山口誓子の句

August 1481996

 夏草に汽罐車の車輪来て止る

                           山口誓子

鉄の給料(父親の)で食わせてもらったせいか、引込線などに一輛だけとまっている蒸気機関車のことを思うと胸がとどろきます。中学生のとき出会ったと思われるこの句は、機関車のヒロイックな迫力を静かな状態で示してくれているようで、印象の深いものがあります。鉄サビや油や燃え尽きた石炭の匂いがなまなましい。ボクだとコドモの背丈で見上げているのです。(三木卓)


March 1831997

 春の夜や後添が来し灯を洩らし

                           山口誓子

い間やもめ暮らしだった近所の家に、珍しく遅くまで灯がともっている。再婚するという噂は耳にしていたが、どうやら噂は本当だったようだ。と、作者は納得し、微笑している。それでなくとも、春の夜には艶っぽい雰囲気がある。したがって、シチュエーション的にはいささか付き過ぎ、出来過ぎか……。永田耕衣に「春の夜や土につこりと寂しけれ」がある。むしろ、こちらの句にリアリティを感じるという読者も多いだろう。(清水哲男)


May 1251997

 薔薇熟れて空は茜の濃かりけり

                           山口誓子

薇の花が開ききった夕暮れ時、折りからの空はあかね色に濃く染まってきた。どちらの色彩もが、お互いに充実しきった一瞬をとらえている。しかし、この充実の時は長くはない。中村草田男に「咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも」があるが、いずれも普通の観賞句より、一歩も二歩も踏み込んで詠んでいる。誓子句のほうがよほど抒情的だけれど、こちらのほうが大方の日本人の好みには合うだろう。蛇足ながら、薔薇の句に名句は少ない。花が西洋的で豪奢すぎるせいだろうか。(清水哲男)


November 24111997

 街道に障子を閉めて紙一重

                           山口誓子

さにこの通りの家が、昔は街道沿いに何軒もありました。障子の下のほうには、車の泥はねの痕跡があったりして……。夜間は雨戸を閉めておくのですが、昼間は障子一枚で街道をへだてているわけで、この句の「紙一重」は言いえて妙ですね。街道沿いとはいえ、いまのようにひっきりなしに車の往来がなかったころの光景です。障子の内側で暮らす人たちの生活ぶりまでが想像されて、懐しい感情を呼び醒される一句でした。障子といえば、私が子供だったころには、どこの子も「ちゃんと閉めなさい」と親から口喧しくいわれたものです。おかげでマナーが身についたせいか、いまだに宴席でトイレに立つときなど、障子の閉め具合が気になります。そんな習慣の機微を詠んだ句に、北野平八の「障子閉じられて間をおき隙閉まる」があります。これまた名句というべきでしょう。(清水哲男)


August 0981998

 富士山頂吾が手の甲に蝿とまる

                           山口誓子

夏でも、富士山の頂上は寒い。「二度登る馬鹿」と言われて二度登ったことがあるので、とくに朝方の冷えこみ具合は忘れられない。そんなところに蝿がいるのは、確かに素朴な驚きだ。下界で想像すると、なにしろゴミ捨て場みたいな山でもあるから、蝿だっているさと思いがちだが、あの寒気のなかの蝿の存在はやはり珍しいのである。この句の前に「十里飛び来て山頂に蝿とまる」とある。自分もよく登ったものだが、蝿よ、お前もよくやったなあ。そんな感慨が自然にわいてきて、手の甲の蝿を払いもせずに見つめている図である。巨大な富士と微小な蝿との取り合わせも面白い。なんでもない句と言えば言えようが、この「なんでもなさ」のポエジーを面白がれるヒトにならなければ、この世を、死ぬまでほとんどなんでもないことの連続で通り過ぎてしまうことになる。誤解を恐れずに言えば、俳句は「なんでもない世」を面白く見つめるための強力なツールなのだと思う。ついでに余談的愚問だが、最近「富士額(ふじびたい)」の女性をとんと見かけないのは、ヘア・スタイルの変化によるものなのだろうか。『不動』所収。(清水哲男)


June 1962000

 ナイターに見る夜の土不思議な土

                           山口誓子

そらく、初めてのナイター見物での感想だろう。煌々たるライトに照らし出された球場は、そのままで別世界だ。人工美の一つの極。私が初めて見たときは、玩具の野球ゲーム盤みたいだと思った。打ったり投げたりしている選手たちも、みなロボット人形のように見えた。「大洋ホエールズ」に贔屓の黒木基康外野手がいたころだから、60年代も半ばの後楽園球場だ。ナイターの現場にいるというだけで興奮していて、ゲームの推移など何一つ覚えてはいない。あのとき、私は何を見ていたのだろうか。掲句を知ったときに、さすがに研鑽を積んだ俳人の目は凄いなと感じた。人工芝などない時代だから、芝も土も自然のものである。何の変哲もない自然が、しかしナイターの光りに照らし出されている様子は、たしかに「不思議」と言うしかないような色彩と質感を湛えている。自然の「土」が、これまでに誰も見たことがない姿で眼前に展開しているのだ。試合中に、誓子は何度もその「不思議」を見つめ直したにちがいない。人工的に演出されたワンダーランドのなかにいて、すっと「土」という自然に着目する才質は、俳人としての修練を経てきた者を強く感じさせる。ちなみに、日本の初ナイターは1948年(昭和二十三年八月十七日)の巨人中日戦(横浜ゲーリッグ球場)だった。田舎の野球小僧だった私は、雑誌「野球少年」のカラー口絵でそれを知った。平井照敏『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1982000

