黛まどかの句

August 0181996

 旅終へてよりB面の夏休

                           黛まどか

でつくった句の典型。下手な句ではないが、この程度の発見で満足してもらっては困る。この国の詩歌が困ってしまう。いかにも、イマジネーションがひ弱いのだ。しかし、平成俳句の一断面として、記録しておく価値はあるだろう。作者について、同性の中野翠が「サンデー毎日」(6月9日号)で書いている。「……女だっていうことにそんなに甘えちゃいけない気がする。おじさんたちの純情にそんなにつけこんじゃあいけないような気がする」。『B面の夏』(1994)所収。(清水哲男)


September 1391998

 観覧車より東京の竹の春

                           黛まどか

は秋になると青々と枝葉を茂らせる。この状態が「竹の春」。作者によれば、この観覧車は向丘遊園のそれだそうだが、そこからこのように竹林が見えるとなると、一度行ってみたい気になった。最近の東京では、郊外でもなかなか竹林にはお目にかかれない。竹は心地よい。元来が草の仲間だから、木には感じられない清潔な雰囲気がある。木には欲があるが、竹にはない。観覧車から見える竹林には、おそらく草原ないしは草叢に似た趣きがあるだろう。作者の責任ではないにしても、せっかくの「東京の竹の春」なのだから、こんなに簡単に突き放すのではなくて、もう少しどのように見えたかを伝えてほしかった。「竹の春」という季語に、よりかかり過ぎているのが残念だ。惜しい句だ。ところで、世界でいちばん有名な観覧車といえば、映画『第三の男』に出てきたウィーンの遊園地の大観覧車だろう。今でもあるそうだが、実際に見たことはない。男同士で観覧車に乗るという発想の奇抜さもさることながら、あの観覧車自体が持っている哀しげな表情を気に入っている。映画のストーリーとは無関係に、ウィーンの観覧車は、どんな遊園地にもつきまとう「宴の哀しみ」を象徴しているように思える。あれに乗ると、何が見えるのだろうか。誰か、俳句に詠んでいないだろうか。『恋する俳句』(1998)所収。(清水哲男)


October 09102006

 虫の夜の寄り添ふものに手暗がり

                           黛まどか

句で「虫」と言えば秋に鳴く虫のことだが、草むらですだく虫たちを指し、蝉などは除外する。そろそろ肌寒さを覚えるようになった頃の秋の夜、ひとり自室で虫の音を聞いていると、故知れぬ寂しい感情に襲われることがある。しょせん、人はひとりぼっち‥‥。そんな思いにとらわれてしまうのも、そうした夜のひとときだ。無性に人恋しくなったりして、そのことがまた寂しさを募らせる。この寂しい気持ちを癒すために、何かに寄り添いたい、いや何かに寄り添ってもらいたい。自然にわいてくるこの感情のなかで、作者はふと自分の手元に視線をやった。最前まで本をよんでいたのか、書き物でもしていたのか。手元をみつめると、そこに「手暗がり」ができている。読書や書き物に手暗がりはうっとうしい限りだけれど、いまの作者の寂しい感情はそれすらをも、自分に寄り添ってくれているものとして、いとおしく感じられたということである。形容矛盾かもしれないが、このときに作者が感じたのは、心地よい寂寥感とでも言うべき心持ちだ。この種のセンチメンタリズムの奥にあるのは、おそらく自己愛であろうから、一歩間違えると大甘な句になってしまう。そこを作者は巧みに避けて、その心持ちを小さな手暗がりにのみ投影させたことにより、読者とともに心地よい寂寥感を共有することになった。『忘れ貝』(2006)所収。(清水哲男)


December 18122007

 かまいたち鉄棒に巻く落とし物

                           黛まどか

会的センスを求められがちな作者だが、何気ない写生句にも大きな魅力がある。通学路や公園の落とし物は、目の高さあたりのなにかに結ばれて、持ち主を待っているものだ。それはまるで公園のところどころに実る果実のように、マフラーや給食袋などがいつとはなく結ばれ、またいつとはなくなくなっている。ひとつふたつと星が出る頃、ぽつんと明かりが灯るように鉄棒に巻かれた落とし物が人の体温を伝え、昼間鉄棒にまといついていた子どもたちの残像をひっそりとからみつかせている。また、かまいたち(鎌鼬)とは、なにかの拍子でふいに鎌で切りつけられたような傷ができる現象をいう。傷のわりに出血もしないことから伝承では3匹組の妖怪の仕業などとも言われ、1匹目が突き飛ばし、2匹目が鎌で切り、3匹目が薬を塗る、という用意周到というか、必要以上の迷惑はかけない人情派というか、なんとも可愛らしい。この妖怪じみた気象現象により、夜の公園でかまいたちたちがくるくると遊んでいるような気配も出している。〈春の泥跳んでお使ひ忘れけり〉〈ひとときは掌のなかにある毛糸玉〉『忘れ貝』(2007)所収。(土肥あき子)


