小林一茶の句

October 03101996

 御免なり将棋の駒も箱の内

                           小林一茶

賀百万石前田候の本陣に招かれた席での句。将棋の駒も箱に入ってしまえば、玉将も桂馬も歩兵もみな一緒。つまり、人間に上下の差異はないことを、目の前の大名に暗示している。前田候に句の意味がわからなかったはずはないが、そこは天下の大名だ。「面白いことをいう奴だ」と、引き出物として絹の小袖を与えている。一茶は帰宅してから、それを裏の空き地のゴミ捨て場にポイと捨ててしまった。まるで講談の世界。このエピソードは、どうやら後世の人の創作らしいが、その意味ではこの句自体もあやしい。でも、いいでしょう。私は、句も挿話も丸ごと受け取っておきたい。無季。(清水哲男)


November 19111996

 木枯や二十四文の遊女小屋

                           小林一茶

井蒼風著『俳諧寺一茶の芸術』に、こうある。「江戸時代、もっとも下等な遊女小屋である。一茶もまた貧苦。孤情の鴉で、木枯の夜、二十四文の遊女小屋に、冬の夜の哀れを味わったのかも知れない。木枯、二十四文の語が、とくに侘びしい場末の淪落の女を感じさせて、一人に哀れである」。荒涼たる性。その果てのさらなる荒涼たる心象風景。文政十年(1827)十一月十九日、小林一茶没。この人は農家に生まれながら、ついに生産的な農耕の仕事とは無縁であった。享年六十五歳。翌年四月、後妻やを女の娘やた誕生。(清水哲男)


March 0231997

 手をかけて人の顔見て梅の花

                           小林一茶

い男が高い柵の上にのぼって、連れの女のために梅の枝を折ろうとしている。そんな浮世絵を見たことがある。この句も、同じように微苦笑を誘われる情景だ。が、一茶の研究者のなかには深読みをする人もいる。一茶には少し年上の花嬌という女弟子がいてひそかに思慕しつづけた美女であった。彼女は未亡人だったけれど、名家の嫁であり子供もある身だ。どうすることもできない。片思い。すなわち、世の中には手折ってはならぬ花があるということか……。そうした煩悶が、この句に託されているというのである。どんなものでしょうか。(清水哲男)


February 2721998

 根分して菊に拙き木札かな

                           小林一茶

ーデニング流行の折りから、ひところは死んでいたにも等しい「根分け」という言葉も、徐々に具体的に復活してきた。菊や花菖蒲などの多年草を増やすには、春先、古株の間から萌え出た芽を一本ずつ親根から離して植えかえる必要がある。これを「根分け」という(菊の場合は「菊根分」と、俳句季語では特別扱いだ)。一茶は四国旅行の途次、根分けされた菊に備忘的につけられた木札を見かけて、にっこりとしている。あまりにも拙劣な文字を判読しかねたのかもしれないが、その拙劣さに、逆に根分けした人の朴訥さと几帳面さとを読み取って、とても暖かい気分にさせられている……。現代のように、誰もが文字を書けた時代ではない。読み書きができるというだけで一目も二目も置かれた時代だから、たとえ小さな木札の文字でも、注目を集めるのが自然の成り行きであった。そのことを念頭に置いて、あらためてこの句を読み返してみると、一茶の目のつけどころの自然さと、その自然さを無理なく作品化できる才能とが納得されるだろう。(清水哲男)


March 3131998

 かゝる代に生れた上に櫻かな

                           西原文虎

書に「大平楽」とある。こんなに良い世の中に生まれてきて、そのことだけでも幸せなのに、さらにその上に、桜の花まで楽しむことができるとは……。という、まさに大平楽の境地を詠んだ句で、なんともはや羨ましいかぎりである。花見はかくありたい。が、この平成の代に、はたしてこんな心境の人は存在しうるだろうか。などと、すぐにこんなふうな物言いをしてしまう私などは、文虎の時代に生きたとしても、たぶん大平楽にはなれなかっただろう。大平楽を真っ直ぐに表現できるのも、立派な気質であり才能である。作者の文虎は、父親との二代にわたる一茶の愛弟子として有名な人だ。まことに、よき師、よき弟子であったという。一茶は文虎の妻の死去に際して「織かけの縞目にかゝる初袷」と詠み、一茶の終焉に、文虎は「月花のぬしなき門の寒かな」の一句を手向けている。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


April 1641998

 菜の花の中を浅間のけぶり哉

                           小林一茶

風駘蕩。ストレス・ゼロの句。現代人も、こんなふうに風景を見られたら素晴らしいでしょうね。そして、こんなふうにうたうことができたとしたら……。浅間は、大昔から歌や物語に登場する名山です。が、広田二郎さんという国文学者の調べたところでは、『新古今集』の在原業平以来、例外なく信濃の住人以外の人が、この山をうたってきたのだそうです。つまり、地元の人としてうたったのは一茶がはじめてということで、文学史的にも価値のある一句ということになります。浅間の煙も地元の人にとっては、日常的にすぎてうたう気になどなれなかったのでしょうか。それにしても、最近は菜の花畑が見られなくなりました。信州にしても、もうこんなに広大な畑はないでしょう。どこかに残っていないかと思っていた矢先、昨日届いた「フォトやまぐち」(山口県広報連絡協議会)に、見渡すかぎり菜の花ばかりという秋穂町の風景写真が載っていました。山口県はわが故郷。トウダイモトクラシ。(清水哲男)


July 0271998

 夕顔の男結の垣に咲く

                           小林一茶

集をめくっていて、ときどきハッと吸い込まれるような文字に出会うときがある。この場合は「男結(おとこむすび)」だ。最近はガムテープやら何やらのおかげで、日常的に紐を結ぶ機会が少なくなった。したがって「男結」(対して「女結」がある)という言葉も、すっかり忘れ去られてしまっている。が、たまに荷造りをするときなどには、誰もが男結びで結ぶことになる。ほどけにくい結び方だからだ。つい四半世紀前くらいまでは、言葉としての「男結」「女結」は生きていたのだから、それを思うと、私たちの生活様式の変わりようには凄まじいものがあって愕然とする。さて、肝腎の句意であるが、前書に「源氏の題にて」とあるので、こちらはおのずからほどけてくる。「夕顔」は源氏物語のヒロインのひとりで、十九歳の若さで急死した女性だ。彼女の人生のはかなさと夕顔の花のそれとがかけられているわけで、光源氏を「男結」の男に連想したところが、なんとも憎らしいほどに巧みなテクニックではないか。考えてみれば、一茶が見ているのは、単に垣根に夕顔が咲いている情景にすぎない。そんな平凡な様子が、名手の手にかかると、かくのごとくに大化けするである。俳諧、おそるべし。中村六郎校訂『一茶選集』(1921)所収。(清水哲男)


August 1681998

 魚どもや桶とも知らで門涼み

                           小林一茶

が桶に入れられて、門口に置かれている。捕われの身とは知らない魚どもは、のんびりと夕涼み気分で泳いでいる。「哀れだなあ」と、一茶が眺めている。教室でも習う有名な随想集『おらが春』に収められた句だ。が、この句の前に置かれた文章は教室では教えてもらえない。「信濃の國墨坂といふ所に、中村何某といふ醫師ありけり」。あるとき、この人が交尾中の蛇を打ち殺したところ、その晩のうちに「かくれ所のもの」が腐り、ぽろりと落ちて死んでしまった。で、その子が親の業をついで医者になった。「松茸のやうな」巨根の持ち主だったというが、「然るに妻を迎へて始て交はりせんとする時、棒を立てたるやうなるもの、直ちにめそめそと小さく、燈心に等しくふはふはとして、今更にふつと用立たぬものから、恥かしく、もどかしく、いまいましく、婦人を替へたらましかば、叉幸あらんと百人ばかりも取替へ引替へ、妾を抱えぬれど、皆々前の通りなれば、狂気の如く、唯だ苛ちに苛ちて、今は獨身にて暮しけり。……」。物語ではなく、現実にもこんな話があるのだと感じ入った一茶の結語。「蚤虱(のみ・しらみ)に至るまで、命惜しきは人に同じからん。ましてつるみたるを殺すは罪深きわざなるべし」。(清水哲男)


September 3091998

 あくせくと起さば殻や栗のいが

                           小林一茶

拾い。落ちている毬(いが)をひっくり返してみたら、中が殻(からっぽ)だったという滑稽句。そんなに滑稽じゃないと思う読者もいるかもしれないが、毎秋の栗拾いが生活習慣に根付いていたころには、めったに作者のように実の入った毬を外す者はいなかったはずだ。あくせくと、心が急いでいるからこうなるわけで、一茶はそのことを自覚して自嘲気味に笑っているのである。自分の失敗を笑ってくださいと、読者に差し出している。当時の読者なら、みんな笑えただろう。昔から、だいたいこういうことは子供のほうが上手いことになっていて、私の農村時代もそうだった。子供は、この場合の一茶のように、あくせくしないで集中するからだ。「急がば回れ」の例えは知らないにしても、じっくりと舌舐りをするようにして獲物に対していく。我等洟垂れ小僧は、まず、からっぽの毬をひっくり返すような愚かなことはしなかった。いい加減にやっていては収穫量の少ないことが、長年とも形容できるほどの短期間での豊富な体験からわかっていたからだ。むろん一茶はそんなことは百も承知の男だったが、でも、失敗しちゃったのである。栗で、もう一句。「今の世や山の栗にも夜番小屋」と、「今の世」とはいつの世にもせちがらいものではある。(清水哲男)