 長時間ゐる山中にかなかなかな

                           山口誓子

に、類句はあると思う。最近何かの句集で見かけたような気もしたが、失念してしまった。なにしろ「かな」と切れ字を連発する虫だもの、俳人が食指をのばさないわけがない。ただし、よほど考えて作らないと、駄洒落に落ちる危険性を伴う。その点、登山を趣味とした誓子の句は、実感に裏打ちされているだけに、よい味が出ている。それというのも、「かなかなかな」の最後の「かな」は切れ字としても働き、一方では鳴き声の続きとしても機能しているからである。この「かな」の二重の言語的な働きが、句の品格を保証し「山中」の情趣を醸し出している。「かなかな」の本名は「蜩(ひぐらし)」だろうが、こちらにも同時に着目したのが江戸期の人・一峰の「秋ふくる命はその日ぐらし哉」だ。いささか語るに落ちそうな句ではあるけれど、悪くはない。最後ではちゃんと「哉(かな)」と鳴かせている。着想した当人は、さぞかし得意満面だったろう。「かなかな」といえば、山村暮鳥の詩集『雲』(1925)に、好きな詩がある。「また蜩のなく頃となつた/かな かな/かな かな/どこかに/いい国があるんだ」(「ある時」全編)。暮鳥は『雲』の校正刷を病床で読み、間もなく永眠した。松井利彦編『山嶽』(1990)所収。(清水哲男)


February 2722002

 ゆるやかな水に目高の眼のひかり

                           山口誓子

語は「目高(めだか)」で夏。えっ、なぜ春ではなくて夏なのだろうか。私などは、水ぬるむ頃の小川ですくって遊んだものだから、目高と春のイメージとは固く結びついている。唱歌の「春の小川」にも「♪えびやめだかや 小ぶなの群れに……」とあるではないか。早速、理由を調べてみたら、昔は水鉢などに飼って涼味を楽しんだそうで、季語的には金魚と同じ扱いということのようだ。だから、夏。となれば、俳句に登場する目高は観賞魚と思ったほうがよいわけだが、掲句では明らかに観賞用の目高ではない。「ゆるやかに」流れる水という表現からしても、夏というよりも、春の感じが濃い。春になってやっと出てきてくれた目高だからこそ、「眼のひかり」が生きてくる。小さな生き物の眼に光りを感じる心は、春出立の希望や決意のそれと照応している。どう考えても、夏ではない。早春の句と読むべきだろう。また余談になるが、目高と遊んでいたころに、生きたまま飲み込むのを得意とする友人がいた。蛇をつかんで振り回すのと同じで、男の子の勇気の証しだった。私にはとても飲み込めなかったが、後で知ったところによると、飲み込む習俗は古くから大人の世界で行われていたそうである。目高の眼が大きいところから眼がよくなるなど、呪術的な目的があったという。これも全国どこにでも目高がいた頃の話で、いまや目高は絶滅危惧種となってしまった。いまどき三匹も飲み込んだら、訴えられてしまうかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1782002

 暑き日の證下界に光るもの

                           山口誓子

子は登山をよくしたから、山の句も多い。頂上まで登る途次に、一休みで「下界」を見下ろした。煙草を喫う人だったかどうかは知らないけれど、一服しながら眺める下界の様子は心に沁みる。あんなに低い所から登ってきたという達成感もあるが、それ以上にあるのは、あそこには人々の暮らしがあるのだという感慨だろう。高い山には、まったく暮らしの匂いがない。ないから、ごく自然に「下界」(人間界)と口をついて出てくる。それにしても、ヤケに暑い日だ。何度くらいだろうか。見やっている下界では、ところどころで何かが陽射しを反射して強烈に光っている。あれが暑さの「證(あかし)」だ、道理で暑いわけだと、納得している。山の子だった私には、かつて見慣れた光景だが、下界に「光るもの」と言われて、あらためて気づいたことがある。人が暮らす場所には、必ず「光るもの」があるということ。川や海も光るが、もっと鮮烈に光るものと一緒に人は暮らしているということだ。昔は土蔵の白壁だったり屋根瓦だったり、いまではビルの窓ガラスや車のボディだったりするわけで、地上ではさして気にもとめないでいる「光るもの」が、高い山なる「天界」から見ればまことに鮮やかに写るのである。となれば、あの世には「光るもの」などない理屈だと、妙なことまで思ってしまった。『山嶽』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


