2016ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772016

 法善寺にこいさん通り梅雨の月

                           ふけとしこ

日は七夕だけど、この時期星々がまともに見えたことがない。どちらかと言うと雨っぽい空に恋人たちの逢瀬がはばまれる感じである。大阪で「こいさん」は末娘を表すようだけど、今はどのくらい使われているのだろう。「月の法善寺横丁」の歌詞は年配の方なら、ああ、とうなずく有名な歌だが、今どきさらしに巻いた包丁を肌身離さず修行に出るような板前もいないし、その帰りを待つこいさんもいないだろう。水かけ不動の法善寺で月を見上げれば厚い雲に覆われた梅雨空にぼんやりと白い月が透かし見える。法善寺もこいさん通りもその響きが時代に置き去りにされた遠さがあり、その距離感が「梅雨の月」に表されているように思う。「ほたる通信」2016年6月「46号」所収。(三宅やよい)


July 0672016

 薫風や本を売りたる銭(ぜに)のかさ

                           内田百閒

かさ」は「嵩」で分量という意味である。前書に「辞職先生ニ与フ」とある。誰か知り合いの先生が教職を辞職した。いつの間にか溜まり、今や用済みになった蔵書を古本屋にまとめて売ったということか。いや、その「辞職先生」とは百閒先生ご自身のことであろう。私はそう解釈したい。そのほうが百閒先生の句としての味わいが深まり、ユーモラスでさえある。これだけ売ったのだから、何がしかまとまったカネになると皮算用していたにもかかわらず、「これっぽっちか」とがっかりしている様子もうかがわれる。「銭のかさ」とはアテがはずれてしまった「かさ」であろう。だいいち「カネ」ではなく「銭」だから、たかが知れている。先生もそれほど大きな期待は、初めからしていなかったのであろう。そこまで読ませてくれる句である。それにしても、どこか皮肉っぽく恨めしい薫風ではある。本の重さよりも薫風のほうが、ずっと今はありがたく感じられるのである。私も手狭になると、たまった本を処分することがあるが、その「銭のかさ」は知れたものである。近頃は古書を買うにしても、概して値段は安くなった。百閒には傑作句が多いけれど、「物干しの猿股遠し雲の峰」という夏の句を、ここでは引いておこう。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


July 0572016

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

房や腰まわりが強調された土偶は多産をもたらす象徴とされ、日本では縄文時代に多く作られた。母神信仰の象徴である土偶には乳房や妊娠線までもが描かれているという。「おっぱい」の語源には諸説あるが、なかでも「ををうまい=なんたる美味」が略されたといわれる説が好ましい。生まれて一番最初に向き合うもっとも大切なものの名にふさわしく、ふっくらとやわらかな語感を声に出せば、今も懐かしさと愛おしさに包まれる。掲句では、乳房のある土偶を前にして、人々が活気づき、輝いていた時代に思いを馳せる。人間ではなく人類としたことで、厳しい環境を経て二足歩行を覚え、道具を手にして生き延びてきた歴史にまでさかのぼる。子を生み、育てることが一大事だった時代にこそ、人類の豊穣があったのだと気づく。そして、掲句は無季である。私は力強い太陽が容赦なく照りつけるこそふさわしいと感じていたが、以前清水哲男さんが掲句を鑑賞した際には「冬の季節にこそ輝きを放つ句」とされていた。あるいは、生きものたちの恋の季節である春を思ったり、雨が緑の艶を深める梅雨の時期に重ねる読者もいるだろう。それぞれに手渡されていくときに、季節が邪魔になることもあると知る一句である。『たましいの話』(2005)所収。(土肥あき子)




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