July 291996
月下美人膾になつて了ひけり
阿波野青畝
咲いたときには、大騒ぎされる月下美人。私も、深夜連絡を受けてカメラ片手に見に行ったことがある。その花も、一夜明ければ膾(なます)となる。食べた人によれば、美味とはいえないそうだ。あるいはこの句、人間の美女にかけてあるのかもしれない。だとすれば、作者は相当に意地が悪い。『俳句年鑑・平成五年版』(角川書店)所収。(清水哲男)
October 151996
秋の灯のテールランプが地に満てり
阿波野青畝
青畝は関西の人だから、ここは大阪の繁華街か、それとも神戸か西宮の街か。夜ともなると、道路は仕事がえりの車や客待ちのタクシーなどでごった返す。降り続いていた雨も、ようやくあがった。雨に洗われた夜気のなか、そうした車のテールランプが道路の水たまりにも反射して、ことのほかぎっしりと目に鮮やかだ。立ち止って見つめるという光景ではないが、まぎれもなく現代人に共通の情が述べられている。さりげなく、しかし鋭い感覚に感嘆させられる。『甲子園』所収。(清水哲男)
January 201997
居酒屋の灯に佇める雪だるま
阿波野青畝
繁華街に近い裏小路の光景だろうか。とある居酒屋の前で、雪だるまが人待ち顔にたたずんでいる。昼間の雪かきのついでに、この店の主人がつくったのだろう。一度ものぞいたことのない店ではあるが、なんとなく主人の人柄が感じられて、微笑がこぼれてくる。雪だるまをこしらえた人はもちろんだけれど、その雪だるまを見て、こういう句をつくる俳人も、きっといい人にちがいないと思う。読後、ちょっとハッピーな気分になった。『春の鳶』所収。(清水哲男)
May 241997
襖除り杜鵑花あかりに圧されけり
阿波野青畝
すっと読み下せた人は、なかなかの漢字通です。「ふすまとりさつきあかりにおされけり」と読む。大勢の客を迎える準備だろうか。部屋をブチ抜きにするために、襖を外したところ、杜鵑花(さつき)が満開の庭の明るい光がどっと入ってきて、思わず気圧されてしまったという構図。いかにも初夏らしい気分を的確にとらえた、見事な作品である。杜鵑花は「つつじ」の親戚だが、陰暦の五月に咲くので「さつき」となった。ところで、今週あたりから来月上旬にかけて、各地で「さつき展」が開かれる。今年は、桜からはじまって一般的に開花が早いので、あまり盛り上がらないのではないかと、これは関係者の話。(清水哲男)
June 111997
箸先に雨気孕みけり鮎の宿
岸田稚魚
鮎料理を出す宿とも読めるが、あまり面白くない。「孕(はら)みけり」のダイナミズムを採って、私は鮎釣りが解禁になる前夜の宿での句と読む。明日は、まだ暗いうちから起きだして、みんな川へと急ぐ。夕餉の膳を前に仲間達と鮎談義に花が咲くなかで、箸先にはかすかににじむように雨の気配が来ている。経験に照らして、こういうときにはよく釣れる。そう思うと、明日の釣りへの期待と興奮が静かにわいてこようというものだ。箸先を竿の先に擬する微妙な照合に注目。ところで、作者の成果はどうだったろうか。まったくの坊主(「釣れない」という意味の符牒)となると、もういけない。「激流を鮎の竿にて撫でてをり」(阿波野青畝)ということにもなってしまう。(清水哲男)
August 171997
遠花火この家を出し姉妹
阿波野青畝
そろそろ花火の季節もおしまいである。そんな時期の遠い花火だから、なんとなく寂しい気持ちで、見るともなく見ている。無音の弱々しい光の明滅が、かえって心にしみる。そういえば、この家から出ていった姉妹(あねいもと)は、他郷の空の下でどんな暮らしをしているのだろう。客の作者は家の人には問わず、その消息をただ遠い花火のように思うのである。日常生活のなかで、誰しもが感じるふとした哀感。芝居がかる一歩手前で踏み止まっている。『紅葉の賀』所収。(清水哲男)
September 291997
伐竹をまたぎかねたる尼と逢ふ
阿波野青畝
昔から「竹八月に木六月」といって、陰暦八月頃は竹伐採の好季である。山道では道路交通法など関係がないから、とりあえず伐り出した竹はそこらへんの道端に放り出しておく。そこへ裾長の衣の尼さんが通りかかると、どうなるか。枝葉のついた大きな竹だから、またぐにまたげず立ち往生ということになる。放り出した人は山に入ったままなので、どうにもならない。そんな尼僧と会ったというのだが、このあと作者はどうしたのだろうか。そちらのほうが気になってしまう句だ。人気(ひとけ)の少ない山里での情景だけに、困惑している尼僧の姿が妙になまめかしく感じられる。(清水哲男)
April 291998
やまざくら一樹を涛とする入江
安東次男