August 2482002

 仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身

                           中村草田男

語は「爽(さわ)やか」で秋。天高し。「仔馬」が飛び跳ねるようにして、牧場を駆け回っている。加減などせずに、全力で遊んでいる様子は、いかにも爽やかだ。見ていると、脚といい首といい胴といい、全身の筋肉という筋肉が使われているようだ。それを「力のいれ処(ど)ばかりの身」と押さえたことにより、躍動する仔馬の存在が生き生きとクローズアップされた。涼しそうな爽やかさではなく、汗を感じながらの爽快感が詠まれている。いかにも、力感のこもった草田男らしい表現と言うべきか。ところで、同じ馬の爽やかさを詠んだ句でも、山口誓子の「爽やかやたてがみを振り尾をさばき」は対照的だ。こちらは大人の馬だから、動作に落ち着きがある。もはや仔馬時代のように無駄な筋力を使うこともなく、悠々と闊歩している。競馬場のサブレッドか、乗馬用に飼育されている馬だろう。その汗一つ感じさせない洗練された動きが、ことに「尾をさばき」から伝わってくる。なるほど、爽やかな印象だ。かつての私の身近には、農耕馬しかいなかった。彼らはいつもくたびれた様子で首を垂れており、お世辞にも爽やかさを感じたことはない。でも、仔馬のときにはきっと草田男句のように元気だったのだろう。そう思うと、やりきれない気分になってくる。両句とも『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)に所載。(清水哲男)


November 11112002

 西へ行く日とは柿山にて別る

                           山口誓子

子の山の句ばかりを集めたアンソロジー『山嶽』(1990・ふらんす堂)の編者後書きに、こうある。「美濃に、富有柿を一山に植え盡した柿山がある。ここの山は日だまりで、十二月に入っても硬質で大粒の柿を樹に成らせる。葉が落ち盡した裸木に赤い美事な実は枯れ一面の中に鮮かである」(松井利彦)。想像しただけで、見事な情景が浮かんでくる。実際に、見てみたくなった。よく晴れた日に、作者が見ているのは午後の遅い時間だろう。句は「別る」と押さえていて、既に日が没し(かかっ)た状態とも読めるが、そうではあるまい。「別る」は、別れることが決まっている切なさをあらかじめ先取りしているのであり、それゆえに眼前の一刻の景色を大切にする気持ちの現われを表現している。なだらかな山の上の数えきれないほどの柿の実に、まだまんべんなく日があたっていて、その朱色がいっそう輝いている時間なのだ。しかし、秋の日はつるべ落とし。間もなく「西へ行く日」とは別れねばならない。そして同時に、この柿山の美しさとも……。なお、深読みに過ぎるかもしれないが、初見のときの私には「日と」が「ひと」とのダブルイメージとなって、染み入ってきた。いずれにせよ、極めて格調の高い名句と言えよう。(清水哲男)


November 13112005

 枯園に向ひて硬きカラア嵌む

                           山口誓子

のところ、にわかに冬めいてきた。紅葉が進み、道に枯葉の転がる音がする。季語は「枯園(かれその)」で冬。草も木も枯れた庭や公園を言う。他の季節よりも淋しいが、冬独特のおもむきもある。作者は窓越しにそんな庭を見ながら、{カラア(collar)}を嵌(は)めている。さびさびとした庭に向かってカラーを嵌めていると、首筋に触れるときの冷たさが既に感じられ、それだけで心持ちがしゃきっとするのである。冬の朝の外出は嫌なものだけれど、カラーにはそんな気持ちを振り払わせる魔力がある。というよりも、カラーを嵌めることで、とにかく出かけねばならぬと心が決まるのだ。その意味では、サラリーマンのネクタイと同じだろう。今日この句を読むまでは、カラーのことなどすっかり忘れていた。小学生から大学のはじめまで、ずうっと学生服で通していたにもかかわらず、である。思い出してみると、とにかく句にあるように「硬い」し、それこそ冬には冷たかった。だが不思議なことに、あんな首かせを何故つけるのかという理由は、まったく知らないでいた。一種のお洒落用なのかな(「ハイカラ」なんて言葉もあることだし……)と思ったことはあり、それも一理あるらしいのだが、なによりもまず襟の汚れを防ぐためのものだと知ったのは、カラーに縁が無くなってからのことだった。最近では、ライトにあたると光るカラーが開発されたらしい。真っ黒な学生服で夜道を歩くとドライバーからはよく見えないので、交通安全用というわけだ。なるほどねえ。カラーも、それなりに進化してるんだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0652006

 汽罐車の煙鋭き夏は来ぬ

                           山口誓子

語は「夏は来ぬ」で「立夏」。暦の上では、今日から夏である。東京辺りの今年の春は、いかにも春らしい日というのが少なかったけれど、ゴールデンウイークに入ってからは今度は一挙に夏めいてきた。まさに「夏は来ぬ」だ。陽光燦々、新緑が目に鮮やか、気持ちの良い風も吹いてくる。そんな立夏の様相を、掲句は「汽罐車(きかんしゃ)の煙」の「鋭さ」に認めている。春のとろりとした大気とは違い、五月初旬のそれは澄み切っている。ために、万物のエッジが鮮明に見えるのだ。だから、同じ汽罐車の煙でも、輪郭がはっきりしていて鋭く感じられる。自然の景物に夏らしさを認めるのは普通のことだから、この発想はとても新鮮であり、しかも無理がないところに作者の腕前が発揮されている。それにしても当たり前のことながら、こうした情景に接しなくなって久しくなった。たまにテレビなどの映像で見ることはあっても、やはり実際の鉄路を驀進する黒い巨体の迫力には遠く及ばない。それに映像には匂いがないので、あの汽罐車の煙独特の煤煙の匂いが嗅げないのも残念だ。あの匂いが流れてくると、なにやら頭の中がキーンとなったものだ。掲句からそうした匂いまでをも自然に思い起こせる人たちは、もはやみな還暦を越えてしまった。すなわち世の中にとっては、去り行くものは日々にうとしということになる。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2582006

