある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


September 0892013

 秋風やそのつもりなくまた眠り

                           久保田万太郎

眠なら孟浩然以来の常套句ですが、秋の眠りは実情に即しています。万太郎は、昭和36年4月21日に入院。糖尿病治療の後、5月25日、胃潰瘍の開腹手術をします。その後、六月にひとまず退院。七月と八月に再三入院して、退院後、箱根で静養しているときの句で、「病後」という前書があります。冷房設備の整っていない時代、夏場を病床で過ごす実情は過酷です。暑さと寝汗で目覚める夜もあり、健康な人も、療養中の人も、寝不足を溜めて、ようやく秋を迎えられたでしょう。掲句は、そんな身体のすこやかな反応です。稲穂や草木をなでて吹く風を古語で上風(うわかぜ)といいますが、この秋風は、病身をふたたび眠りにいざなうそれだったのでしょう。『万太郎俳句評釈』(2002)所収。(小笠原高志)


January 1412015

 まゆ玉や一度こじれし夫婦仲

                           久保田万太郎

が子どもだった頃の正月の行事として、1月15日・小正月の頃には、居間にまゆ玉を飾った。手頃な漆の木の枝を裏山から切ってくる。漆の木の枝は樹皮が濃い赤色でつややかできれいだった。その枝に餅や宝船、大判小判、稲穂、俵や団子のお菓子など、色も形もとりどりの飾りをぶらさげた。だから頭上で部屋はしばし華やいだ。豊作と幸運を祈願する行事だったが、今やこの風習は家庭では廃れてしまった。掲出句の前書に「昭和三十一年を迎ふ」とある。万太郎夫婦は前年に鎌倉から東京湯島に戻り住んだ。当時、万太郎の女性問題で、夫婦仲は良くなかったという。部屋に飾られて多幸を祈念するまゆ玉は新年にふさわしい風情だが、そこに住む夫婦仲は正月早々しっくりしていない。部屋を飾る縁起物と、スムーズにいかない夫婦関係の対比的皮肉を自ら詠んでいる。万太郎の新年の句に「元日の句の龍之介なつかしき」がある。これは言うまでもなく龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」を踏まえている。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


May 2052015

 夏場所やひかへぶとんの水あさぎ

                           久保田万太郎

催中の大相撲夏場所は、今日が11日目。今場所は誰が賜杯を手にするのだろうか? 先場所まで白鵬が六場所連続優勝を果たしてきた。ところが今場所、白鵬は意外にも初日に早くも逸ノ城に不覚をとった。さて、優勝の行方は? 力士が土俵下のひかえに入る前に、弟子が厚い座布団を担いで花道から運ぶ。座布団の夏場所にふさわしく涼しい水あさぎ色に、作者は注目し夏を感じている。二つ折りにした厚い座布団に、力士たちは腕を組んでドッカとすわる。一度あの座布団にすわってみたいものだといつも思う。暑い夏の館内の熱い声援と水あさぎの座布団、力士がきりりと結った髷の涼しさ、それらの取り合わせまでも感じさせてくれる。万太郎は相撲が好きでよく観戦したのだろう。私は家にいるかぎり、場所中はテレビ観戦しているのだが、仕切りの合間、背後に写る観客席のほうも気になる。今場所はこれまで林家ぺー、張本勲、三遊亭金時らの姿を見つけた。落語家は落語協会が買っているいい席で、交替で観戦している。万太郎のほかの句に「風鈴の舌ひらひらとまつりかな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 3042016

 ゆく春の耳掻き耳になじみけり

                           久保田万太郎

日でなにかと慌ただしかった四月が終わる。いつもながら四月は、春を惜しむ感慨とは無縁にばたばたと過ぎて、ゴールデンウイークでちょっと一息つくと立夏を迎えてしまう。春まだ浅い頃、ああもう春だなあ、と感じることは目まぐるしい日常の中でもよくあるけれど、過ぎ行く春を惜しむ、というのは余裕がないとなかなか生まれない感情のように思っていた。しかし掲出句は、耳掻きで耳掃除をするという小さな心地よさを感じながら、淡々とゆく春に思いをはせている。さらに、ゆく、という仮名のやわらかさが、ことさら惜しむ心を強調することなく、再び巡ってくるであろう春を穏やかに送っていて不思議な共感を覚える。『俳句歳時記 第四版』(2008・角川学芸出版)。(今井肖子)




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