October 05101998

 玉霰夜鷹は月に帰るめり

                           小林一茶

は天心にある。さながら玉霰(たまあられ)のように降り注ぐ月光。夜鷹は淋しくも孤独に空をのぼって、あの美しい月に帰っていくのだろうな……。と、実はここまでは隠し味である。「夜鷹」といえば、江戸期にはこの夜行性の鳥の連想から下等な娼婦を指した。芝の愛宕下や両国橋などに、毎夜ゴザ一枚を持って商売に出たという。一茶には、そうした女と接触を持った体験もある。そんな女たちが、月の光りを霰と浴びて、今夜は月に帰っていくのだ。娼婦を天使に見立てる発想は西洋にもあるが、一茶の発想もかぐや姫などの「天女」に近いイメージになぞらえているわけで、興味深い。もとより作者に軽蔑の思いは微塵もなく、淪落した女の運命に満腔の同情と涙を寄せている。このあたりの世俗へのまなざしを見ると、芭蕉などとはまったく志を異にした詩人であったことがよくわかる。一茶句のなかでは、あまり知られていない句だと思うが、名月の季節に読むととりわけて心にしみる。月の光りが鮮やかなだけに、当時の闇の深さも読者の身に迫ってくる。『七番日記』に出てくる句だ。(清水哲男)


December 31121998

 うつくしや年暮れきりし夜の空

                           小林一茶

年1998年は、一茶に締めくくってもらおう。ここまでくれば、ジタバタしてもはじまらない。一茶とともに、夜空でも眺めることにしたい。ただ、ミもフタもないことを言っておけば、一茶の時代は陰暦の大晦日だから、二カ月ほど先の空を詠んでいる。そろそろ梅も咲いているかもしれぬ早春の夜空だ。だから、相当に今夜とは雰囲気は異なるが、押し詰まった気持ちには変わりはないのである。古句で締めたついでに、鎌倉末期から南北朝に生きた兼好法師の『徒然草』より大晦日の件りを引用して、今年度の『増殖する歳時記』の本締めとしたい。ご愛読、ありがとうございました。「晦日(つごもり)の夜、いたう闇(くら)きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門たゝき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくのゝしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比(ころ)都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。(清水哲男)


January 0111999

 元日や手を洗ひをる夕ごころ

                           芥川龍之介

日に晴朗の気を感ぜずに、むしろ人生的な淋しさを感じている。近代的憂愁とでも言うべき境地を詠んでおり、名句の誉れ高い作品だ。世間から身をずらした個としての自己の、いわば西洋的な感覚を「夕ごころ」に巧みに溶かし込んでいて、日本的なそれと融和させたところが最高の手柄である。芭蕉や一茶などには、思いも及ばなかったであろう世界だ。ただし、芥川の手柄は手柄として素晴らしいが、この句の後に続々と詠まれてきた「夕ごころ」的ワールドの氾濫には、いささか辟易させられる。はっきり言えば、この句以降、元日の句にはひねくれたものが相当に増えてきたと言ってもよさそうだ。たとえば、よく知られた西東三鬼の「元日を白く寒しと昼寝たり」などが典型だろう。芥川の作品にこれでもかと十倍ほど塩だの胡椒だのを振りかけたような味で、三鬼の大向こう受けねらいは、なんともしつこすぎて困ったものである。「勝手に寝れば……」と思ってしまう。そこへいくと、もとより近代の憂いの味など知らなかったにせよ、一茶の「家なしも江戸の元日したりけり」のさらりと哀楽を詠みこんだ骨太い句のほうが数段優れている。つまり、一茶のほうがよほど大人だったということ。(清水哲男)


January 1711999

 雪の朝二の字二の字の下駄のあと

                           田 捨女

の朝。表に出てみると、誰が歩いていったのか、下駄の跡が「二の字二の字」の形にくっきりと残っている……。清新で鮮やかなスケッチだ。特別な俳句の愛好者でなくとも、誰もが知っている有名な句である。しかし、作者はと問われて答えられる人は、失礼ながらそんなに多くはないと思う。作者名はご覧のとおりだが、古来この句が有名なのは、句の中身もさることながら、作者六歳の作句だというところにあった。幼童にして、この観察眼と作句力。小さい子が大人顔負けのふるまいをすると、さても神童よともてはやすのは今の世も同じである。そして確かに、捨女は才気かんぱつの女性であったようだ。代表句に「梅がえはおもふきさまのかほり哉」などがある。六歳の句といえば、すぐに一茶の「われと来て遊べや親のない雀」を思い出すが、こちらは一茶が後年になって六歳の自分を追慕した句という説が有力だ。捨女(本名・ステ)は寛永十年(1633)に、現在の兵庫県柏原町で生まれた。芭蕉より十一年の年上であるが、ともに京都の北村季吟門で学んでいるので出会った可能性はある。彼らが話をしたとすれば、中身はどんなものだったろうか。その後、彼女は四十代で夫と死別し、七回忌を経て剃髪、出家し、俳句とは絶縁した。(清水哲男)


September 2091999

 実ざくろや妻とはべつの昔あり

                           池内友次郎

榴(ざくろ)の表記は「柘榴」とも。夫婦して、さて季節物の何かを食べようというときに、必ずと言ってよいほど話題になる食物があるはずだ。「子供のときは家族そろって大好物だった」とか、逆に「こんなもの、食べられるとは思ってなかった」とか。そういうときに、私も作者のような感慨を覚える(ことがある)。石榴の場合は、おそらくは味をめぐっての思い出話だろう。一方が「酸っぱくて……」と言えば、片方が「はじめのうちだけ、あとは甘いんだよ」と言う。石榴を前にすると、いつも同じ話になるというわけだ。ま、それが夫婦という間柄の宿命(?)だろうか。私は「酸っぱくて……」派だけれど、子供のころに野生に近い石榴しか知らなかったせいだと思う。この季節の梨にしても、小さくて固くて、ほとんどカリンのようなものしか食べたことがなかった。たしかに「妻とはべつの昔」に生きていたのだ。石榴といえば、とても恐い句があるのをご存じだろうか。「我が味の柘榴に這はす虱かな」という一茶の句。虱は「しらみ」。江戸時代、柘榴は人肉の味に似ていると言われていたそうだ。(清水哲男)


September 2991999

 鰯めせめせとや泣子負ひながら

                           小林一茶

国信州信濃に鰯(いわし)を売りに来るのは、山を越えた越後の女。赤ん坊を背負っての行商姿が、実にたくましい。しかも昔から「越後女に上州男」といって、越後女性の女っぷりの評判は高かった。相馬御風『一茶素描』(1941)のなかに、こんなことが書いてある。「どんなにみだりがはしい話をもこちらが顔負けするほどに露骨にやるのが常の越後の濱女の喜ばれることの一つ」。となると、例の「あずま男に京女」のニュアンスとは、かなり懸け離れている。嫋々とした女ではなく、明朗にして開放的な性格の女性と言うべきか。句から浮かび上がるのは、とにかく元気な行商女のふるまいだが、しかし、一茶が見ているのは実は背中の赤ん坊だった。このとき、一茶は愛児サトを亡くしてから日が浅かったからである。「おつむてんてん」とやり「あばばば」とやり、一茶の子煩悩ぶりは大変なもののようだったが、サトはわずか四百日の寿命しかなかった。『おらが春』の慟哭の句「露の世は露の世ながらさりながら」は、あまりにも痛々しい。威勢のよい鰯売りの女と軽口を叩きあうこともなく、泣いている赤ん坊をじいっと眺めている一茶。おそらく彼は、女の言い値で鰯を買ったことであろう。(清水哲男)


May 2052000

 そもそものいちぢく若葉こそばゆく

                           小沢信男

もそも私たちが若葉や青葉というときに、たいがいは樹木についた新葉をひっくるめてイメージするはずである。ほとんど「新緑」と同義語に解している。いちいち、この若葉は何という名前の木の葉っぱで……などと区別はしないものだ。なかに「柿若葉」や「朴若葉」と特別視されるものもあるけれど、それはそれなりの特徴があるからなのであって、まさか「いちぢく」の葉を他の若葉と景観的に切り分けて観賞する人はいないだろう。そこらへんの事情を百も承知で、あえて切り分けて見せたところに句の妙味がある。誰もが見る上方遠方の若葉を見ずに、視線を下方身近に落として、そこから一挙に「そもそも」のアダムとイヴの太古にまで時間を駆けのぼった技は痛快ですらある。「そもそも」人類の着衣のはじまりは、かくのごとくにさぞや「こそばゆ」かったことだろう。思わずも、日頃関心のなかったいちぢくの葉っぱを眺めてみたくなってしまう。ただし、この諧謔は俳句だから面白いのであって、例えばコント仕立てなどでは興ざめになってしまうだろう。俳句はいいなア。素朴にそう感じられる一句だ。ついでだけれど、同様に青葉の景観を切り分けた私の好きな一茶の句を紹介しておきたい。「梅の木の心しづかに青葉かな」。梅の青葉です。言われてみると、たしかに「しづか」な心持ちになることができます。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