 一夏の詩稿を浪に棄つべきか

                           山口誓子

分の書いたものがいまだかつて無かった高みに届いていると思い込むときがある。とくに疲れている日の深夜などは危ない。朝起きると作品にもう昨夜感じた輝きは失せている。そういう錯覚はともかく、詩人はときに昂然と自らへの詩神の到来を信じて詩作に没頭し、その結果産み出したものについて、ときに深く絶望する。いわば躁と鬱の両方を創作過程の中で体験するのである。中村草田男の「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」はまさに躁。夏の訪れとともに身体から毒を排出して詩作に没頭し、多産するのだ。悪魔も裸足で退散するような勢いである。そして、やがて、夏の終りとともに自己否定の鬱がやってくる。多産した詩の中の一篇ですら自分にとって価値を感じられるものがない。それらを全部まとめて浪に向って放り投げたくなる。二句並べてみると詩人というものの心の抑揚がよくわかる。『七曜』(1942)所収。(今井 聖)


December 14122006

 雌の熊の皮やさしけれ雄とあれば

                           山口誓子

の頃は山に食べ物がないせいか里に降りてきた熊が人と出くわす事件がよく起きている。冬のあいだ雄熊はおおかた眠っているが、雌熊は冬ごもる間に子を産み育てるらしい。驚かさないかぎり人を襲うことは稀なようだが、穴に入る前の飢えた熊は要注意と聞く。この句の前書きに「啼魚庵」とある。浅井啼魚は妻波津女の父。大阪の実業家で、ホトトギス同人でもあった。その家に敷き延べられている二枚の熊の毛皮。それだけで見れば恐ろしげな雌(め)の熊の皮ではあるが、並べ置かれた雄(お)の皮よりひとまわり小ぶりで黒々とした剛毛すら柔らかく思える。雌雄一対にあってそれぞれの属性が際立つ。そう見れば毛皮にされてなお雄に寄り添うかのような雌の様子が可憐で哀れである。雌熊の皮を「やさしけれ」と表現する誓子の眼差しにしみるような情感が感じられる。義父宅を前書きに置いたのは、雌雄の熊の皮に新婚の妻と自分の姿を重ね合わせているからだろう。家庭的に不幸な幼少期を過ごした誓子が妻に抱くなみなみならぬ愛情が伝わってくる。即物非情・知的構成と冷ややかさが強調されがちな誓子ではあるが、その底にこのような叙情が湛えられていたからこそ、多くの俳人の心を惹きつけたのだと思う。『凍港』(1932)所収。(三宅やよい)


June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 0172007

 扇風機大き翼をやすめたり

                           山口誓子

はどの家にもあった扇風機の姿を、最近はそれほどには見かけなくなりました。エアコンの便利さは理解するものの、目の前で必死に風を送り続ける扇風機の姿には、それなりに愛着を抱きます。風の向きを変えるためにひたすら首を振り続ける様子も、どこかかわいらしく、生き物に喩えられるのも分かるような気がします。掲句の扇風機は、そういった畳の上に置かれる式のものではなく、天井からぶら下がっている天井扇と呼ばれるもののようです。鳥が翼を休めているようだと言っています。優雅な姿を連想させるものとして喩えられています。上空から滑空してきて、静かに地上に降り、羽を休めている様子がはっきりと想像されます。「大き」という形容が、鳥にも扇風機にもぴたりと当てはまっています。まさに大きな「空」が、句を包みこんでいるようです。涼しさを送り続けたのちにスイッチを切られ、やっと羽をのびのびと休ませてほっとしている様子が、たしかに命ある物のように感じられます。言われてみればなるほどという比喩です。風を送り届ける機械にまで及んでいる作者の優しさが、句にも生命を与えています。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


July 0672007

 落蝉の眉間や昔見しごとく

                           山口誓子

ちて転がっている蝉を拾い、その眉間(みけん)に見入る。ああ、昔見たようだとふと思う。そういう句だ。「見し」ではなくて「見しごとく」なので、はっきり記憶にあるわけではない。見たような感じがするということ。この句を郷愁の句ととることも出来る。蝉捕りをした頃の「昔」の回想。それにしても、蝉の眼と眼の間の距離、色彩、形状。どこにも従来の郷愁的、俳句的情緒のかけらもない。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな」あたりが一般的抒情のお手本になったからみんな花鳥風月の桜や鶯や風や月の抒情を利用して回顧のシーンや心情に移行するわけだ。ここにはその「典型」がない。日常の瞬間の即物的風景を入口にして、そこから個人的体験へ入っていく。僕はこの句に既視感(デジャ・ブ)をみる。死んだ蝉の眉間にぐんぐん接近するにつれて、カメラは存在の不安ともいうべきものを映し出す。「昔見たような感じ」から「自分がここにこうして在る不思議」へと至るのだ。このカメラワークには世界のクロサワもかなわない。俳句形式でなければ描けない固有の衝撃力がここにはある。存在の不安は即物非情と称せられる誓子作品に一貫しているものであって、それは子規が発案したときに「写生」という方法がもともと持っていた最大の特徴というふうに僕は思うのだが。『遠星』(1947)所収。(今井 聖)


