2016ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0152016

 掌になじむ急須や桜餅

                           小寺敬子

本の日常です。しかし、桜餅をいただく儀式のようでもあります。桜餅をおいしくいただくためには、万古焼きの急須で、緑茶の旨味を引き出さなくてはなりません。そう思うと、かつては当たり前だった午後のひとときや来客へのおもてなしが、今では特別の所作になっているように思われます。コーヒーを入れるときも紅茶を入れるときも、ポットの取っ手を握って湯を注ぎます。両方とも高温でこそ香りと味わいが届きます。それに対して緑茶の場合、熱湯も一度茶碗で冷ましてから湯を入れるので 、ゆっくりじっくり茶葉の開きをしばらく待って、急須が掌になじみはじめて茶をいただく頃合いとなります。茶人によれば、お茶はゆっくり入れて、最後の一雫まで出し切ることがおいしいお茶のコツと聞きました。あらためて掲句を読むと、描かれている全てが掌の中に納まっています。句は、ここで完結していながら、これから桜餅の甘みが舌に届いて緑茶の渋みがその甘みを抑制しつつ、また一口、桜餅をいただくうれしさを予感させています。掌の中にあるしあわせ。これは、俳句サイズのしあわせです。そして、たぶん、多くの人が、これくらいの、掌くらいのしあわせを、しあわせというように思います。『花の木』(2002)所収。(小笠原高志)


April 3042016

 ゆく春の耳掻き耳になじみけり

                           久保田万太郎

日でなにかと慌ただしかった四月が終わる。いつもながら四月は、春を惜しむ感慨とは無縁にばたばたと過ぎて、ゴールデンウイークでちょっと一息つくと立夏を迎えてしまう。春まだ浅い頃、ああもう春だなあ、と感じることは目まぐるしい日常の中でもよくあるけれど、過ぎ行く春を惜しむ、というのは余裕がないとなかなか生まれない感情のように思っていた。しかし掲出句は、耳掻きで耳掃除をするという小さな心地よさを感じながら、淡々とゆく春に思いをはせている。さらに、ゆく、という仮名のやわらかさが、ことさら惜しむ心を強調することなく、再び巡ってくるであろう春を穏やかに送っていて不思議な共感を覚える。『俳句歳時記 第四版』(2008・角川学芸出版)。(今井肖子)


April 2942016

 玄関のリフォーム中や燕来る

                           山遊亭金太郎

を持つ事はいわば城を持つようなもの。一度城を成さば一生ものとなるのが常。長年住み古せば家族構成も移り変りやがて傷みも出で来る。そこでリフォームと成る訳だがこれも予算の関係で部分的な手直しを重ねる事となる。いまこの御当家では玄関のリフォームの手順となった。進学か就職かを前に新しい春を迎える準備に着手したのだ。折しも例年の如く燕が来訪、さてこの営巣にも気配りの上の改修が思案のしどころだ。玄関の真上に巣が出来ると糞害はどうなるのかって?そりゃあ見事にオチるでしょう。はいお後がよろしいようで。因みに師匠の場合「三遊亭」でなく「山遊亭」。他にも<花筏潜水艦のごとき鯉><大雨に色の溶けだす花の山><楽屋中沢庵かじる花見かな>などなど。俳誌「百鳥」(2014年7月号)所載。(藤嶋 務)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます