2016N429句(前日までの二句を含む)

April 2942016

 玄関のリフォーム中や燕来る

                           山遊亭金太郎

を持つ事はいわば城を持つようなもの。一度城を成さば一生ものとなるのが常。長年住み古せば家族構成も移り変りやがて傷みも出で来る。そこでリフォームと成る訳だがこれも予算の関係で部分的な手直しを重ねる事となる。いまこの御当家では玄関のリフォームの手順となった。進学か就職かを前に新しい春を迎える準備に着手したのだ。折しも例年の如く燕が来訪、さてこの営巣にも気配りの上の改修が思案のしどころだ。玄関の真上に巣が出来ると糞害はどうなるのかって?そりゃあ見事にオチるでしょう。はいお後がよろしいようで。因みに師匠の場合「三遊亭」でなく「山遊亭」。他にも<花筏潜水艦のごとき鯉><大雨に色の溶けだす花の山><楽屋中沢庵かじる花見かな>などなど。俳誌「百鳥」(2014年7月号)所載。(藤嶋 務)


April 2842016

 どないもこないも猫掌に眠りけり

                           矢上新八

猫の恋」があり「猫の子」が季語としてある。猫とはなんとまあ季節に従順な生き物なのか。野生や本能を失いつつある人間とは比べて思う。この頃は野良猫でも地域猫と呼んで去勢や避妊手術を施すことも多いと聞くが、私が子供のころは空き地や電柱の下に空き箱に入れて捨てられた猫や親からはぐれた生まれたばかりの子猫がみいみい鳴いていることが多かった。たまりかねて拾って帰っても「捨ててらっしゃい」と親から厳命されて元の場所に返しに行ったことも一度や二度ではなかった。生まれたての子猫を掌に載せて、おまけにすやすやねむっているの「どないもこないも」できない気持ちはよくわかる。「しゃーないなあ」と家猫にしたのだろうかこの人は。関西弁が柔らかい句集。『浪華』(2015)所収。(三宅やよい)


April 2742016

 春惜しむ銀座八丁ひとはひと

                           中里恒子

しまれつつ去って行く季節は、やはり春こそふさわしい。銀座にだって季節はあり、惜しまれる春はそれなりにちゃんとあるのだ。その一丁目から八丁目に到るまで、お店それぞれの、逍遥する人それぞれの季節:春がやってきて、去って行くことはまちがいない。恒子はいま何丁目あたりを歩いているのかはわからない。そこを歩いている人それぞれのことまではわからないし、知る必要もない。われはわれである。「ひとはひと」の裏には、当然「われはわれ」の気持ちが隠されている。「ひとはひと」とあっさり突き放したところが、いかにも「銀座八丁」ではないか。「ひとはひと、われはわれ」で、てんでに銀座の行く春を惜しんでいれば、それでいいさ。そのある種の「ひややかさ」は、銀座八丁が醸し出している心地よさでもあろう。さらりとして、べたついてはいない。そこには下町や田舎とはちがった春を惜しむ、そんな心地よさが生まれているように感じられる。恒子に俳句は多いが、夏の句に「薔薇咲かず何事もなく波ばかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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