2016N76句(前日までの二句を含む)

July 0672016

 薫風や本を売りたる銭(ぜに)のかさ

                           内田百閒

かさ」は「嵩」で分量という意味である。前書に「辞職先生ニ与フ」とある。誰か知り合いの先生が教職を辞職した。いつの間にか溜まり、今や用済みになった蔵書を古本屋にまとめて売ったということか。いや、その「辞職先生」とは百閒先生ご自身のことであろう。私はそう解釈したい。そのほうが百閒先生の句としての味わいが深まり、ユーモラスでさえある。これだけ売ったのだから、何がしかまとまったカネになると皮算用していたにもかかわらず、「これっぽっちか」とがっかりしている様子もうかがわれる。「銭のかさ」とはアテがはずれてしまった「かさ」であろう。だいいち「カネ」ではなく「銭」だから、たかが知れている。先生もそれほど大きな期待は、初めからしていなかったのであろう。そこまで読ませてくれる句である。それにしても、どこか皮肉っぽく恨めしい薫風ではある。本の重さよりも薫風のほうが、ずっと今はありがたく感じられるのである。私も手狭になると、たまった本を処分することがあるが、その「銭のかさ」は知れたものである。近頃は古書を買うにしても、概して値段は安くなった。百閒には傑作句が多いけれど、「物干しの猿股遠し雲の峰」という夏の句を、ここでは引いておこう。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


July 0572016

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

房や腰まわりが強調された土偶は多産をもたらす象徴とされ、日本では縄文時代に多く作られた。母神信仰の象徴である土偶には乳房や妊娠線までもが描かれているという。「おっぱい」の語源には諸説あるが、なかでも「ををうまい=なんたる美味」が略されたといわれる説が好ましい。生まれて一番最初に向き合うもっとも大切なものの名にふさわしく、ふっくらとやわらかな語感を声に出せば、今も懐かしさと愛おしさに包まれる。掲句では、乳房のある土偶を前にして、人々が活気づき、輝いていた時代に思いを馳せる。人間ではなく人類としたことで、厳しい環境を経て二足歩行を覚え、道具を手にして生き延びてきた歴史にまでさかのぼる。子を生み、育てることが一大事だった時代にこそ、人類の豊穣があったのだと気づく。そして、掲句は無季である。私は力強い太陽が容赦なく照りつけるこそふさわしいと感じていたが、以前清水哲男さんが掲句を鑑賞した際には「冬の季節にこそ輝きを放つ句」とされていた。あるいは、生きものたちの恋の季節である春を思ったり、雨が緑の艶を深める梅雨の時期に重ねる読者もいるだろう。それぞれに手渡されていくときに、季節が邪魔になることもあると知る一句である。『たましいの話』(2005)所収。(土肥あき子)


July 0372016

 雲の峰暮れつつ高き岩魚釣り

                           飯田龍太

の暮れは遅い。険しい渓谷で、岩魚の食いつきをねばる。雲の峰は刻々と変化して、渓流の流れは速い。さて、この釣り人の釣果はいかに。それよりも、谷あいに居る釣り人が空を仰げば、雲の峰は高い。雲が動き、水流に糸を垂らす僥倖。動中静在。さて、釣り人はぐいぐいと岩魚を高く釣り上げたや否や。以下、蛇足。岩魚は野生味の強い魚で、貪欲に餌に食いつくけれど、針をのみ込んだまま滝を上ろうとしたり、大暴れして逃げ果せることもしばしば。その容貌には、太古を思わせる険しさがある。私 が釣り上げて最も怖かった魚の形相は、北海道知床で釣ったオショロコマというエゾの岩魚。その日、川の畔では熊が鹿を食い、食べ残した残骸を地元の漁師がガソリンをかけて燃やしていた。『山の影』(1985)所収。(小笠原高志)




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