August 0382000

 夕立の祈らぬ里にかかるなり

                           小林一茶

っと読んで、意味のとれる句ではない。「祈らぬ里」がわからないからだ。しかし、夕立が移っていった里に、何か作者が祈るべき対象があることはうかがえる。まだ祈ってはいないけれど、まるで作者のはやる気持ちが乗り移ったかのように、夕立が大粒の涙を流しに行ってくれたのだという感慨はわかる。悲痛な味わいが漂う句だ。『文化句帖』に載っている句で、このとき一茶が祈ろうとしていたのは、その里にある一基の墓であった。墓碑銘は「香誉夏月明寿信女」。眠っている女性は、一茶の初恋の人として知られている。一茶若き日の俳友の身内かと推察されるが、生前の名前なども不明だ。彼女が亡くなったのは十七歳、一茶はわずかに二十歳だった。そして、この「夕立」句のときが四十四歳。つまり、二十五回忌追善のための旅の途中だったというわけだ。いかに一茶が、この女性を愛していたか、忘れることができなかったかが、強く印象づけられる句だ。男の純情は、かくありたし。しかも、実はこの句を詠んだ日は、彼女の命日にあたり、縁者による法要が営まれているはずの日であった。だが一茶は、故意に一日だけ「祈る」日をずらしている。人目をはばかる恋だったのだろう。(清水哲男)


August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


October 07102000

 何もないとこでつまずく猫じゃらし

                           中原幸子

ういうことが、私にもたまに起きる。どうしてなのか。甲子園で行進する球児のように、極度の緊張感があるのならばわかる。足並みを揃えなければと思うだけで、歩き方がわからなくなるのだ。だから、チームによっては極度に膝を高く上げて歩いたりする。普段と違う歩き方を意識することで、これは存外うまくいくものだ。しかし、一人でなんとなく歩いていてつまずくとは、どういう身体的な制約から来るのだろうか。やはり、突然歩き方がわからなくなったという意識はある。そう意識すると、今度は意識しているから、余計につまずくことになる。道端で「猫じゃらし」が風にゆれている。くくっと笑っているのだ。コンチクショウめが……。そこで、またつまずく。「猫じゃらし」の名前は一般的だが、昔は仔犬の尻尾やに似ていることから、どちらかというと「狗尾草(えのころぐさ)」のほうがポピュラーだったようだ。たいていの歳時記の主項目には「狗尾草」とある。「良い秋や犬ころ草もころころと」(一茶)。この句は、仔犬の可愛らしさに擬している。『遠くの山』(2000)所収。(清水哲男)


December 13122000

 業の鳥罠を巡るや村時雨

                           小林一茶

こここに「罠」が仕掛けられていることは、十二分に承知している。しかし、わかりつつも、吸い寄せられるように「罠を巡る」のが「業」というもの。巡っているうちに、いつか必ず罠にかかるのだ。大昔のインド宗教の言った「因果」のなせるところで、なまじの小賢しい知恵などでは、どうにもならない。なるようにしかならぬ。折りからの「時雨」が、侘びしくも「業」の果てを告げているようではないか。前書に「盗人おのが古郷に隠れ縛られしに」とある。したがって、この「鳥」は悪事を重ねた盗人に重ねられている。逃亡先に事欠いて、顔見知りのいる「古郷に隠れ」るなどは愚の骨頂だが、それが「業」なのだ。現代でも、郷里にたちまわって「縛られ」る者は、いくらでもいる。作句のときの一茶は「古郷」に舞い戻っており、わずか四百日の命で逝った娘のサトをあきらめきれずに、悲嘆のどん底にあった。だから、掲句では盗人が「鳥」というよりも、本当はおのれが「業の鳥」なのだ。おのれの「業」の深さが可愛いサトの命を奪い、因果で自分も「業」に沈むことになった。そういうことを、言っている。だが、このような後段の事情を知らなくても、掲句は十分に理解できるだろう。また「業」という考え方に共鳴できなくても、句が発するただならぬ気配に、ひとりでに吸い寄せられてしまう読者も多いだろう。一茶にも、このような句があった。(清水哲男)


March 3132001

 天才に少し離れて花見かな

                           柿本多映

作です。笑えます。何の「天才」かは知らねども、天才だって花見くらいはするだろう。ただ「秀才」ならばまだしも、なにしろ敵は天才なのだからして、花を見て何を思っているのか、わかったものじゃない。近くにいると、とんでもない感想を吐かれたりするかもしれない。いやその前に、彼が何を思っているのかが気になって、せっかくの呑気な花見の雰囲気が壊れてしまいそうだ。ここは一番、危うきに近寄らずで行こう。「少し離れて」、いわば敬遠しながらの花見の図である。でもやはり気になって、ときどき盗み見をすると、かの天才は面白くも何ともないような顔をしながら、しきりに顎をなでている。そんなところまで、想像させられてしまう。掲句を読んで突然思い出したが、一茶に「花の陰あかの他人はなかりけり」という句があった。花見の場では、知らない人同士でも、なんとなく親しみを覚えあう。誰かの句に、花幕越しに三味線を貸し借りするというのがあったけれど、みな上機嫌なので、「あかの他人」との交流もうまくいくのだ。そんな人情の機微を正面から捉えた句だが、このときに一茶は迂闊にも「あかの他人」ではない「天才」の存在を忘れていた。ついでに、花見客の財布をねらっている巾着切りのことも(笑)。掲句は「俳句研究」(2001年4月号)に載っていた松浦敬親の小文で知った。松浦さんは「取合わせと空間構成の妙。桜の花も天才も爆発的な存在で、出会えば日常性が破られる。『少し離れて』で、気品が漂う」と書いている。となると、この天才は岡本太郎みたいな人なのかしらん(笑)。(清水哲男)


May 0352001

 江戸住や二階の窓の初のぼり

                           小林一茶

戸住は「えどすみ」。「二階」が江戸を象徴している。草深い一茶の故郷には、おそらく二階家などなかったにちがいない。元禄期頃の絵を見ると、家の前に鯉のぼりではなく、定紋付きの幟(のぼり)を立ててある。これが小さくなって、家の中に飾る紙製の座敷幟となったようだ。鯉のぼりを立てる風習は、江戸も中期以降からはじまったと資料にある。その座敷幟が、二階の窓から突き出ている。「初のぼり」だから、その家の初節句だ。ただそれだけのほほ笑ましい光景ながら、これを粋な小唄のような句と読み捨てるわけにはいかない。流浪の俳諧師であった一茶には、さぞやその幟がまぶしく写ったことだろう。「初のぼり」の家には、堅実な生活というものがある。引き比べて、我が身のいい加減さはどうだ。ちっぽけな「初のぼり」が、「どうだ、どうだ」と我が身に突きつけられているのだ。ここには、芭蕉の「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」の明るさはない。「江戸住や」の「や」には、そんな孤独の心がにじみ出ている。現代でも、マンションのベランダから突き出た鯉のぼりを見て、一茶と同じような思いになる人も少なくないだろう。かつての私がそうだった。最初の失職がこの季節で、アパートに暮らす金もなく、友人宅や曖昧宿を転々としていた身には、たとえ小さな鯉のぼりでも、ひどくこたえた。(清水哲男)


August 0882001

 淋しさに飯を食ふ也秋の風

                           小林一茶

番目の妻を離別した後の文政八年(1825年)の句。男やもめの「淋しさ」だ。昔の男は自分で飯を炊いたりはしないから(炊けないから)、飯屋に行って食うのである。いまどきの定食屋みたいな店だろう。そこにあるのは、何か。もちろん飯なのだが、飯以上に期待して出かけるのは、ごく普通の人々とのさりげない交感の存在だろう。いつもの時間にいつもの人たちが寄ってきて、ただ飯を食うだけの束の間の時間が、世間並みの暮らしから外れてしまった男には安らぎのそれとなる。ホッとできる時間なのだ。晩婚だった一茶は、ごく当たり前の家庭に憧れていたろうから、やっと掴んだように思えた普通の暮らしが思うようにいかなかったことは、相当にこたえていたはずだ。だったら飯ではなくて、「酒を飲む也(なり)」が自然だろうと思うのは、まだ生活の素人である。普通の生活をしている人恋しさで出かける先が酒場だとすれば、その人はまだ若年か、よほど仕事などへの意欲があふれている人にちがいない。酒場にあるのは、どんなに静かな店であろうとも、客たちが非日常を楽しむ時空間なのだから、普通の生活のにおいなどは希薄だ。そんなことは百も承知の一茶としては、したがって飯を食いに行くしかないことになる。「秋の風」が身にしみる。男性読者諸兄よ、明日は我が身かもしれませんぞ。(清水哲男)


October 10102001

 有明や浅間の霧が膳をはふ

                           小林一茶

朝の旅立ち。「有明(ありあけ)」は、月がまだ天にありながら夜の明けかけること。また、そのころを言う。すっかり旅支度をととのえて、あとは飯を食うだけ。窓を開け放つと空には月がかかっており、浅間(山)から流れ出た「霧」が煙のように舞い込んできて「膳(ぜん)」の上を這うようである。「はふ」が、霧の濃さをうかがわせて巧みだ。膳の上には飯と味噌汁と、あとは何だろう。かたわらには、振り分け荷物と笠くらいか。寒くて暗い部屋で、味噌汁をすする一茶の姿を想像すると、昔の旅は大変だったろうと思う。これから、朝一番の新幹線に乗るわけじゃないのだから……。したがって一茶は、私たちが今この句になんとなく感じてしまうような旅の情趣を詠んだのではないだろう。情趣は情趣であっても、早起きの清々しさとは相容れない、いささか不機嫌な気分……。「膳」を這う「霧」が醸し出すねばねばとした感じ……。宿の場所は軽井沢のようだが、もとより往時は大田舎である。句の書かれた『七番日記』には、こんな句もある。「しなのぢやそばの白さもぞつとする」。一面の蕎麦(そば)の花の白さで、よけいに冷気が身にしみたのだ。昔の人は、私たちの想像をはるかに超えて、自然風物に「ぞつと」しながら歩くことが多かったにちがいない。(清水哲男)