ひっそりとした入江に、一本の山桜の姿が写っている。あまりにも静かな水面なので、涛(なみ)がないようにも見えるのだが、山桜の影の揺れている様子から、やはり小さな涛があると知れるのである。いかにもこの人らしい、いわば完璧な名調子。文句のつけようもないほどに美しい句だ。すでにして古典の趣きすら感じられる。「俳諧」というよりも「俳芸」の冴えというべきか。そこへいくと同じ山桜でも、阿波野青畝に「山又山山桜又山桜」というにぎやかな句があり、こちらはもう「俳諧」のノリというしかない世界である。次男の静謐を取るか、青畝の饒舌を取るか。好みの問題ではあろうけれど、なかなかの難題だ。ここはひとつ、くだんの山桜自身に解いてもらいたいものである。『花筧』(1991)所収。(清水哲男)
September 221998
きぬぎぬの灯冷やかに松江かな
阿波野青畝
よくはわからないが、忘れることもできない句だ。わからない原因は「きぬぎぬ」にある。「きぬぎぬ」の意味は「男女が互いに衣を重ねて共寝した翌朝、別れるときに身につける、それぞれの衣服」のこと。あるいは、その朝の別れのことも言う。要するに艶っぽいシチュエーションで使われてきた一種の雅語であるが、さて「きぬぎぬの灯」とは、いったい何だろうか。何通りもの解釈の末に、私がたどりついた一応の結論は、しごく平凡なものだった。すなわち、「別れるときに身につける、それぞれの衣服」のように思える冷ややかな「灯」ということである。したがって、単に冷たい灯というのではなく、この「冷やか」にはどこか人肌のぬくもりがうっすらと残っているような、そんな冷たさなのだと思う。このとき、作者に具体的な色模様があったわけではない。「灯」は、ネオンのそれだろう。秋の松江には、一度だけ仕事で行ったことがある。町の中をきれいな川が流れており、たそがれどき、川の水にはネオンの灯が写っていた。その遠い日の情景を思い出しつつの結論となった。『甲子園』(1965)所収。(清水哲男)
May 011999
落葉松の空の濡れをり聖五月
古賀まり子
爽やかな五月の到来だ。……おっと、イケない。「爽やか」は秋の季語だから、俳句愛好者たるものは「清々しい」とでも言い換えなければなるまい。同様の理由から、甲子園球児のプレーを「爽やか」と言うのは間違いだと、さる「ホトトギス」系の俳人が新聞で怒り狂っていたのを読んだことがある。不自由ですねえ、俳人は(笑)。さて、掲句はまことに清々しくも上品な詠みぶりだ。雨上がりか、あるいは霧がかかっているのか。落葉松林の空を仰ぐと、大気はしっとりと濡れており、そこに一条の朝の光がさしこんでいるという光景だろう。たしかに「聖五月」という言葉にふさわしい「聖性」が感じられる。ところで、この「聖五月」という言い方は、阿波野青畝に「聖母の名負ひて五月は来たりけり」とあるように、元来はカトリックの「聖母月」に発している。「マリア月」とも言う。だから、いまでももちろん「聖母」に崇敬の念をこめた句も詠まれてはいるが、おおかたの俳人は掲句のように、宗教とは無縁の感覚で「聖五月」を使っている。それこそ「清々しさ」から来る日本的な「聖性」を表現している。西洋語を換骨奪胎して、別の輝きを与えた季語の成功例の一つだろう。(清水哲男)
June 071999
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首
阿波野青畝
季語は「蛇」で夏。鳳凰堂は宇治平等院の有名な伽藍である。十円玉の裏にも刻んであるので、見たことがない読者はそちらを参照してください。前池をはさんで鳳凰堂を眺めていた作者の目に、突然水のゆれる様子がうつった。目をこらすと、伽藍に向かって泳いでいく蛇の首が見えたというのである。この句の良さは、まずは出来事を伏せておいて「水」と「鳳凰堂」から伽藍の優雅なたたずまいを読者に連想させ、後に「蛇の首」と意外性を盛り込んだところにある。たとえ作者と同じ情景を見たとしても、なかなかこのように堂々たる鳳凰堂の姿を残しながら、出来事を詠むことは難しい。無技巧と見えて、実はとても技巧的な作品なのだ。同じ「水」と「鳳凰堂」の句に「水馬鳳凰堂をゆるがせる」(飴山實)がある。前池に写った鳳凰堂の影を、盛んに水馬(あめんぼう)がゆるがせている。こちらは明らかに技巧的な作品だが、少しく理に落ちていて、「蛇の首」ほどのインパクトは感じられない。『春の鳶』(1951)所収。(清水哲男)
November 291999
狐火を伝へ北越雪譜かな
阿波野青畝