October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


December 15122007

 一心の時ゑくぼ出て毛糸編む

                           井上哲王

時記の、毛糸編む、の項を見ると、〈こころ吾とあらず毛糸の編目を読む〉〈毛糸編はじまり妻の黙はじまる〉前者が山口誓子、後者が加藤楸邨。いずれも、毛糸を編むことにのみ集中している妻の姿が詠まれている。続いて、戸川稲村の〈祈りにも似し静けさや毛糸編む〉。編み棒を動かしながら、一目一目編んでいる姿、美しい横顔が浮かんでくる。毛糸編む、は、冬のぬくもりを感じさせる季節の言葉である。掲句は、前後の句から推して、生まれてくる我が子のために編み物をしている妻を詠んだものと思われる。一心に編む妻の頬か口元か、えくぼが見える。笑窪、なので、笑った時にできるのは当然だが、確かに、キュッと口元に力が入った時にもできる。一心の時ゑくぼ出て、という叙し方に、言葉が思わず口をついて出てしまった、という感じがあり、客観的に対象を見ている前出の三句とは、また違ったほほえましさのある一句となっている。ちなみに、この句に目がとまって、えくぼか、と思い検索してみると、最初に「えくぼは簡単に作れる!費用は20万円」と出て、少々驚いた。靨、という漢字も初めて知ったが、厭な面?と思ったらそうではなく、厭(押す、押さえる)とあり、なるほどそういうことかと。「石見」(1997)所収。(今井肖子)


August 0182008

 泳ぎより歩行に移るその境

                           山口誓子

観写生といわれる方法から従来の俳句的情趣を剥ぎ取ったらどうなるかという実験的な作品。ものをそのまま文字に置き換えて「客観的に写生する」ことの論理的矛盾を嗤い言葉から発する自在なイメージを尊重するようにとの主張から「新興俳句」が出発したが、その「写生」批判は実は、従来の俳句的情趣つまり花鳥諷詠批判が本質だったと僕は思う。俳句モダニストたちの写生蔑視の中には誓子のこんな句は計算外だった。平泳ぎでもクロールでもいい。水の表面を泳いでいる肢がある地点で地につく。その瞬間から歩行が始まる。水中を縦割りにして泳者を横から見ている視点がある。水面は上辺。遠浅の海底が底辺。底辺は陸に向かって斜めに上がりやがて上辺と交わる。そこが陸である。肢は、二辺が作る鋭角の中を上辺に沿って移動し、ある時点で底辺に触れる。こんな「写生」をそれまでに誰が試みたろうか。ここにはまったく新しい現代の情緒が生み出されている。『青銅』(1962)所収。(今井 聖)


October 19102008

 秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし

                           山口誓子

ふは、あまりよくないことに偶然にあうという意味です。ということは、作者は駅のホームにいたのではなく、どこか街中の引込み線か、金網越しの操車場に向かって歩いていたのでしょうか。夜中にうつむいて、とぼとぼと歩いていたら、突然目の前に機関車がわっと現れた、というのです。それも、本来はいくつもつながっているはずの車輛が、見えません。なにかに断ち切られたようにして、機関車だけがそこにぽつんと置かれてあります。読むものとしては、どうしても機関車を擬人化し、引き離された孤独を感じてしまいます。またその孤独は、操車場近くの暗い道を歩く作者の内面から出たものとして、読み取ろうとしてしまいます。しかし、多くの車両を引くために、日々力強く走る機関車を、家族のために働き続ける世のお父さんやお母さんの姿とダブらせてしまうのは、作者の意図するところではないのでしょう。読み返すほどに、なにげなく置かれた「つづく」の見事な一語が、身にせまる孤独感をさらに増しているように感じられます。『俳句の世界』(1995・講談社)所載。(松下育男)


October 27102008

 紐解かれ枯野の犬になりたくなし

                           榮 猿丸

んだ途端にアッと思った。この句は今年度角川俳句賞の候補になった「とほくなる」五十句中の一句。選評で正木ゆう子も言っているように、山口誓子に「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」がある。揚句がこの句を踏まえているのかどうかは知らないが、私がアッと思ったのは、人間はもとより、犬のありようもまた誓子のころとは劇的に変わっていることを、この句が教えてくれたからである。そう言われれば、そうなのだ。昔の犬は紐を解かれれば、喜んで遠くに駈け出していってしまったものだ。だがいまどきの犬は、人間に保護されることに慣れてしまっていて、誓子の犬のようには自由を喜ばず、むしろ自由を不安に感じるようだと、作者は言っている。犬に聞いてみたわけではないけれど、作者にはそんなふうに思われるということだ。それだけの句と言えばそれまでだが、しかし私には同時に、作者の俳句一般に対する大いなる皮肉も感じられる。つまり、俳句の犬はいつまでも誓子の犬のように詠まれており、実態とは大きくかけ離れていることに気がついていない。むろんこのことは犬に限らず、肝心の人間についても同様だと、作者は悲観しつつもちょっと犬を借りてきて批判しているのだと思う。たとえ作者に明確な批判の意識はないのだとしても、この句はそういうところにつながっていく。今後とも、この作者には注目していきたい。「俳句」(2008年11月号)所載。(清水哲男)