February 1422008

 バレンタインデーカクテルは傘さして

                           黛まどか

の子から好きな男の子へチョコを贈るこの日が日本に定着したのはいつからだろう?昭和40年代の後半あたりから菓子売り場にバレンタインコーナーができたように記憶しているが、どうなのだろう。私も一度意を決して片思いの彼にチョコをプレゼントしようとしたけど、手渡す機会がなくて結局自分で食べてしまった。以来バレンタインチョコが売り出されるたび自分のドン臭さが思い出されて少し哀しい。掲句、どこに切れを入れて読むかでいろんな場面が想像される。バレンタインデーカクテルはチョコレートリキュールをベースに作られた甘いカクテル。華やかな洋酒の瓶の並ぶバーのカウンターでカチンとグラスを合わせてバレンタインの夜を楽しんでいる二人、しかしそう考えると「傘さして」がわからない。屋台じゃあるまいし傘をさしながらカクテルを飲むわけはないし、カクテルのストロー飾りに傘がついているのだろうか。それとも洋酒入りのカクテルチョコレートを相合傘の彼に差し出した屋外の情景なのかも。謎めいた名詞の並びが色とりどりのバレンタインシーンを思わせる。今日は寒くなりそうだけど、鞄の底にチョコレートを忍ばせて出かけた女の子たちにとってよい日でありますように。「季語集」岩波新書(2006)所載。(三宅やよい)


April 0142009

 噴水のりちぎに噴けり万愚節

                           久保田万太郎

日は万愚節(四月馬鹿)。今の時季、あちこちの句会ではこの季語を兼題とした夥しい句が量産されているにちがいない。日本各地で“馬鹿”が四月の始まりを覆っていると思うと、いささか愉快ではないか。言うまでもなく、この日はウソをついて人をかついでもよろしいとされる日である。もともと西欧から入ってきた風習であり、April Fool's Day。フランスでは「四月の魚」と呼ぶ。インドが起源だとする説もあるようだが、一般に起源の確証はないそうである。現在の噴水はだいたい、コンピューター操作によって噴き方がプログラミングされているわけだから、勝手気ままに乱れるということなく、きちんと噴きあげている。掲出句は「りちぎ(律儀)」ととらえたところに、万太郎ならではの俳味が加わった。世間は「万愚節」だからといって、春の一日いたずら心のウソで人を惑わせようとくわだて、ひそかにニヤリとしているのに、噴水は昨日も今日も変わることなく水を高々と噴きあげている。万太郎は滑稽な噴水図を作りあげてくれた。人間世界に対する皮肉でもあろう。もっとも、そこいらじゅうに悪質なウソが繁殖してきている今の時代にあっては、万愚節という風習がもつゆとりとユーモアも半減というところか。万愚節を詠んだことのない俳人はいないだろう。「万愚節半日あまし三鬼逝く」(石田波郷)「また同じタイプに夢中万愚節」(黛まどか)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1512016

 可惜夜のわけても月の都鳥

                           黛まどか

惜夜(あたらよ)は明けてしまうのが惜しい夜という意味。余白に恋の一夜を感じさせる。川は大川(隅田川)の波間に岸辺の灯り、雲間には月光が辺りを照らしきらめいている。眠れないのか都鳥が乱舞している。因みに都鳥はユリカモメのこと。冬鳥で河口近くや海岸に生息し、春になると頭が黒くなる。伊勢物語の「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」と昔から恋にからめた鳥として知られる。語りても語り尽せぬ二人の夜が更けてゆく。月よ都鳥よ値千金の今宵の時を止めてくれ。可惜夜は可惜夜ゆえに尊さがあるのだが。他に<行きたい方へそれからのしゃぼん玉><さくらさくらもらふとすればのどぼとけ><さうしなければ凍蝶になりさうで>など所載。『忘れ貝』(2006)所収。(藤嶋 務)




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