鬼火とも呼ばれる「狐火」の正体は、よくわかっていない。冬の夜、遠くに見える原因不明の光のことだ。たぶん死んだ獣の骨が発する燐光の類だろうが、それを昔の人は狐の仕業だとした。よくわからない現象は、とりあえず狐の妖術のせいにして納得していたというわけだ。目撃談はいろいろとあり、なかでも鈴木牧之『北越雪譜』(天保年間の刊行)のそれはリアルなので、今日の辞書の定義には、眉に唾をつけた恰好ながら多く採用されている。「我が目前に視しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙に火のうつるを怪しみ、その隙間より覗きみれば孤雪の掘場の上に在りて口より火をいだす。よくみれば呼息(つくいき)の燃ゆるなり。(中略)おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり。かれが肚中の気に応ずるならん」。口から火を吐いていたのを確かに見たというのであるが、これも理屈をつければ、狐が獣骨を銜えていたのではないかと推察される。いずれにせよ、狐火が見える条件には漆黒の闇が必要だ。句は、牧之の時代の真の闇の深さを思っている。『不勝簪』(1974-1978)所収。(清水哲男)
February 132000
爪に火をともす育ちの老の春
阿波野青畝
青畝、八十代の句。世間的には、悠々自適の暮らしぶりと見えていた時期の作品だ。作者もまた、よくぞここまでの感を得てはいるが、他方ではいつまで経っても貧乏根性の抜けないことに苦笑している。自足と自嘲とがないまぜになったまま、こうしてまた春を迎えることになった。ものみな芽吹く春の訪れは、年齢を重ねる意識と結びつかざるを得ない。その上で、幼少期の「育ち」が人生に影響することの真実を、老いの現実が具体的に示していることに感じ入っている。それにしても「爪に火をともす」とは、苛烈な比喩だ。蝋燭(ろうそく)の代わりに爪に火をともすなど、間違ってもできっこない。けれども極貧は、焼けるものなら我が身を焼いてでもよいというところまで「明かり」を欲するのだ。作者にとっては、もとより茫々たる昔の話ではあるが、懐しい昔話に閉じこめてしまうには、あまりにその渇望は生々しすぎたということだろう。誰もが老いていく。肉体も枯れていく。しかし、それは自分の中で、ついに昔話にはなしえない生々しい渇望の記憶とともに、なのである。この句にそんなことまで感じてしまうのは、私だけの気まぐれな「春愁」の故であろうか。『あなたこなた』(1983)所収。(清水哲男)
December 142000
ゐのししの鍋のせ炎おさへつけ
阿波野青畝
季語は「ゐのししの鍋(猪鍋)」で、冬。「牡丹鍋(ぼたんなべ)」とも言い、猪(しし)は「牡丹に唐獅子」の獅子と音(おん)が同じなので、洒落れたのだろう。関西名物。作者も関西の人。土鍋で芹や大根と煮て、白味噌で味つけする。眼目は「おさへつけ」だ。火に「かける」のではなく、炎を「おさへつけ」て、土鍋を置く。ずしりと重い土鍋の重量感を示しているのと同時に、「ゐのしし」のそれも表現している。加えて「さあ、食べるぞ」というご馳走を前にした気合いも……。こういう句を読むと、やたらに食欲がそそられる。食べ物の句は、かくあるべし。といっても、私は関西が長かったにもかかわらず、「ゐのしし鍋」を食した記憶がない。同じ関西名物の鱧(はも)すらも、東京に出てきてからはじめて食べたくらいで、きっと学生には高価すぎたのだろう。当時(1960年代)の冬は、もっぱら「土手焼き」だった。元来は土鍋に味噌を塗って魚などを煮るのだが、土鍋の代わりにステンレス製の四角い大鍋で出す店が京都・三条通り近くにあり、よく通った。周囲の味噌がほどよく焦げて良い香りとなり、汁と溶け合った味の深さは、まことに美味である。冬が来るたびに「ああ、もう一度食べたいな」と思う。きっと探せばあるのだろうが、上京以来、見かけたこともないのは残念だ。『紅葉の賀』(1956)所収。(清水哲男)
January 042001
年酒酌むふるさと遠き二人かな
高野素十
仕事始め。出版社にいたころは、社長の短い挨拶を聞いてから、あとは各セクションに分かれて「年酒(ねんしゅ)」(祝い酒)をいただくだけ。実質的な仕事は、明日五日からだった。帰郷した社員のなかには出社しない者もおり、妻子持ちは形だけ飲んでさっさと引き上げていったものだ。いつまでもだらだらと「年酒」の場から離れないのは、独身の男どもと相場が決まっていた。もとより、私もその一人。早めに退社しても、どこにも行くあてがないのだから仕方がない。そんな場には、揚句のような情緒は出てこない。この「二人」は夫婦ととれなくもないが、故郷に帰れなかった男「二人」と解したほうが趣きがあるだろう。遠いので、なかなか毎年は帰れない。故郷の正月の話などを肴に、静かに酌み交わしている。しみじみとした淑気の漂う大人の「年酒」であり、大人の句である。揚句は、平井照敏の『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)で知った。で、本意解説に曰く。「新年の祝いの酒なので、祝いの気持だけにすべきもので、酔いつぶれたりすることはその気持に反すること甚だしい」。『歳時記』に叱られたのは、はじめてだ(笑)。阿波野青畝に「汝の年酒一升一升又一升」という豪快な句があり、どういうわけか、この句もこの『歳時記』に載っている。(清水哲男)
