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June 2362016

 きつね来て久遠と啼いて夏の夕

                           久留島元

つねは不思議な動物である。瀬戸内の海辺にある学校で教師をしていた時、野生の狸は時々給食の残飯をあさりに来ていたので昼間から目にしていたが、きつねは山の中で猟師の罠にかかっているのを見たのが初めてだった。野生の狐は鋭くそそけだった顔をして歯をむき出しにこちらに向かってくる勢いだった。あまり人前に姿を現すことがないから神格化されるのか。「久遠」と表記された鳴き声が、赤いよだれかけをした稲荷神社のきつねの鳴き声のようだ。きつねといえば「冬」と季の約束事に縛られた観念からは発想できない軽やかさ。夏の夕方へ解き放たれたきつねが嬉しがって時を超える啼き声を上げている。『関西俳句なう』(2015)所載。(三宅やよい)


June 2262016

 蟹あまたおのが穴もち夏天もつ

                           高垣憲正

般に俳句では、水蟹は「春」、海蟹は「冬」とされるという。『新歳時記・夏』では「夏の蟹は、つゆどきの渓流、磯などの小蟹をさしている」と説明されている。掲出句では「夏天」ゆえ、ここでは夏の蟹である。あまたの蟹はおのれの棲家=穴をもっている。なかには「おのが穴」をもたない、ホームレスの蟹もいるだろうか。だとしたら、せつないやら愉快なやらではないか。まさか人間世界じゃあるまいし、きちんとおのがじし穴をもっていて、ホームレスなどいないのかもしれない。水中を主たる生息地とする蟹に「穴」ばかりでなく、「夏天もつ」と詠んだところからおもしろさが増したし、俳句も大きくなった。蟹は穴掘りの名人だと言われるが、慌てると自分の穴に戻ることができなくなることもあるそうだ。小学生の頃、家の裏を流れている小川の石垣の間に手を突っこむと、たいてい藻屑蟹がひそんでいて、蟹取りに興じたことがある。「蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る」と言われる。人間は良くも悪くも、そうはいかないケースが多いから始末が悪い。憲正には他に「木陰出てトロッコ浜へ突き放つ」がある。『靴の紐』(1976)所収。(八木忠栄)


June 2162016

 代掻いて掻いて富士には目もくれず

                           黛 執

植え前の準備である代掻きとはいささか時遅しとも思うが、田植えを終える目安の半夏生まではまだ少し間があるということでお許し願いたい。生まれてから20年余を静岡市で育ったせいか、富士山は方角を知る目印のような山だった。毎日当たり前のように目に入る山が、どれほど美しいものだったのかを知るのは、遠くに離れてからである。代掻きは現代のトラクターを使用する方法でも、ひたすら田の面を見つめ、往復を続ける作業である。掲句でも「掻いて掻いて」の繰り返しに、その作業が単調であることと、なおかつ重労働であることが伝わる。ほんの少し目を上げれば美しい富士があることは分かってはいる。その「分かっている」という気持ちこそ、ふるさとの景色に見守ってもらっているのだという信頼関係を思わせる。仕事が終わり、もう暗くなった頃、富士のあったあたりに目を上げて、一日の無事を知らせるのだろう。『春の村』(2016)所収。(土肥あき子)




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