December 14122008

 スケートの紐むすぶ間もはやりつゝ

                           山口誓子

ころときめくものが、まだそれほどになかった時代。パソコンも、携帯電話も、ファミコンも存在しなかったわたしの中学生時代は、遊びの種類も限られていました。せいぜいボウリングや、クラスの仲間で行ったアイススケートは、それだけに特別な思い出として、よく覚えています。あるとき、クラスの男女20数人でスケート場に行って、無断で担任の先生の名を責任者として申し込み、団体割引で入ったことがありました。のちに先生に、そのことをこっぴどく叱られたことを、40年経った今でも思い出します。天井の高いスケート場は、場内に入ったとたんに、別の世界に迷いこんでしまったかのように明るく、多くの人の熱気に満ちていました。貧しい生活の、とくにこれといって華やかなことのない日常にとっては、かけがえのない晴れやかな体験でした。めったに履くことのないスケート靴は、不慣れなために、なかなかうまく紐が結べません。友は一人二人と先に靴をはき、細いエッジにふらつきながらも、すでに氷へ向かって歩いてゆきます。自分もはやくそうしたいというあせった思いの向く先は、自分の未来そのものだったのかもしれません。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


January 2912009

 探梅や遠き昔の汽車にのり

                           山口誓子

ろそろ暖かい地方では梅が開き始める時期だろうか。浅ましくも「開花情報」をネットで検索してから出かけるのでは「探梅」の心には遠く、かと言ってこの寒さにあてなく野山をさすらう気持ちにはなかなかなれない。昭和49年に鉄道が無煙化して以来、汽車は観光のための見世物になってしまった。汽車が生活の交通手段にあり、会話の中でも汽車と電車を使い分けていたのは私たちの世代が最後かもしれない。「遠き昔の汽車」とは、むかし乗ったのと同じ型式の汽車にたまたま乗り合わせたという意味だろうか。そればかりでなく鳴響く汽笛に心をはずませた幼い頃の気分が甘酸っぱく甦ってきたのかもしれない。探梅は冬の寒さ厳しき折に先駆けて咲く梅を見つけにゆく旅。「遠き」が時間と距離の双方にかかり郷愁と同時に春を探しに行く未知の明るさを句に宿している。硬質な知的構成がとかく強調される誓子だが、この句にはみずみずしい叙情が感じられる。『凍港』(1932)所収。(三宅やよい)


January 2912010

 降り切つて雪のあけぼのおのづから

                           蝦名石藏

雪の地の感慨が出ている。雪がこれでもかと連日降り続いてようやく止む。まさに「おのづから」止む体である。そして朝日が顔を出す。冬来りなば春遠からじ。朝の来ない夜はない。人生の寓意の類にどこかで転じていく働きもある。「氷結の上上雪の降り積もる」山口誓子はこの自作の色紙を企業経営者などに請われることが多いと自解に書いていた。ちりも積もれば山となるを肝に銘ぜよと社員に示すためだろう。そういう鑑賞が悪いとか良いとかいうのは当たらない。ただ、現実描写、即物把握の意図があってこその、結果としての寓意だとこういう句を見て思う。『遠望』(2009)所収。(今井 聖)


February 1422010

 春の日やポストのペンキ地まで塗る

                           山口誓子

の句に詠まれているポストは、スタイルのよい最近の一本足のものではなく、ずんぐりむっくりとしていて、厚い石でできた昔ながらのものなのでしょう。ドカンと地面に設置されたポストの、頭のほうから真っ赤なペンキを塗り始めたのでしょうが、下の方まで塗っているうちに、うっかり地面まで赤く塗ってしまったというわけです。作者は、塗っている作業を隣で見ていたというよりも、夕方の散歩の折にでも、通りすがりに新しいポストを見つけ、ペンキが恥ずかしそうにはみ出しているのを見つけたのです。そんなことだってあるさ、人間、そんなにきっちりとしなくてもいいじゃないかと、春の陽気が肩をたたいてくれているようです。私の年齢では、この句は、どこか吉田拓郎の「♪もうすぐ春が/ペンキを肩に/お花畑の中を/散歩に来るよ♪」という歌を思い出させてくれます。あたたかな陽気に、心まではみ出してしまっているような、そんな気分になります。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


February 1922010

 親雀巣を出て遠く志す

                           山口誓子

子の句は句の立姿が美しい。僕にはそう見える。どんなにきちんと音律が整っていても類型的な情緒が盛られていては、ああ、また諷詠ですか、古いモダンですかと思ってしまう。作者としてのあなたはほんとうにそれで新しい自分がその一句に刻印されていると思うのですかと読者としての僕が問うとき誓子の句の多くはこれが私の考えている俳句ですと返してくれる。僕はそれに納得がいき、その返答を誓子の型の中にみる。そのとき美しいと思うのだ。親雀は子育ての本能からか、餌を求めて遠くまで行動範囲を広げる。校庭のような広いところでいつも餌をやっているとわかる。パン屑を咥えては巣のある一定方向にとび、しばらくしてまた帰ってくる。子育てのときの距離が長いのは、同じ雀が帰ってくる時間でわかる。見える事柄の「写生」から入って、次に妻子をもってこそ一人前だというような寓意に入る。最初から寓意や批評性を意図する作品と、結果的に寓意に到る作品。その順序は俳人の品位と才能にかかっている。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)