March 032001
終夜潮騒雛は流されつづけゐむ
松本 明
季語は「雛流し」。雛祭は元来が女の子の息災を祈る行事なので、すべての厄を飾った雛に移して(肩代わりしてもらって)、なるべく早く川や海に流した。三月三日の夕刻には、もう流してしまう地方も多かったと聞く。「捨雛(すてびな)」という感傷を排除した言い方もあるけれど、なんといっても人の形をしたものを流すのだから、たとえ紙の雛でも、流す人には複雑な思いが涌くだろう。考えてみれば、哀しくも残酷な風習だ。作者は夕方に見て戻り、流された雛の哀れが鮮烈に、いつまでも目に焼きついて離れないのだ。「終夜潮騒」が耳につき、熟睡できない。うとうととしかけては、また目覚めてしまう。その目覚めには、流されていった雛たちへの気掛かりが伴う。「流されつづけゐむ」には、作者のそうした気持ちがこもっていると同時に、遠くの暗黒の波間になお「流されつづけ」ている雛の姿を強く想像させる力がある。実際には「さかさまに水ごもりたまふ雛かな」(阿波野青畝)のように、ほとんど流れることもなく沈んでしまっているのかもしれない。「捨雛のうちふせありぬ草の上」(二宮英子)のように、早々に岸辺に打ち上げられてしまっている雛もあるだろう。しかし、そうは思いたくないというのが、人情だ。作者の詠んだ雛たちは、きっとどこまでもどこまでも流れていったことだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
September 142001
水澄みて金閣の金さしにけり
阿波野青畝
季語は「水澄む」。夏に比べて、秋は大気が爽やかになり水の澄む季節なので、秋の季語である。その水が澄みに澄んで、「金閣」寺を美しく写し出している。さながら絵葉書に見るような情景だ。戦前の作だから、焼失(1950)する前の建物であり、美しさは想像するしかないが、現在のものよりも「金」の色はくすんでいたかもしれない。歴史を経た金色である。その金色が折からの西日を受けて(作者自解による)、くすんだままにくっきりと池に投影されてきた。「さしにけり」の「さす」は、「口紅をさす」などと言うときの「さす」。彩(いろど)りをするという意味。澄み切った池の水に西日の傾きに連れて、すうっと地味な金色が反映してきたときの動的な感覚を表現している。絵葉書と言ったが、この「さしにけり」までの動きは絵葉書では表せない。空は晴れているので、上空には当然秋の夕焼けがのぞめたろう。すなわち、空も金色を湛えていた。と、ここでまた絵葉書。「寺を辞したとき、すでに日が西に没していた」と、自解にある。目裏に美しい残像を刻みつけるようにして、作者は寺を離れたことだろう。日の暮れた京都のひんやりとした大気の感触が、すこぶる心地よい。『国原』(1942)所収。(清水哲男)
December 062001
息白き子のひらめかす叡智かな
阿波野青畝
季語は「息白し」で冬。我が子ではなく、よその家の子だと思う。寒い朝。出かける道すがら、たまたま近所の知っている子に出会って連れ立って歩いている。子供とは世間話はできないから、学校や勉強のことなどを軽い気持ちで聞いてみたのかもしれない。話題がなんであれ、話しているうちに、作者は質問に一所懸命に答える子供の「叡智(えいち)」に気づかされた。単に才気煥発とか小利口というのではなく、日頃から真剣に物事を考えているところからしか出てこない話ぶり。それが子供の白い息に添ってひらめきながら、作者の胸を強く深く打ってきたのである。当の子供にしてみれば、当たり前の話をしただけなのだろう。が、作者には「これぞ本物の叡智」という感慨が生まれてしまった。この子のように、俺は物事を正面から引き受けて物を考えたことがあったろうか、と。凄いヤツだなあと、顔には出さねど舌を巻いている。「叡智」とは知識ではない。だから、ちっぽけな子供にだって「叡智」はそなわる。知識の徒が逆立ちしたってつかめない考えを、自力でつかんでいる子供もいる。そんな子供に自然に畏敬の念を覚えた作者もまた「叡智」の人なのだと、私は感動した。寒い朝でも、この交流はとても暖かい。『合本俳句歳時記』(1973・角川書店)所載。(清水哲男)
January 232002
王冠のごとくに首都の冬灯
阿波野青畝