October 30102001

 草の露かがやくものは若さなり

                           津田清子

に結ぶことが多いので、単に「露」と言えば秋季になる。風のない晴れた夜に発生する。「露」はすぐに消えてしまうので、昔からはかない事象や物事の象徴とされ、俳句でもそのように詠み継がれてきた。「露の世は露の世ながらさりながら」(小林一茶)など。ところが作者は、そのはかない「露」に「若さ」を認めて感に入っている。「かがやくものは若さなり」と、「草の露」を世の物象全体にまで敷衍して言い切っている。言われてみると、その通りだ。この断定こそが、俳句の気持ちよさである。作者にこの断定をもたらしたのは、おそらく作者の年輪だろう。なにも俳句の常識をひっくり返してやろうと、企んでいるわけではない。若いうちは、かえって「はかなさ」に過剰に捉えられる。拘泥する。おのれの、それこそ過剰な若さが、「はかない」滅びへの意識を敏感にさせるからだろう。私自身に照らして、覚えがある。若いときに書いた詩やら文章やらは、ことごとく「はかなさ」に向いていたと言っても過言ではない。このような断定は、初手から我がポエジーの埒外にあった。不思議なもので、それがいまや、この種の断言に出会うとホッとする。「かがやくものは若さなり」。いいなア。老いてからわかることは、まだまだ他にもたくさんあるに違いない。「俳句」(2001年11月号)所載。(清水哲男)


December 27122001

 心からしなのの雪に降られけり

                           小林一茶

代の帰省子にも通じる句だろう。ひさしぶりに故郷に戻った実感は、家族の顔を見ることからも得られるが、もう一つ。幼いころから慣れ親しんだ自然に接したときに、いやがうえにも「ああ、帰ってきたんだ」という感慨がわいてくる。物理的には同じ雪でも、地方によって降り方は微妙に、あるときは大いに異なる。これは江戸の雪じゃない。「しなの(信濃)の雪」なのだと「心から」降られている一茶の感は無量である。「心から」に一片の嘘もなく、だからこそ見事に美しい言葉として印象深い。ときに一茶、四十五歳。父の遺産について異母弟の仙六と交渉すべく、文化四年(1807年)の初冬に帰郷したときの句だ。「雪の日やふるさと人のぶあしらい」。家族や村人は冷たかったが、冷たい雪だけが暖かく迎えてくれたのだった。このときの交渉はうまくいかず、一茶は寂しく江戸に戻っている。遺産争いが決着するまでには、なお五年の歳月を要している。さて、この週末から、ひところほど過密ではないにしても、東京あたりでは帰省ラッシュがはじまる。故郷に戻られる読者諸兄姉には、どうか懐かしい自然を「心から」満喫してきてください。楽しいお正月となりますように。(清水哲男)


June 0562002

 瞼閉じ荒き息する雀の子

                           宮田祥子

語は「雀の子」で春。雀の卵は春から夏にかけて孵化するので、夏季としても差し支えあるまい。卵から独立して飛べるようになるまでに、二ヶ月弱はかかるというから、一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」などの姿は、むしろ夏の子雀のものである。少し大きくなってくると、子雀はよく跳ねて巣から落下する。句は、そんな子雀を拾っててのひらに乗せている図だと思う。私にも覚えがあるが、眺めていると可愛いというよりも、生命そのものの不思議を感じさせられてしまう。消え入りそうにちっぽけな体なのに、瞼をしっかりと閉じ、想像以上に荒い呼吸をしている。ちょうど、人の赤ん坊が高熱を発したときのような感じだ。生命の力強さが、ちっぽけな体いっぱいにふつふつと涌いている様子は不思議であると同時に、よくわからない何か尊いものに触れているような感じすら受ける。作者は見たままをそのままに詠んでいるだけだが、「瞼閉じ荒き息する」のそのままの描写は、生々しいがゆえに、読者の連想を単なるその場の情景から遠くに連れていく力を持っている。私はたまたま子雀を拾ったことがあるので、上記のように感じたわけだが、拾ったことのない読者の心のうちには、また別の生命への感慨が去来することだろう。そのまんま俳句、おそるべし。『福寿草』(2001)所収。(清水哲男)


July 1272002

 かはほりの天地反転くれなゐに

                           小川双々子

語は「かはほり(蝙蝠・こうもり)」で夏。夜行性で、昼間は洞窟や屋根裏などの暗いところに後肢でぶら下がって眠っている。なかには「かはほりや仁王の腕にぶら下り」(一茶)なんて奴もいる。したがって、句の「天地反転」とは蝙蝠が目覚めて飛び立つときの様子だろう。「くれなゐ」は「くれなゐ(の時)」で、夕焼け空が連想される。紅色に染まった夕暮れの空に、蝙蝠たちが飛びだしてきた。「天地反転」という漢語の持つ力強いニュアンスが、いっせいに飛び立った風情をくっきりと伝えてくる。そして、この言葉はまた、昼夜「反転」の時も告げているのだ。現実の情景ではあるのだが、幻想的なそれに通じるひとときの夕景の美しさ。最近の東京ではとんと見かけないけれど、私が子供だったころには、東京の住宅地(中野区)あたりでも、彼らはこんな感じで上空を乱舞していた。竹竿を振り回して、追っかけているお兄ちゃんたちも何人かいたような……。何の話からだったか、編集者時代に武者小路実篤氏にこの話をしたところ、「ぼくの子供の頃には丸ノ内で飛んでましたよ」と言われてしまい、つくづく年齢の差を感じさせられた思い出もある。俳誌「地表」(2002年5月・通巻第四一四号)所載。(清水哲男)


September 2192002

 名月を取てくれろとなく子哉

                           小林一茶

名な『をらが春』に記された一句。泣いて駄々をこねているのは、一茶が「衣のうらの玉」とも可愛がった「さと女」だろう。その子煩悩ぶりは、たとえば次のようだった。「障子のうす紙をめりめりむしるに、よくしたよくしたとほむれば誠と思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち一點の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、迹(あと)なき俳優(わざをぎ)を見るやうに、なかなか心の皺を伸しぬ」。この子の願いならば、何でも聞き届けてやりたい。が、天上の月を取ってほしいとは、いかにも難題だ。ほとほと困惑した一茶の表情が、目に浮かぶ。何と言って、なだめすかしたのだろうか。同時に掲句は、小さな子供までが欲しがるほどの名月の素晴らしさを、間接的に愛でた句と読める。自分の主情を直接詠みこむのではなく、子供の目に託した手法がユニークだ。そこで以下少々下世話話めくが、月をこのように誉める手法は、実は一茶のオリジナルな発想から来たものではない。一茶句の出現するずっと以前に、既に織本花嬌という女性俳人が「名月は乳房くはえて指さして」と詠んでいるからだ。そして、一茶がこの句を知らなかったはずはないのである。人妻だった花嬌は、一茶のいわば「永遠の恋人」ともいうべき存在で、生涯忘れ得ぬ女性であった。花嬌は若くして亡くなってしまうのだが、一茶が何度も墓参に出かけていることからしても、そのことが知れる。掲句を書きつけたときに、花嬌の面影が年老いた一茶の脳裏に浮かんだのかと思うと、とても切ない。「月」は「罪」。(清水哲男)


November 24112002

 つはぶきや二階の窓に鉄格子

                           森 慎一

キップ
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。学名を「Farfugium japonicum」と言うそうだから、原日本的な植物なのかもしれない。しかし、いつ見ても寂しい花だと思う。蕗の葉に似た暗緑色と花の黄色との取り合わせが、いかにも陰気なのである。一茶が「ちまちまとした海もちぬ石蕗の花」と詠んでいるように、元来が海辺の野草だ。昨冬、静岡の海岸で見かけたけれど、寒い海辺に点々と黄が散らばっている様子は、なんとも侘しい風情であった。そんな暗い感じの石蕗を庭に植えるようになったのは、花の少ない冬季に咲く花だからだろう。よく、旅館の庭の片隅などで咲いている。これは四季を通じて花を絶やさぬサービス精神の発露とはわかるが、だが、何でも咲いていればよいというものでもあるまい。仕事での一人旅だったりすると、かえって気が滅入ってしまう。掲句は、そんな「つはぶき」の舞台にぴったりの情景を伝えている。「二階の窓に鉄格子」とはただならないが、かつての座敷牢の名残りでもあろうか。だとすれば、この家にはどんな暗い歴史があったのだろう。などと、通りすがりの作者は空想している。それもこれも、陰気な「つはぶき」が空想させているのである。写真は青木繁伸氏のHP「Botanical Garden」より縮小して借用した。この花の雰囲気が、よく出ている。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)