September 1792010

 秋の夜のラジオの長き黙つづく

                           山口誓子

んな句を昭和19年に作ることができた誓子の頭の中はどういうことになっていたのか。型の上のホトトギス調はない。ここには文語か口語かの識別の表現はない。季語はあるが秋の夜の定番情緒がテーマに置かれているわけではない。いわゆる従来の俳句的情緒も皆無。それでいて昭和初期の現代詩を模倣したモダニズムもない。ベレー帽などかぶったモボ、モガのダンディズムが見られない。ここで見出されている「詩」は完全に誓子が初めて俳句にもたらしたものだ。新しいポエジーなのに難解さは無い。ああ、こんなことが俳句で言えたのだと、言われてみると簡単なことのように思える。誰も出来なかった「簡単」なこと。まさしく当時の俳句の最前線に立った誓子のポエジーは今でも最前線のままだ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


March 0432011

 うしろより見る春水の去りゆくを

                           山口誓子

人法は喩えるものと喩えられる人の様子があまり解かりやす過ぎると俗に落ちる。春の水に前も後ろもなく、形もないから、この句の強引さが生き生きと擬人法を支える。俗に落ちないのだ。うしろより、で作者の歩く速さが見える。「を」で余韻が強調される。「冬樹伐る倒れむとしてなほ立つを」と同じ誓子自身のリズム。こういうのを春水の本意というのだろうか。違うと思う。これは季節感を作者の方へ近づけた「詩」そのもの。『晩刻』(1947)所収。(今井 聖)


March 3032011

 初燕一筆書きで巣にもどる

                           岡田芳べえ

西日本で越冬する燕もいるけれど、春の彼岸頃に南からやってくる燕は、待ちに待った春の到来を強く感じさせる。「燕」「燕来る」「初燕」……いずれも春の季語であり、夏は「夏燕」、秋には「燕帰る」となる。かの佐々木小次郎の「燕返し」ではないが、勢いよく迅速に飛ぶ燕の様子は、まさしく鮮やかな「一筆書き」そのものである。掲句は、一筆書きの筆勢によってダイナミックに決まった。これから巣を整えて子づくりの準備に入るのだろう。燕は軒や梁に巣をつくるが、それは縁起のいいものとして歓迎される。山口誓子には「この家に福あり燕巣をつくる」という句がある。子どもの頃、苗代づくりを控えた時季に、広い田園地帯で遊んでいると、燕がいかにも気持ち良さそうにスーイ、スーイと高く低く飛び交っているのに出くわして、面食らったりしたものだ。同時に、気持ちが晴れ晴れと昂揚してくるのを覚えた。凡兆には「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」という、いかにも往時の上方の街あたりを想わせる一句がある。『毬音』2(2008)所載。(八木忠栄)


April 2942011

 やさしさは宙下りかゝる揚羽蝶

                           山口誓子

さしさというものは高みから下降にさしかかったときの揚羽蝶のようなものだという直喩。下降のときの羽の感じや姿態や速度、それらが「やさしさ」そのものだと言っている。同じ作者に「やさしさは殻透くばかり蝸牛」がある。誓子考案の型である。どっちがいいかな。甲乙つけがたい。二句とも小さな生き物に対する愛情に満ちている。それでいて季節の本意を狙った「らしさ」はどこにもない。類型感はまったく無いのだ。構成の誓子と言われる。即物非情とも言われる誓子にはこんな情の句もある。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)


August 1282011

 吾家の燈誰か月下に見て過ぎし

                           山口誓子

者の位置はどこに在るのだろう。自分が家の中に居るとすれば、外の闇の中を過ぎる人影が視認できたとしてもその人が自分の家の中の燈を見たとまでは断定できぬであろう。自分が外に居て第三者が「吾家」の燈を見ているところを目撃したとするなら燈と通りかかった人と自分の位置関係ははっきりするが、自分が自分の家の燈を外から客観的に見ているのも変な状況である。そんなことを考えているうちにこの句は過ぎしのあとに「か」を補ってする鑑賞がいいのではないかと思い到る。吾家の燈誰か月下に見て過ぎしかというふうに。夜の道を行き交う人が、「私」の居る家の燈を見て過ぎたであろうと思っている。留まるものつまり今ここに存在する「吾」の前を過ぎていく諸人がいる。優れた句は日常を描いて寓意に到る。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


October 21102011

 俯きて鳴く蟋蟀のこと思ふ

                           山口誓子

わゆる俳句的情緒を諷詠する精神に欠けているのは自分を見つめる態度がおろそかになること。悲しいだのうれしいだのきれいだの、そんな形容が俳句にタブーであることの理由はよくわかる。観念的、主観的、説明的な語句が如何に饒舌で、この短詩形に不適合であるかも納得がいく。しかし、だからといって諷詠する「私」自身への内省を怠ってはいけない。それは表現の根幹に関ることだ。蟋蟀を聞いている。鳴いている蟋蟀が俯いていると思うのは自己投影だ。こういう内省があって、そこに個人も時代も映し出される。今では技術的なオチとして、あるいはちょっとしたダンディズムのように語られる風狂だの洒脱だの飄逸だのという精神も、本来は捨身の生き方から生まれたのではなかったか。「俯きて」が俳句という詩の核心だ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