戦後も間もなくの句。季語は「冬灯(ふゆともし)」だが、単に冬の燈火を指すのではなく、俳句では厳しい寒さのなかのそれを言ってきた。空気が澄みきっているので、くっきりと目に鮮やかだ。掲句の灯は、復興いちぢるしい東京の繁華街のネオンのことを言っている。高いところで、さながら豪奢な「王冠」のようにキラキラと輝いている。「東京がゴッツイ王冠をかぶっとる。さすがやなア。よう見てみなはれ、ゴウセイなもんやないかい」と、関西人である作者は感嘆している。……と受け取った読者は、まことに善良な性格の持ち主だ(笑)。なんのなんの、生粋の関西人がそう簡単にネオンごときで「首都」を褒め称えるわけがない。たしかに最初は目を見張ったかもしれないが、たちまち「なんや、よう見たら、あれもこれもヤスモンの瓶の蓋みたいなもんやないか、アホくさ。おお、サブゥ」となったこと必定である。つまりこの句には、そんな毀誉褒貶をとりまぜた面白さがある。どちらか一方の解釈だけでは、あまりにも単純でつまらない。形が似ているところから、ブリキ製のビール瓶などの蓋のことを、当時は俗に「王冠」と呼んでいた。この言葉が聞かれなくなって久しいが、そもそもの本家(!)の王冠の権威が、すっかり薄れてしまったことによるのだろう。『紅葉の賀』(1955)所収。(清水哲男)
June 252002
我老いて柿の葉鮓の物語
阿波野青畝
季語は「鮓(すし)」で夏。若い人たちのいる席で、いっしょに「柿の葉鮓」を食べているのだろう。もはやこの鮓の由緒を知らない人たちに、発祥の由来などを話して聞かせている。そして、こういう「物語」を知っている自分が、ずいぶんと「老いて」いることに、あらためて気がついたのだった。私なども、話ながらときおり実感することがある。自分では何の気なしに話していることだが、周囲の反応で、それと気づかされる。そこでショックを受けるというよりも、みずからの老いを淡々と認める気分だ。さて、柿の葉鮓は奈良吉野地方の名物だ。なぜ海から遠いこの地方で、海の魚を使う(古くは鯖のみを使用したらしい)鮓が名物になったのだろうか。いくつかある柿の葉鮓販売の会社のHPを参照して、それこそ少し物語っておけば、次のようである。その昔(江戸時代中期)、吉野に運ばれてくる海の魚は熊野灘から伯母峰を越えて行商人の背負い籠で運ばれてくるか、紀の川沿いに運ばれてくるかのどちらかだった。もちろん今と違って人力で運ぶのだから、二日ほどの行程がかかったという。そのために浜塩と言って、魚が傷まないように多量の塩を腹に詰めて運んだ。山里の吉野に魚が届くころには、塩気がまわりすぎ、煮ても焼いてもショッパくて食べられないほどで、その身を薄くそいで白御飯にのせて食べることを思いついたのがはじまりとされる。柿の葉のほうはそこらへんに沢山あったので、試しに巻いてみたら、よい香りがして美味かったからというところか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)
September 102002
秋蝶の一頭砂場に降りたちぬ
麻里伊
秋の蝶は姿も弱々しく、飛び方にも力がない。「ますぐには飛びゆきがたし秋の蝶」(阿波野青畝)。そんな蝶が「砂場」に降りたった。目を引くのは「一頭」という数詞だ。慣習的に、蝶は一頭二頭と数えるが、この場合には、なんと読むのか(呉音ではズ、唐音ではチョウ・チュウ[広辞苑第五版])。理詰めに俳句としての音数からいくと「いちず」だろうが、普通に牛馬などを数えるときの「いっとう」も捨てがたい。というのも、枝葉や花にとまった蝶とは違い、砂場に降りた蝶の姿はひどく生々しいからだ。蝶にしてみれば、砂漠にでも降りてしまった気分だろう。もはや軽やかに飛ぶ力が失せ、かろうじて墜落に抗して、ともかくも砂場に着地した。人間ならば激しく肩で息をする状態だ。このときに目立つのは、蝶の羽ではなくて、消えゆく命そのものである。消えゆく命は蝶の「頭」に凝縮されて見えるのであり、ここに「一匹」などではなく「いちず」の必然性があるわけだが、しかし全体の生々しさには「いっとう」と呼んで差し支えないほどの存在感がある。作者が「いちず」とも「いっとう」ともルビを振らなかったのは、その両方の意を込めたかったからではなかろうか。やがて死ぬけしきを詠むというときに、この「一頭」は動かせない。『水は水へ』(2002)所収。(清水哲男)
November 032002
うごく大阪うごく大阪文化の日
阿波野青畝