January 2012003

 大寒の堆肥よく寝てゐることよ

                           松井松花

日は「大寒(だいかん)」。一年中で、最も寒い日と言われる。大寒の句でよく知られているのは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」あたりだろう。いずれも厳しい寒さを、心の寒さに転化している。引き比べて、掲句は心の暖かさにつなげているところがユニークだ。「堆肥(たいひ)」は、わら、落葉、塵芥、草などを積み、自然発酵させて作る肥料のこと。寒さのなかで、じわりじわりとみずからの熱の力で発酵している様子は、まさに「よく寝ていることよ」の措辞がふさわしく、作者の微笑が伝わってくる。一部の歳時記には「大寒」の異称に「寒がはり」があげられているが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味だろう。実際、この頃から、梅や椿、沈丁花なども咲きはじめる。寒さに強い花から咲いていき、春がそれこそじわりじわりと近づいてくる。そういうことを思うと、大寒の季語に託して心の寒さが多く詠みこまれるようになったのは、近代以降のことなのかもしれない。昔の人は、大寒に、まず「春遠からじ」を感じたのではないだろうか。一茶の『七番日記』に「大寒の大々とした月よかな」がある。情景としては寒いのだが、「大々(だいだい)とした月」に、掲句の作者に共通する心の暖かさが現れている。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0422003

 雪とけて村一ぱいの子ども哉

                           小林一茶

の上では、今日から春。といっても、急に雪が解けるわけではなし、まだまだ寒い日がつづきます。故郷の雪国で詠まれた掲句は、まだ二ヵ月ほど先のものでしょう。春の訪れた喜びを胸「一(いっ)ぱい」に吸い込んでいるような、心地よさがあります。「雪とけて」植物の芽吹きなどに春を感じたという句はヤマほどありますが、「子ども」の出現にそれを象徴させたところが、いかにも一茶らしいではありませんか。冬の間は戸外に遊び場もないので、子どもらは家の中でひたすら春を待ちつづけています。それが、ひとたび雪が解けるや、どこにこんなにたくさんの子どもがいたのかと思うくらいに、いっせいに表に飛びだしてきた。子だくさんは昔の農村の常でしたが、それにしても大勢いたものだなあと、目を丸くして、いや目をほそめている一茶翁。木の芽よりも花よりも、子どもにこそ元気を分けてもらった気分だったのだと思います。かつて私が暮らした山陰の村にもかなりの降雪があり、そしてかなりの数の子どもがいました。人口三千人のうち、二割ほどは子ども(小学生)でした。が、だんだん過疎化が進み、いまではその十分の一くらいに減ったそうで、雪が解けて子どもらが出てきても、もう「一ぱい」という形容はできません。淋しい話です。(清水哲男)


March 0632003

 長閑さや鼠のなめる角田川

                           小林一茶

隅田川
語は「長閑(のどか)」で春。「角田川」は隅田川のことで、「すみだがわ」の命名は「澄んだ川」の意からという。川端を散策していると、ちっぽけな鼠が一心に水を飲む姿が、ふと目にとまった。いかにも一茶らしい着眼で、「ほお」と立ち止まり、しばらく見守っていたのだろう。警戒心を解いて水を飲む鼠の様子は、それだけでも心をなごませるものがある。ましてや、眼前は春風駘蕩の大川だ。小さな営みに夢中の鼠の視座から、視界を一挙に大きく広げて、ゆったりと陽炎をあげて流れる水面を見やれば、長閑の気分も大いにわきあがってこようというものである。小さなものから大きなものへの展開。無技巧に見えて、技巧的な句と読める。角田川と言えば、正岡子規に「白魚や椀の中にも角田川」があり、こちらは大きなものを小さなものへと入れてみせていて、もとより技巧的。比べると、企みの度合いは子規のほうがはるかに高く、この抒情はやはり近代人ならではのものだと思われた。同じ「角田川」でも、一茶と子規の時代では景観もずいぶんと違っていたろうから、そのことが両者の視座の差となってあらわれているとも考えられる。図版は、国立歴史民俗博物館所蔵の江戸屏風絵の部分。うわあ、当時の川は、こんなふうだったんだ。とイメージして一茶の句に戻ると、私の拙い読みなどはどこかに吹っ飛んでしまい、まこと大川端の長閑さが身体のなかに沁み入ってくるようだ。「一枚の絵は一万語に勝る」(だったと思う)とは、黄金期「少年マガジン」のキャッチフレーズであった。(清水哲男)


December 19122003

 年の市何しに出たと人のいふ

                           小林一茶

語は「年の市」で冬。本来は毎月立つ市であるが、正月用品を扱う年末の市は格別に繁盛した。その賑わいの渦の中にいると、いやが上にも押し詰まってきた感じを受けたことだろう。年の市では、どんなものが売られていたのか。平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によれば、『日次紀事』に次のようにあるという。「この月、市中、神仏に供ふるの器皿、同じく神折敷台、ならびに片木・袴・肩衣・頭巾・綿帽子・裙帯・扇子・踏皮、同じく襪線・雪踏・草履・寒臙脂皿・櫛・髪結紙、および常器椀・木皿・塗折敷・飯櫃・太箸・茶碗・鉢・皿・真那板・膳組・若水桶・柄杓・加伊計・浴桶・盥盤、ならびに毬および毬杖・部里部里・羽古義板、そのほか鰤魚・鯛魚・鱈魚・章魚・海鰕・煎海鼠・串石決明・数子・田作の類、蜜柑・柑子・橙・柚・榧・搗栗・串柿・海藻・野老・梅干・山椒粉・胡椒・糊・牛蒡・大根・昆布・熨斗・諸般の物ことごとくこれを売る。これみな、来年春初に用ふるところなり」。ふうっ、漢字を打ち込むのがしんどいくらいに品数豊富だ。さぞや目移りしたことだろう。ただこれらの多くは所帯には必要でも、一茶のような一所不在の流れ者には必要がない。のこのこ出かけていったら、怪訝そうに「何しに出た」と言われたのも当然だ。しかし、何も買わないでも、行きたくなる気持ちはわかる。普通の人並みに、彼もまた年末気分を味わいたかったのである。したがって、「何しに出た」とは無風流な。苦笑いしつつも、一茶は大いに賑わいを楽しんだことだろう。虚子に「うつくしき羽子板市や買はで過ぐ」がある。冷やかして、通りすぎただけ。一茶と同じような気分なのだ。(清水哲男)


April 0642004

 山やくや舟の片帆の片あかり

                           久芳水颯

語は「山やく(山焼く)」で春。野山の枯草や枯木を焼き払うこと。かつて焼畑農業が行われていたころ、山岳では山を焼き、その跡地にソバ、ヒエなどを蒔いた。害虫駆除の意味合いもあったようだ。たまには、こんな句もよいものである。まるで良く出来た小唄か民謡の一節のように小粋な味がする。河か湖か、あるいは海の近くなのかもしれない。いずれにしても、山焼きの火の明りが水辺にまで届いてきて、行く舟の片帆に映っている。それを「片あかり」と叙したところが、小憎らしいほどに巧みだ。山焼きと舟との取り合わせも珍しく、しかしべつだん手柄顔もせずにさらりと言い捨てているあたりが粋なのだ。この句は、元禄期の無名俳人ばかりのアンソロジーである柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)に出ている。宵曲は句の景を指して「西洋画にでもありそうな景色」と評しているが、そんなモダンな彩りを持つ粋加減でもある。ところで山焼きと舟の取りあわせといえば、後の世の一茶にもわりに有名な句がある。「山焼の明りに下る夜舟の火」が、それだ。が、掲句と比べてしまうと、いかにも野暮ったい感は拭えない。理由を、宵曲が次のように書いているので紹介しておく。「『七番日記』には「夜舟かな」となっているが、その方がかえっていいかも知れない。山焼の明りが火である上に、更に火を点ずるのは、句として働きがないからである。片帆に片明りするの遥(はるか)に印象的なるに如かぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる」。(清水哲男)


April 0742004

 けろりくわんとして柳と烏かな

                           小林一茶

語は「柳」で春。「梅にウグイス」や「枯れ枝にカラス」ならば絵になるけれど、「柳にカラス」ではなんともサマにならない。しかし、現実には柳にカラスがとまることもあるわけで、絵になるもならぬも、彼らの知ったことではないのである。ただ人間の目からすると、この取り合わせはどことなく滑稽に映るし、両者ともに互いのミスマッチに気がつかないままキョトンとしているふうに見えてしまう。その様子を指して「けろりくわん」とは言い得て妙だ。眉間に皴を寄せて作句するような俳人には絶対に詠めない句で、こういうところに一茶の愛される所以があるのだろう。柳といえば、こんな句もある。「柳からももんがあと出る子かな」。垂れている柳の葉を髪の毛のように見せかけ、誰かを驚かそうと「ももんがあ」のように肘をはりながら「子」が突然に姿を現わしたというのである。「お化けだぞおっ」というわけだが、むろん怖くも何ともない。しかし一茶は、しなだれている柳の葉を頭髪に見立てた子供の知恵に感心しつつ微笑している。このあたりにもまた、芭蕉や蕪村などとは違って、常に庶民の生活に目を向けつづけた彼の真骨頂がよく出ていると言えよう。一茶という俳人は、最後までごく普通の生活者として生きようとした人であり、芭蕉的な隠者風エリート志向を嫌った人だった。どちらが良いというものでもなかろうが、俳句三百年余の流れを見ていると、この二様のあり方は現代においても継承されていることがわかる。そして、とかく真面目好みの日本人には芭蕉的なる世界をありがたがる性向が強く、一茶的なるそれをどこかで軽んじていることもよくわかってくる。が、それでよいのだろうか。それこそ真面目に、この問題は考えられなければならないと思う(清水哲男)