October 23102011

 踏切の燈にあつまれる秋の雨

                           山口誓子

あ寒いなと、秋が終わってしまうことを感じたのは、雨の日の夜でした。ついこないだまで暑くてしかたがなかったのに、もう冬になってしまうのかと、なんだか寂しい気持ちになります。突然の雨に傘の用意もなく、濡れながら帰宅を急いでいます。明日やるべき仕事のことなどを考えながら、踏切が開くのを待っています。顔をあげてみれば、踏切の光の中を、雨がしきりに降りつのっています。今日の句、「あつまれる」というのは、なるほどうまい表現です。うまい表現だということが、はっきりと前面に出ているのに、特段嫌味な感じがしないのは、そのうまさが中途半端ではないからなのでしょう。踏切が開いて足早に渡ってゆきます。自分が集まるべき、燈の下へ向かって。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


March 2332012

 雪すべてやみて宙より一二片

                           山口誓子

空を思う。昼だと日差しで雪が溶けるイメージがあるから。すべて止んだのにどうして一二片降りてくるのか。これは空から降ってくる雪ではない。完全に雪が止んだあとのしずかさの中、高みに積った粉雪が風のせいなどで自然に落ちて来るのだ。すべて止んだあと降りてくる雪、そんな難しいところをどうしてこんなに平明に詠めるのだろう。僕など同じ発想をしたらおそらく苦しまぎれに季語「風花」を用いるような気がする。風花は空から降ってくる雪だから趣旨が違うのに。そもそも止んだあとに落ちて来る雪なんて難しいところは諦めるしかないのだ。細かいことだが、一二片も最近の俳人は使えない。一、二片と書くだろう。じゅうにへんと誤読されるのが恐いからだ。読者が信頼できなくなっているということと自分と向き合うモノローグ性が弱くなって他者による理解を優先させる考え方が強くなっているからだ。だから「、」を多用したり名詞を並べるときに「・」を用いたりする。「、」も「・」も俳句の立姿を損ねる。読者を信頼するということと自分に向き合うこと。これは矛盾しない。『青女』(1950)所収。(今井 聖)


June 2962012

 流れに沿うて歩いてとまる

                           尾崎放哉

々に沿って歩いてきました、または歩いていきました、くらいが大方の詩想。凡庸な作家はここまでだ。「とまる」が言えない。行きにけり、歩きけり、流れけり。みんな流して終る。「春水と行くを止むれば流れ去る」誓子の句の行くの主語は我、流れ去るのは春水。二者の動きを説明した誓子に対して放哉は我の動きを言うだけで水の動きも言外に出している。放哉の方が上だな。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


August 2482012

 蠅の舌強くしてわが牛乳を舐む

                           山口誓子

あ、やっぱり誓子だなあ。誓子作品についてよく言われる即物非情の非情とは、これまで「もの」が負ってきたロマンを一度元に戻すことだ。蝶は美しい。蛾は汚い。黒揚羽は不吉。ぼうふらは汚い。蠅は汚い。みんな一度リセットできるか。それが写生ということだと誓子は言っている。子規が言い出して茂吉もそう実践している。生きとし生けるものすべてに優しさをとかそんなことじゃない。「もの」をまだ名付けられる前の姿に戻してまっさらな目でみられるか。この「強くして」がいいなあ。「生」そのものだ。『戦後俳句論争史』(1968)所載。(今井 聖)


May 2452013

 「観入」を説きて熱砂に指を挿し

                           山口誓子

相観入とはどういうことか。この用語の発案者斎藤茂吉自身であろうとなかろうとどちらでもいいが誰かがその説明をしていて熱砂に指を差し込んだ。実相観入とは子規提唱の「写生」をその筆頭信奉者である茂吉が解釈したもので、視覚的な対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を「写生」の本義とした短歌理論。当時は俳人も多くがこの理論に影響された。見えるものの中に自己を没入させる。その没入の説明がこの指先になるのであろう。一句「ひねる」という俳諧風流の俗の残滓から文学性を拾い上げようとする当時の俳人たちのエネルギーが伝わってくる。『構橋』(1953)所収。(今井 聖)


January 2412016

 雪の肌なめらか富士は女体なり

                           山口誓子

年、初詣に富士を拝みます。今年の正月は雪不足のため、富士の山容には黒い縦の筋が幾つか通っていました。その姿はどこか険があって厳しいものでしたが、先週の降雪によって、富士は白い美肌美人になりました。作者同様、私もそんな富士に女体を見ます。富士は万葉集に詠まれ、竹取物語に描かれて、上代から日本人に親しまれてきましたが、信仰の対象としての富士は上代をはるかに遡った時代に起源があると思われ、神話では「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」という美しい娘とされて います。作者はこれを踏まえ、この民族的な擬人化をごく自然な写生句のように仕立てています。ところで、たをやめぶりの富士に対してますらをぶりの富士はないかといえば、太宰治「富嶽百景」で、御坂峠の茶屋の二階から、自動車五台で年一度の旅行に連れて来られている遊女の一団を見ている太宰がそれを見ていられなくなり、「そうだ、、富士に頼もう、、おい、、こいつらをよろしく頼むぜ、、その時の富士はどてらを着た大親分のようにさえ見えた」という一節がありました。この大親分は、男気がありなおかつ苦界に生きる女のあわれに身を重ねられる、そんな義侠でしょう。女神にも、任侠にもなれる富士こそ景勝です。『山口誓子集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)




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