元来が「明治節(明治天皇の誕生日)」だった祝日だけに、戦後できた「文化の日」の句には、まともに向き合わず斜に構えたものか、あるいは逆にひどく生真面目にとらえたものがほとんどだ。掲句はどちらかといえば前者に属するが、といって、この日をさげすんだり茶化しているわけではない。「『文化の日』も大いに結構や。が、東京みたいなすましとる文化は好かん」と、言外に言っている。「うごく大阪うごく大阪」のリフレインに、猥雑なほどに活気のある大阪の庶民文化を称揚し、また大阪人のそうした躍動するエネルギーこそが文化の源泉なのだと言っている。ダイナミックかつ不敵な異色の一句として、印象に残る句だ。東京の人は逆立ちしても、こういうふうには詠めないだろう。話は変わるが、「文化とは何か」という難しい問題は別にして、私たちはなぜ文化という言葉が好きなのだろうか。見渡せば、文化国家、文化都市、文化村、文化人、文化勲章、文化功労、あげくは文化住宅、文化センター、文化風呂、文化シャッター(これは商品名)、文化食品、文化包丁、文化鍋と枚挙にいとまがない。あまり知られていないようだが、戦後に魚の干物をセロファンに包んで売ってヒットした「文化干し」もあるし、キリスト教布教を目的に発足したことは知られていないが、東京では有名な「文化放送」なるラジオ局もある。とにかく本日は「文化の日」です。何だかよくわかりませんが、日本人としては「文化バンザイ」と三唱しておこうではありませんか。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)
August 282003
鎌倉の月高まりぬいざさらば
阿波野青畝
季語は「月」で秋。青畝(せいほ)は生涯関西に住んだ人だから、鎌倉に遊んだときの句だろう。鎌倉には師の虚子がおり、青畝は高弟であった。素十、誓子、秋桜子とともに「ホトトギスの4s」と称揚された時代もある。句はおそらく高齢の虚子との惜別の情やみがたく、別れの前夜に詠まれたものだと思う。折しも盆のような大きな月が鎌倉の空に上ってきて、見上げているうちに去りがたい思いはいよいよ募ってくるのだが、しかしどうしても明日は帰らなければならない。気持ちを取り直して「いざさらば」と言い切った心情が、切なくも美しい。なんだかまるで恋の句のようだけれど、男同士の師弟関係でも、こういう気持ちは起きる。たとえば瀧春一に、ずばり「かなかなや師弟の道も恋に似る」があって、師は秋桜子を指している。なお、掲句を収めた句集は虚子の没後に出されているが、追悼句ではない。以下余談だが、この句を歴史物と読んでも面白い。鎌倉といえば幕府を開いた頼朝が想起され、頼朝といえば義経だ。平家追討に数々の武勲をたてた義経が、勇躍鎌倉に入ろうとして指呼の間とも言える腰越で足止めをくった話は有名である。一月ほど腰越にとどまった義経だったが、頼朝の不信感を拭うにはいたらず、ついに京に引き上げざるを得なかった。この間に大江広元に宛てたとされる書状「義経腰越状」に曰く。「義経犯す無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。(中略)骨肉同胞の儀既に空しきに似たり」。そこで義経になり代わっての一句というわけだが、どう考えても青畝の句柄には合わない。『紅葉の賀』(1962)所収。(清水哲男)
April 272004
畑打つや土よろこんでくだけけり
阿波野青畝
季語は「畑打(つ)」で春。農作業のはじまりだ。鍬で耕していくはしから、冬の間は眠っていた「土」が、自分の方から「よろこんで」砕かれていくというのである。むろん実際には作者が喜びを感じているのだが、それを「土」の側の感情として捉えたところがユニークで面白い。こうした耕しの際の喜びは、体験者でないとわかりにくいだろう。よく手入れの行き届いた肥沃な畑でないと、こうはいかない。日陰で痩せた畑の土は、絶対によろこばない。鍬の先で砕けるどころか、団子のように粘り着いてきて往生させられる。痩せた田畑しか持てなかった農家の子としては、なんとも羨ましい句に写る。畑にかぎらず土は生きものだから、気候が温暖で水はけが良く、しかもこまめに手入れされていれば、人馬一体じゃないけれど、人と土との気持ちが通いあうように事が進んでゆく。野球やスポーツのグラウンドとて、同じこと。同じグラウンドとはいっても、河川敷などのそれとプロが使うそれとでは大違いだ。例えて言えば、草野球のグラウンドがブリキかトタンの板だとすると、プロ用のそれはビロードの布地である。立った印象が、それほどに違う。そのかみのタイガースの三塁手・掛布雅之は守備位置の土(砂と言うべきか)をよくつまんでは舐める癖があったけれど、あんな真似は河川敷ではとてもできない。というか、誰だってとてもそんな気にはなれっこない。やはりビロードの土だからこそ、無意識にもせよ、ああいうことができたのだろうと思う。『万両』(1931)所収(清水哲男)
February 052005
父と子は母と子よりも冴え返る
野見山朱鳥