October 01102004

 鉢植に売るや都のたうがらし

                           小林一茶

語は「たうがらし(唐辛子)」で秋。真紅に色づいた唐辛子は、蕪村の「うつくしや野分の後のたうがらし」でも彷佛とするように、鮮やかに美しい。だが、蕪村にせよ一茶にせよ、唐辛子を飾って楽しむなどという発想はこれっぽっちも無かっただろう。ふうむ、「都」では唐辛子までを花と同格に扱って「鉢植」で売るものなのか。こんなものが売れるとはと、いささか心外でもあり、呆れ加減でもあり、しかしどこかで都会特有の斬新なセンスに触れた思いも込められている。むろん現在ほどではないにしても、江戸期の都会もまた、野や畑といった自然環境からどんどん遠ざかってゆく過程にあった。したがって、かつての野や畑への郷愁を覚える人は多かったにちがいない。そこで自然を飾り物に細工する商売が登場してくるというわけで、「虫売り」などもその典型的な類だ。戦後の田舎に育った私ですら、本来がタダの虫を売る発想には当然のように馴染めず、柿や栗が売られていることにもびっくりしたし、ましてやススキの穂に値段がつくなどは嘘ではないかと思ったほどだった。でも一方では、野や畑から隔絶されてみると、田舎ではそこらへんにあった何でもない物が、一種独特な光彩を帯びはじめたように感じられたのも事実で、掲句の一茶もそうしたあたりから詠んでいると思われた。(清水哲男)


January 1812005

 南天よ巨燵やぐらよ淋しさよ

                           小林一茶

語は「南天(の実)」と「巨燵(こたつ・炬燵)」。前者は秋で後者は冬の季語だが、もう「巨燵」を出しているのだから、後者を優先して冬期に分類しておく。なにしろわび住まいゆえ、部屋の中の調度といえば「巨燵」くらいのものだし、戸障子を開ければ赤い「南天」の実が目に入ってくるだけなのだから……。たぶん父に死なれた後の弟との遺産争いの渦中にあったころの作だろうが、いかにも「淋しさ」が何度もこみあげてくるような情景である。信州だから、おそらくは雪もかなりあっただろう。その白い世界の南天の実は、ことのほか鮮やかで目にしみる。けれども心中鬱々としておだやかではない作者には、自然の美しさを愛でる余裕などはなかったろうから、鮮烈な赤い実もかえって落ち込む要因になったに違いない。つい弱音を吐いて「淋しさよ」と詠んでしまった。そうせざるを得なかった。でも、妙な言い方になるけれど、これほど吠えるように「淋しさよ」と言い放つたところは、やはり一茶ならではと言うべきか。文は人なり。そんな言い古された言葉が、ひとりでに浮かんできた。(清水哲男)


February 0422005

 ご破算で願ひましては春立てり

                           森ゆみ子

語は「春立つ(立春)」。今日は旧暦の十二月二十六日だから、いわゆる年内立春ということになる。さして珍しいことではないが、『古今集』巻頭の一首は有名だ。「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ」。在原元方の歌であり、子規が「呆れ返った無趣味」ぶりと酷評したことでも知られる。たしかに年内に春が来てしまい、では今日のこの日を去年と言うのか今年と呼んだらよいのかなどの疑問は、自分で勝手に悩んだら……と冷笑したくなる。大問題でもないし、洒落にもならない。しかしながらこの歌でわかるのは、昔の人が如何に立春を重んじていたかということだ。暦の日付がどうであれ、立春こそが一年の生活の起点だったからである。すなわち、国の生計を支えていた農作業は、立春から数えて何日目になるかを目処にして行われていた。貴族だったとはいえ、だからこその元方の歌なのであり、貫之が巻頭に据えた意図もそこにあったと思われる。回り道をしてしまったが、掲句はその意味で、伝統的な立春の考え方に、淡いけれどもつながっている。今日が立春。となれば、昨日までのことは「ご破算」にして、今日から新規蒔き直しと願いたい。多くの昔の人もそう願い、格別の思いで立春を迎えたことだろう。一茶の「春立つや愚の上に叉愚を重ね」にしても、立春を重要視したことにおいては変わりがない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


March 0832005

 夜のぶらんこ都がひとつ足の下

                           土肥あき子

語は「ぶらんこ」で春、「鞦韆(しゅうせん)」に分類。平安期から長い間大人の遊具だったのが、江戸期あたりからは完全に子供たちに乗っ取られてしまった。春を待ちかねた子供たちが遊んだことから、早春の季語としたのだろう。一茶に「ぶらんこや桜の花を待ちながら」がある。掲句は「夜のぶらんこ」だから、大人としての作者が漕いでいる。小高い丘の上の公園が想像される。気まぐれに乗ったのだったが、ゆったりと漕いでいるうちに、だんだんとその気になってきて、思い切りスゥイングすることになった。ぶらんこには、人のそんな本気を誘い出すようなところがある。「足」を高く上げて漕いでいると、遠くに見える街の灯が束の間「足」に隠れてしまう。その様子を「都がひとつ足の下」と言い止めたところが、スケールが大きくて面白い。女性がひとり夜のぶらんこに乗るといえば、なんとなく曰くありげにも受け取られがちだが、そのような感傷のかけらがないのもユニークだ。だから読者もまた、春の宵の暖かさのなかにのびのびと解放された気持ちになれるのである。ぶらんこを漕ぐといえば、思い出すのはアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングだ。彼女は、異様に長いぶらんこに乗っていた。で、あるヒマ人が計算してみたところ、ハイジは上空100メートルくらいを時速68キロで振り子振動をしていたことになるのだそうだ。シートベルトもせずによくも平気な顔をしていられたものだと驚嘆させられるが、それでも彼女には遠い「都」はちらりとも見えなかった。それほどアルプスは雄大なのである(笑)。「読売新聞」(2005年2月12日付夕刊)所載。(清水哲男)


August 0782005

 今朝秋のよべを惜みし灯かな

                           大須賀乙字

日は、早くも立秋である。季語は「今朝(の)秋」。立秋の朝を言う。作者は、早暁に目覚めた。「灯(ともし)」は街灯だろうか、それともどこかの家の窓の灯火だろうか。いずれにしても、「よべ」(昨夜)から点いていたものだ。そして今日が立秋となれば、その灯は今年最後の夏の夜を見届けたことになり,「今朝秋」のいまもなお、去って行った夏を惜しむかのように点灯していると見えるのである。昨夜までで消えた夏を言い、立秋に一抹の哀感を漂わせた詠みぶりが斬新だ。「そもそも詩歌製作後の吾等感情は一種解脱的の味ひである。然るに俳句は製作に取り掛る時は既に解脱的寂滅的調和の感情に到達して居る」と乙字の俳論にあるが、みずからの論を体現し得た佳句と言えよう。ところで掲句は掲句として,例年のことながら,立秋は猛暑の真っ只中に訪れる。毎年立秋を迎えると,どこに秋なり秋の気配があるのかと、ぼやくばかりだ。一茶に「けさ秋や瘧の落ちたやうな空」(「瘧」は「おこり」)があるけれど、なかなかそううまい具合には、自然は動いてくれない。それでも人間とは面白いもので、そう言えば朝夕はかなり涼しくなってきたような……などと、懸命に秋を探してまわったりするのである。「立秋と聞けば心も添ふ如く」(稲畑汀子)。このあたりに、私たちの本音があるのだろう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0192005

 秋風や壁のヘマムシヨ入道

                           小林一茶

ヘマムショ入道
存知でしたか、「ヘマムシヨ入道」。由緒正しいというのも変だけれど,これは江戸期の由緒正しい落書きの一つだ。現代人なら誰でも「へのへのもへじ(へへののもへじ)」の「文字絵」を知っているように,江戸時代の人にはおなじみの「絵」だったようである。「へのへのもへじ」が顔の正面をあらわしているのに対して、「ヘマムシヨ入道」は身体のついた横顔を表現している(図版参照)。そんな絵が壁に落書きされていても、べつに珍しいことではないはずなのだが、このときの作者はしばらく見入ってしまったのだろう。「秋風」に吹かれて、いささか感傷的になっていたのかもしれない。見つめているうちに、ちょっと気難しげな顔つきが気になってきて,この「入道」はいったいどんな人物なのだろうかなどと、いろいろと想像しているのではなかろうか。いずれにしても、何でもない落書きに目をとめたりするのは、四季のうちでも秋がもっとも似つかわしい。「秋思」という季語まであるくらいだ。文字絵に戻れば,「ヘマムシヨ入道」の発想はパソコン時代の顔文字やアスキー・アートに似ている。それらの元祖と言っても差し支えないだろう。だが、いつも不思議に思うのは、こういうことに西欧人はあまり関心がないらしい点だ。あちらのサイトをめぐっていても、顔文字などにはめったにお目にかかれない。何故なのだろうか。(清水哲男)