季語は「冴(さ)え返る(冴返る)」で春。暖かくなりかけて、また寒さがぶり返すこと。早春には寒暖の日が交互につづいて、だんだんと春らしくなってくる。普通は「瑠璃色にして冴返る御所の空」(阿波野青畝)などのように用いられる。掲句はこの自然現象に対する感覚を、人間関係に見て取ったところが面白い。なるほど「母と子」の関係は、お互いに親しさを意識するまでもない暖かい関係であり、そこへいくと「父と子」には親しさの中にも完全には溶け合えないどこか緊張した関係がある。とりわけて、昔の父と子の関係には「冴え返る」雰囲気が濃かった。「冴返る」の度をもう少し進めた「凍(いて)返る」という季語もあって、私が子供だったころの父との関係は、こちらのほうに近かったかもしれない。女の子だと事情は違ってくるのかもしれないが、一般的に言って男の子と父親は打ち解けあうような間柄ではなかった。ふざけあう父子の姿などは、見たこともない。高野素十の「端居してたゞ居る父の恐ろしき」を読んだときに、ずばりその通りだったなと思ったことがある。でも、見ていると、最近のお父さんは総じて子供に優しい。叱るのは、もっぱら母親のようである。となれば、この句が実感的によくつかめない世代が育ちつつあるということになる。良いとか悪いとかという問題ではないのだろうが。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
October 152007
穴惑顧みすれば居ずなんぬ
阿波野青畝
季語は「穴惑(あなまどい)」で秋、「蛇穴に入る」に分類。そろそろ蛇は冬眠のために、その間の巣となる穴を見つけはじめる。しかし「穴惑」は、晩秋になっても入るべき穴を見つけられず、もたもたしている蛇のことだ。山道か野原を歩いていて、作者はそんな蛇を見かけたのだろう。もうすぐ寒くなるというのに、なんてのろまな奴なんだろうと思った。でも、そんなに気にもとめずにその場を通り過ぎた作者は、しばらく行くうちに、何故かそいつのことが心に引っかかってきてしまい、どうしたかなと振り返って見てみたら、もう影もかたちもなかったと言うのである。このときに「顧みすれば」という措辞が、いかにも大袈裟で可笑しい。柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」でどなたもご存知のように、この言葉はただ単に振り返って見るのではなく、その行為には精神の荘重感が伴っている。蛇には申し訳ないけれど、たかが蛇一匹を振り返って見るようなときにはふさわしくない。そこをあえて「顧みすれば」と大仰に詠むことによって、間抜けでどじな蛇のありようを暗にクローズアップしてみせたのだ。いかにもこの作者らしい、とぼけた味のある句である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
October 102011
折りかへすマラソンに散る柳かな
阿波野青畝
本格的なフルマラソンというよりも、市民運動会などの距離の短いマラソンのようである。ランナーは懸命に走っているのだろうが、折り返し点の柳が目に入るくらいだから、どこかのんびりとした雰囲気を漂わせたマラソンだ。早くも疲れた表情の走者たちがひとり、またひとりと、間隔を開けて折り返してゆく。次の走者が到着するまで、所在なく風景に目をやっていると、柳の葉がはらりはらりと散っているのに気がついた。いまは秋たけなわの候だが、そこに散ってゆく柳を認めると、この良い季節もまもなく去っていくんだなあという感慨が湧いてくる。深読みをしておけば、マラソンに挑むほどに元気いっぱいの人の盛りの人生も、すでに亡びの様相を兆しつつあるということか……。今日は体育の日。私の住む三鷹市でも市民運動会があるので、カメラを持ってのぞきに行こうと思っている。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)
November 122011
太き尻ざぶんと鴨の降りにけり
阿波野青畝
羽ばたきが聞こえ水しぶきが明るく飛び広がる様が見える。鴨にしてみれば、着いた〜、というところだろうか。ふっくらこじんまりして見える鴨だが、羽根を支える胸筋もさることながら、地上を歩く時左右に振れてユーモラスな尻は確かに立派だ。太き尻、ざぶん、降りにけり、単純だけれど勢いのある言葉が、渡り鳥のたくましさとそれを迎える作者の喜びを表していて気持ちの良い句である。先月、渡ってきたばかりと思われる鴨の一群に遭遇した。そのうちの何羽かは、等間隔に並ぶ細い杭の上に一羽ずつ器用に乗って眠っていたが、その眠りは、冬日向で見かける浮寝鳥のそれとは明らかに違ってびくともしない深さに見えた。初鴨だ、というこちらの思い入れだったかもしれないけれど。『鳥獣虫魚歳時記 秋冬』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)
November 242011
寝釈迦には星の毛布が似合ひけり
津山 類
寝釈迦といえば『ビルマの竪琴』を思い出す。僧になった水島上等兵の奏でる「埴生の宿」を耳にした日本兵が、巨大な寝釈迦のまわりを探しまわるシーンだ。千葉県館山で同じような寝釈迦を見た。座っている仏様を見なれた目には寝釈迦はゆったりくつろいでいるように見える。冒頭の映画のシーンでは水島上等兵は釈迦の腹の中に隠れていたが、その寝釈迦にも背中あたりに小さな戸があり、出入りできる様だった。うっそうとした森に囲まれ横になる仏様にとって夏は涼しくていいが、冬だとさぞ寒かろう。掲句のように満天の冬星が寝釈迦の毛布だと思えば冬枯れた景色も暖かく思える。「葛城の山懐に寝釈迦かな」の 阿波野青畝の句の寝釈迦は山懐に包まれている安らぎがあるが、この句の寝釈迦は冬空に合わせてサイズが大きく伸びてゆくようである。『秘すれば花』(2009)所収。(三宅やよい)
July 222012
土用鰻店ぢゆう水を流しをり
阿波野青畝
字余りは、うなぎの長さでしょうか。注文してから待たされる時間の長さもありましょうか。暑いから、うなぎを大量にさばくから、「水を流しをり」なのでしょう。「ぢゆう」を眺めていると、うなぎの形にみえてきます。この数日間、非常に切ない思いでいます。掲句をずっと考えているわけですが、うなぎが食いたい、今日はうなぎを食いに行こう、国分寺に鰻屋はあるだろうか、仕事で横須賀に行っても鰻屋を探す始末。ついには旧知の鰻屋のおかみさんにメールで、この、日本民族をこの時期に熱狂させる、この、うなぎの魅力と魔力は何なのだ?と問いかけましたが、一笑に付されました。なお、このおかみさんはなかなかの美人で、諏訪にある鰻屋の女将さんも美しく、中野の鰻屋の女将さんは、張りのある元、美少女です。うなぎを食っているから美女になるのか、鰻屋の主人は、美女を口説くのがうまいのか、たぶん、後者だと今気づきました。鰻を食っているから、アレですよ。ところで、私は、過去五年間で、五回、鰻屋で鰻を食っています。ちょうど、一年に一度。だから、この一期一会が強く記憶に残ります。その匂い、白いご飯と、赤茶けたタレ、それに染まった焦げてふんわりした身のふくよかに、あぶらのしるがじんわり口中に広がりとどきます。世界中で収穫される鰻の八割が、日本人の胃袋に収まるそうです。この時期、無性に食べたくなる日本のハレの食文化、土用の丑の伝統を作った平賀源内は天才です。そして、もう一人の天才、赤塚不二夫は、ある日、犬のキャラクターを考えていたときに、当時の少年マガジンの編集者が「ああ、、今日は土用、、鰻が食いたいーー」と言った声を聞いて、名作「ウナギイヌ」を創作したのでした。「日本大歳時記・夏」(1982講談社)所載。(小笠原高志)
January 062013
汝の年酒一升一升又一升
阿波野青畝
年賀の客をもてなす座卓には、一升瓶が何本も立っています。燗をつけるなんぞは、まどろっこしい。茶碗酒、コップ酒の作者の若いお弟子さんたちが、うわばみのごとく、とぐろを巻いて年始めの無礼講に興じているところでしょうか。作者は、この座をこの一句で切り返そうとしているように読みますが、はたして酔客に真意が届いたかどうか。掲句は、李白の詩「山中ニテ幽人ト対酌ス」の一節、「 両人対酌スレバ山花開ク、一杯一杯復一杯」をふまえているでしょう。しかし、掲句の酔客たちは、一杯ではなく一升ときていますから、酒豪の大先輩李白の一節に思いを寄せる風もなかったでしょう。詩は、「我酔ウテ眠ラント欲ス、キミシバラク去レ」と続きますが、とぐろを巻いた大蛇たちが退散する様子は見られません。「一升一升又一升」は、エンドレスに続きます。句の師匠が、句の力でお弟子たちを動かそうとしていながら、それができないところに初笑いがあります。私事ですが、巳年の抱負は、とぐろを巻かない、くだを巻かない、とします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(小笠原高志)
January 102014
鶴凍てて花のごときを糞(ま)りにけり
波多野爽波
凍鶴とは、冬の最中、鶴が片脚で立ち、凍りついたように身動きもしないさまをいう。動物園では、その姿をよく見ることができる。そんな凍鶴が少し動いたかと思うと、排泄したのである。通常ならば、汚いと感じるところだろうが、爽波は、逆に、美しさを感じて、「花のごとき」と喩えている。下五の表現は、「露の虫大いなるものをまりにけり」という阿波野青畝の句が、元になっているのだろう。一方、内容的には、中村草田男の「母が家近く便意もうれし花茶垣」という句が、少なからず影響を与えていると思う。爽波は、生前、草田男のこの句について、しばしば触れていた。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)
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