December 01122005

 冬の雨火箸をもして遊びけり

                           小林一茶

語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


June 2362006

 蛍より麺麭を呉れろと泣く子かな

                           渡辺白泉

語は「蛍」で夏。敗戦直後の句だ。掲句から誰もが思い出すのは、一茶の「名月を取てくれろとなく子哉」だろう。むろん、作者はこの句を意識して作句している。とかく子どもは聞き分けがなく、無理を言って親や大人を困らせるものだ。それでも一茶の場合は苦笑していればそれですむのだが、作者にとっては苦笑どころではない。食糧難の時代、むろん親も飢えていたから、子供が空腹に耐えかねて泣く気持ちは、痛いほどにわかったからだ。こんなとき、いかに蛍の灯が美しかろうと、そんなものは腹の足しになんぞなりはしない。それよりも、子が泣いて要求するように、いま必要なのは一片の麺麭(パン)なのだ。しかし、その麺麭は「名月」と同じくらいに遠く、手の届かないところにしかない。真に泣きたいのは、親のほうである。パロディ句といえば、元句よりもおかしみを出したりするのが普通だが、この句は反対だ。まことにもって、哀しくも切ないパロディ句である。あの時代に「麺麭を呉れろ」と泣いて親を困らせた子が、実は私たちの世代だった。腹の皮と背中のそれとがくっつきそうになるほど飢えていた子らは、その後なんとか生きのびて大人になり、我が子には決してあのときのようなひもじい思いをさせまいと、懸命に働いたのだった。そして、気がついてみたら「飽食の時代」とやらを生み出していて、今度は麺麭の「捨て場所」づくりに追われることにもなってしまった。なんという歴史の皮肉だろうか。そしてさらに、かつて麺麭を欲しがって泣いた子らの高齢化につれ、現在の公権力が冷たくあたりはじめたのは周知の通りだ。いったい、私たちが何をしたというのか。私たちに罪があるとすれば、それはどんな罪なのか。『渡邊白泉全句集』(2005)所収。(清水哲男)


February 1322007

 四匹飼えば千句与えよ春の猫

                           寺井谷子

所の雑司が谷墓地に恋する猫たちが闊歩する季節となった。「恋猫」「孕み猫」「子猫」と、春の歳時記にあふれる猫の句を前に、飼い猫たちを「一体どうなのよ」と眺めている作者の視線が愉快な掲句である。もちろん、猫の方は我関せずの態を崩さず、顔など洗っているのだろう。愛玩動物として飼われる猫が大半になった現在、俳句にペットを持ち込むことは、吾子俳句、孫俳句同様、舐めるような愛着を見せられては敬遠されることは必定で、例句がふんだんにあるわりに、新しい猫の句を誕生させることは難しい。そこへいくと掲句には、意表をつく「千句与えよ」という大上段に構えた表現と、そこに込められた明らかな諦観がユーモラスな笑いにつながってゆく。また、猫を飼っている読者も「一匹につき250句かあ」などと詮無い割り算ののち、やはりそれぞれの飼い猫を眺め、その「まるっきり関係ありません」的な態度に肩をすくめていることだろう。漫画「サザエさん」には、縁側で猫をからかいながら「よごれ猫それでも妻は持ちにけり」とくちづさむ波平に、カツオとマスオが「おとうさん、それは犬のほうが…」などといいように添削され、「一茶の句だ」と一喝する場面がある。俳句を趣味とする波平にも250句与えてくれたとは思えないサザエさん家のタマであった。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


April 1542007

 老の身は日の永いにも泪かな

                           小林一茶

つまでも色あせることのない感性、というものがまれにあります。また、文芸にさほどの興味を持たない人にも、たやすく理解され受け入れられる感性、というものがあります。一茶というのは、読めば読むほどに、そのような才を持って生まれた人なのかと思います。遠く、江戸期に生きていたとしても、呟きは直接に、現代を生活しているわたしたちに響いてきます。むろん、創作に没頭していた一茶本人にとっては、そんなことはどうでもよかったのでしょう。自分の句が、将来にわたってみずみずしさを失わないだろうなどとは、少しも思っていなかったに違いありません。それは結果として、たまたまそうであったということなのです。たまたま一茶の発想の根が、人間の時を越えた普遍の部分に結びついていたからなのです。さて掲句、内容を説明する必要はありません。明解な句です。季語は「日永し」、日が永くなるのを実感する春です。まさか、老齢化が進む現代の日本を予想したわけでもないでしょうが、この切実感は、今でこそ読むものに深く入り込んできます。「日が永く」なり、ものみな明るい方向へ進む、そんな時でさえ、わが身を振り返ると泪(なみだ)が流れるのだと言っています。外が明るければ明るいほどに、自分の命という無常の闇は、その濃度を増すようです。特別な題材を扱っているわけではない、変わった表現を駆使しているのでもない、それでも一茶はやはり、特別なのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


August 1082007

 うつくしや雲一つなき土用空

                           小林一茶

心者だった頃は俳句に形容詞を使わないようにと指導される。悲しい、うれしい、楽しい、美しい。言いたいけれども、言ってはいけない。固く心に決めてこれらの語には封印をする。嫌うからには徹底的に嫌って、悪役扱いまでする。これが、どうにかベテランと言われる年代に来ると、この河豚の肝が食べてみたくなる。心情を自ら説明する修飾語を使うというハンデを乗り越えて、否、その欠点を逆手にとって、満塁ホームランを打ってみたくなる。一茶には「うつくしや障子の穴の天の川」もある。二句とも平明、素朴な庶民感覚に溢れていて良い句だ。「雁や残るものみな美しき」これは石田波郷。去るものと残るものを対比させ、去るものの立場から見ている。複雑な心情だ。雲一つない空の美しさは現代人が忘れてしまったもの。都市部はむろんのこと、農村部だって、アスファルトも電柱もなく軒も低い昔の空の美しさとは比較にならない。今住んでいる横浜から、定期的に浜松に行っているが、行くたびに霧が晴れたように風景がよく見える。最初気のせいかと思ったが、毎回実感するので、実際そうなのだろう。いかに都市の空気が汚染されているかがわかる。失われた空の高さ、青さを思わせてくれる「うつくしや」だ。平凡社『ポケット俳句歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 2292007

 桔梗の咲く時ぽんといひさうな

                           千代尼

当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


December 31122007

 どこを風が吹くかと寝たり大三十日

                           小林一茶

のときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


April 2442008

 パスポートにパリーの匂ひ春逝けり

                           マブソン青眼

しい海外旅行の経験しかないけど、パスポートを失くす恐ろしさは実感させられた。これがないと飛行機にも乗れないしホテルにも泊まれない。何か事が起きたとき異国で自分を証明してくれるのはこの赤い表紙の手帳でしかない。肌身離さず携帯していないと落ち着かなかった。母国から遠く離れれば離れるほどパスポートは重みを増すに違いない。『渡り鳥日記』と題された句集の前文には「渡り鳥はふるさとをふたつ持つといふ渡り鳥の目に地球はひとつなり」と、記されている。その言葉通り作者の故郷はフランスだが、現在は長野に住み、一茶を研究している。だが、時にはしみじみと母国の匂いが懐かしくなるのかもしれない。それは古里を離れて江戸に住み「椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉」と詠んだ一茶の憂愁とも重なる。年毎に春は過ぎ去ってゆくけれど、今年の春も終わってしまう。「逝く」の表記に過ぎ去ってしまう時間と故郷への距離の遥かさを重ねているのだろうか。「パスポート」「パリ」と軽い響きの頭韻が「春」へと繋がり、思い入れの強い言葉の意味を和らげている。句集は全句作者の手書きによるもので、付属のCDでは四季の映像と音楽に彩られた俳句が次々と展開してゆく。手作りの素朴さと最先端の技術、対極の組み合わせが魅力的だ。『渡り鳥日記』(2007)所収。(三宅やよい)


May 1752009

 大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

                           小林一茶

茶の句はなぜこれほどわかりやすいのかと、あらためて思います。変な言い方ですが、どうもこれは普通のわかりやすさではなくて、異常なわかりやすさなのです。わかりやすさも極めれば、感動につながるようなのです。ずるいわかりやすさなのかもしれません。「淋しさよ」と、直接詠っています。いったい一茶はどれだけ淋しいといえば気がすむのかと、文句を付けたくなりますが、なぜか納得させられてしまうのです。体の部位や姿勢が、悲しみや淋しさに結びつくことは、だれでもが知っています。なぜなら悲しみや淋しさを感じるのは、ほかでもない自分の体だから。この句では姿勢(大の字)を涼しさに結び付けて、さらに付け加えるようにして淋しさに付けています。淋しいとき人はどうするだろう。むしろ身をかがめて膝を抱えるものではないのか、といったんは思いはするものの、いえそれほどに単純なものではなく、身を広げても、広がりの分だけの淋しさを、ちゃんと与えられてしまうようです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


March 3132010

 一二三四五六七八桜貝

                           角田竹冷

んな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


April 0442010

 雪とけてくりくりしたる月夜かな

                           小林一茶

だまだ寒い日が続いています。と、私がこれを書いているのは、寒気が上空を覆っている3月30日(火)ですが、はてさて4月4日には陽気はどうなっているのでしょうか。この句のように「雪とけて」、穏やかな春の大気に包まれているでしょうか。本日の句、ポイントはなんといっても「くりくり」です。なんだかふざけているような、でも馬鹿らしくは感じさせないすれすれのところの擬音を、さりげなく置いています。心憎い才能です。「くりくり」から思いつくのは、今なら子供の大きな丸い目ですが、当時はどうだったのでしょう。凡人には、いくら頭をひねっても、あるいは幾通りの擬音をためしてみても、こんなふうには出来上がらないものです。結局は持って生まれた才能のあるなしで、文学のセンスは決まってしまうのかと、凡庸な才で日々苦労しているものにとっては、つらい気持ちにさせられます。とはいうものの、今更どうなるものでもなく、たまたま見事な言葉遣いの才が、この人に与えられてしまったのだと気をとりなおし、目をくりくりして、ただ素直に感動することにしましょう。『百人百句』(2001・講談社)所載。(松下育男)


September 1092010

 けさ秋やおこりの落ちたやうな空

                           小林一茶

こりはマラリア熱の類。間欠的に高熱が襲う。けさ秋は「今朝の秋」、秋の確かな気配をいう。暦の上の立秋なぞものかわ今年のように暑いとまさにおこりを思わせる。横浜に住んでいて9月7日に到りひさしぶりに雨が降ったが秋の雨というような季語の本意には遠く、むしろ喜雨という言葉さえ浮んだのだった。観測史上の記録を塗りかえるほどの暑さを思うとおそらく一茶の時代よりも4、5度は現在の方が高温なのではないか。おこりよりももっと激しい痙攣のような残暑がまだまだ続くらしい。『八番日記』(1819)所収。(今井 聖)


October 22102010

 不思議なり生れた家で今日の月

                           小林一茶

泊四十年と前書あり。木と紙で出来た建物でも数百年は持つ。神社仏閣のみならず民家でもそのくらいの歴史ある建物は日本でも珍しくないのだろうが、映像でヨーロッパの街などで千年以上前の建物があらわれてそこにまだ人が住んでいるのを見ると時間というものの不思議さが思われる。僕自身も子供のころから各地を転々としたので、ときにはかつて住んでいた場所を訪ねてみたりするのだが、生家はもとよりおおかたはまったく痕跡すらないくらいに変化している。その中で小学生の頃住んだ鳥取市の家に行ってみたとき、そこがほぼそのまま残って人が住んでいたのには驚いた。家の前に立って間取りや階段の位置などを思い起してみた。二階から見えた大きな月の記憶なども。まだ妹は生まれてなくて三人暮し。その父も母ももうこの世にいない。『一茶秀句』(1964)所載。(今井 聖)


December 26122010

 ともかくもあなた任せのとしの暮

                           小林一茶

リスマスが終われば毎年、私の勤める会社の玄関先では、早々にツリーが取り払われ、翌日には新しい年を迎える飾り付けに変わっています。毎年の事ながら、作業をする人たちの忙しさが想像されます。私事ながら、長い間お世話になった会社を今年末で終える私にとっては、いつもの年末ではなく、健康保険だ、年金だ、雇用保険だで、手続きに忙しい日々が続いています。しかしこちらのほうは、あなた任せにするわけにもいかず、慣れない用紙に頭をひねっているわけです。さて、本日の句です。あいかわらずとぼけていて、わかったようでどうもよくわからない句です。「あなた」をどのように解釈するかによって、家庭の中のことを詠んだ句なのか、あるいは世の中すべてを見渡している句なのかが決まるのでしょう。どちらにしても、「ともかくも」この句を読んでいると、なぜか安心してしまいます。年末だからといって、そうあくせくする必要はない。どうせなるようにしかならないのだからと、だれかに肩をたたかれているような、ほっとした気持ちになってきます。『俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2522011

 紅梅に干しておくなり洗ひ猫

                           小林一茶

うやって干したんだろう。枝に縛ったりしたとは思えない。木の上に上らせて置いたということの比喩だとしたら、猫が意味もなく木の上に長く留まるとは考えにくい。だいいち昔も猫を洗ったということが僕には新鮮。僕の子供の頃は人間様でも毎日は銭湯に行かなかったし、髪なんか週一くらいしか洗わなかった。一茶の時代ならもっと間隔が空いていただろうに、そんな時代に猫を洗うとは。野壺にでも落ちたか。今の俳句ならヨミの許容範囲が広がっているので、「紅梅に」で軽い切れを入れて読む読み方もあるかもしれぬ。猫は別の場所に干してあるという鑑賞だ。それから、馬や牛を洗うのが夏の季題だから、猫を洗うのもやっぱり夏がふさわしくて、紅梅とは季節感がずれる、なんて言いそうだな、現代は。僕は、猫は絶対に紅梅の木の上にいると思う。この句の魅力はこのユーモアが現代にも通じること。河豚を食べたがなんともなかったとか、落花が枝に帰るかと思ったら蝶だったとか、古句の中のユーモアはあまり面白くないことが多いが、この句、今でも十分面白い。『一茶秀句』(1964)所収。(今井 聖)


September 1192011

 団栗の寝ん寝んころりころりかな

                           小林一茶

の句、いったいどういう意味かと考え始めても、なかなかしっくりした答が出てきません。でも、意味は不明でも、読んでいるとなぜか心の奥が明るくなるような気がします。心の奥を明るくしてくれる句なんて、めったにあるものではありません。だから意味なんてどうでもいいのです。言葉のよい調子が、読む人の気分を穏やかにしてくれるし、団栗の姿形も、どこかとぼけていて安心させてくれるものがあります。団栗というと、手のひらに乗せて転がしてみたくなります。そんなことをしても、なにがどうなるわけでもないのに、ただ転がしてみたくなります。この句、子守唄がそのまま入っていますが、安らかに眠ってしまったのは、団栗を握ったままの、日々の労働に疲れきった人の方なのでしょうか。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 30102011

 次の間の灯で飯を喰ふ夜寒かな

                           小林一茶

うして隣の部屋の灯で食べているのかは分りませんが、たしかにそんな経験、一度か二度はあったなと思います。そう思ってしまったらもう、句の魅力に捕らわれているわけです。書かれていることは、ただありのままの様子を写しただけです。それなのに、読者の想像力は妙に膨らんで行きます。不思議です。この句に感心するのは、描き方の巧さではなく、これを描けば句になるという感覚です。隣の部屋の明かりで夕食を食べざるをえないのは、肩身の狭い状況にあるからなのでしょうか。ひとりで向かう小さな御膳の前で、悲しみそのもののような食事をしているのかもしれません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


April 1442013

 寝ころんで蝶泊らせる外湯哉

                           小林一茶

防備で、無邪気。天真爛漫、春爛漫。生まれたまんまの姿で、春の空を眺めながら湯にひたり、我が身を蝶の宿にする。粋で自由。一度でいいから、こんなシチュエーションに身を置きたいものです。掲句は前書に「道後温泉の辺りにて」とあり、注釈に、寛政七年(1795)春の即興吟とあります。一茶三十二歳。ご存知のように、一茶は十五歳で故郷北信濃の柏原を出てから五十一歳で帰郷するまで、江戸、西国などを転々として流寓生活を送りました。その半生の中で培われた感覚は、例えば「夕立や樹下石上の小役人」といった人間界の権威に対する皮肉に表れ、一方で、「やれ打つな蝿が手をすり足をする」があります。この句について、昨年『荒凡夫一茶』を上梓された金子兜太氏は、「これは学校の先生が教える慈悲の句ではなく、本当の意味でリアルな、写生の句である」と述べています。「おそらくは、蠅よ、お前は脚を磨いておるなあ、まあ、ゆっくりやってくれやい、と見たままを詠んだ句です。」金子氏は、一茶の句に「生きもの感覚」をみいだしていますが、掲句も同様に、人間界よりも広くおおらかなくくりの自然界に身をひたし、空と湯と蝶と我が身を一体にする一茶の無邪気を読みます。『日本古典文学大系58・一茶集』(岩波書店)所収。(小笠原高志)


September 1592013

 秋の山一つ一つに夕哉

                           小林一茶

化二(1805)年、43歳の作。一茶が北信濃柏原に帰郷定着するのが文化九年、50歳で、その間、江戸・柏原往復を六回。双方に拠点を作ります。その後、三度結婚するのだから強い。掲句の秋の山は、旅の途上か郷里の山か。一日の終わりに、じっと佇んでいるとき、まだ色づき始めてはいない秋の山を、東から西へ、一つ、一つ夕(ゆふべ)の茜色に染めていく、その色合いの変化。それは、色彩が変化する様を、ダイナミックな日時計のように視覚化した情景です。一方、同じ文化二年に「木つつきや一つ所に日の暮るる」があり、夕(ゆふべ)の一茶は視点が動いていったのに対し、「日の暮るる」一茶の視点は、一つ所に目を遣っています。「木つつき」の音の向こうは、日暮れから闇へと移り変わっていく時の経過です。さらに、寛政年間、たぶん30歳頃の作、「夕日影町一ぱいのとんぼ哉」。村ではなくて町なので江戸でしょう。夕日を浴びて、赤とんぼは深紅です。夜は漆黒の闇であった時代、夕日、夕(ゆふべ)、日暮れの光と色は違っていたことを、一茶の目は伝えています。『一茶俳句集』(1958・岩波文庫)所収。(小笠原高志)


September 1992015

 頬ぺたに當てなどすなり赤い柿

                           小林一茶

規忌日ということで歳時記を見ていたら、子規の好物であった柿の項に掲出句があった。赤く熟した柿を手にとって頬に当てる、という仕草は一茶と似合っているようないないような、と思ったら前書きに「夢にさと女を見て」とある。さとは一茶と最初の妻との間に生まれた長女だが生後四百日で亡くなっている。夢の中でさとがその頬ぺたに赤い柿を当てたりしている、と読むのもかわいらしいが、この、頬ぺた、は作者自身の、頬の辺り、という気がする。たった一歳で別れた我が娘、思い出すのはいつもただ泣きただ笑うその顔の特に丸くて赤い頬であり、夢に出てきた我が娘の頬の赤が目覚めてからも眼裏にはっきり浮かんでいたのだ。ちょうど熟した柿が生っていたのか置かれていたのか、赤い柿を手に取って思わずそっと頬に当ててみるが、柿はその色とは裏腹にひんやりと固かったに違いない。それでも愛おしむ様にしばらく柿を手に夢の余韻の中にいた作者だったのではないだろうか。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)




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