2016N427句(前日までの二句を含む)

April 2742016

 春惜しむ銀座八丁ひとはひと

                           中里恒子

しまれつつ去って行く季節は、やはり春こそふさわしい。銀座にだって季節はあり、惜しまれる春はそれなりにちゃんとあるのだ。その一丁目から八丁目に到るまで、お店それぞれの、逍遥する人それぞれの季節:春がやってきて、去って行くことはまちがいない。恒子はいま何丁目あたりを歩いているのかはわからない。そこを歩いている人それぞれのことまではわからないし、知る必要もない。われはわれである。「ひとはひと」の裏には、当然「われはわれ」の気持ちが隠されている。「ひとはひと」とあっさり突き放したところが、いかにも「銀座八丁」ではないか。「ひとはひと、われはわれ」で、てんでに銀座の行く春を惜しんでいれば、それでいいさ。そのある種の「ひややかさ」は、銀座八丁が醸し出している心地よさでもあろう。さらりとして、べたついてはいない。そこには下町や田舎とはちがった春を惜しむ、そんな心地よさが生まれているように感じられる。恒子に俳句は多いが、夏の句に「薔薇咲かず何事もなく波ばかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2642016

 お日さまが見たくて蝌蚪の浮き沈む

                           関口恭代

蚪(かと)とはおたまじゃくしのこと。水底で孵ったおたまじゃくしは、つぎつぎと水面へと上昇する。それはきっとお日さまが見たいからだという掲句。おたまじゃくしの姿かたちも相まって、なんとも愛らしい景色となった。おたまじゃくしの呼吸はエラだけだと思われていたが、先年、皮膚と肺も使っていることが研究によって実証された。どのような環境でも生き延びることができるような進化の不思議が蛙の世界にも導入されていたのである。一匹の蛙が生む卵は約千個だが、そのうち蛙まで成長できるのはわずか2割。さらにその後、産卵できるまで育つのは数匹という。どのような工夫をこらしても、おたまじゃくしが生きながらえることは非常に厳しい。『冬帽子』(2016)所収。(土肥あき子)


April 2442016

 交番に肘ついて待つ春ショール

                           北大路翼

月十六日。第124回余白句会の兼題は「交番」でした。初参加の北大路翼さんが、断トツの「天」でした。交番という兼題に対して、出句の多くは外から眺めた風景の一部を描いていましたが、翼さんの句は中に踏み込み、交番内の人間模様を巧みに描写しています。ドラマの一場面のようだ、ちょっとワケありの女性を想像できる、若い頃の桃井かおりみたい、、などなど、選句者のイメージは多様ながらも、その輪郭は共通しています。交番の中という舞台を設定したあとに、「肘ついて待つ」が即妙。待たされている当事者に、アンニュイな時間が流れています。人物を女性と特定せず、動作に春ショールをまとわせて、交番内の様態をとらえた瞬時のクロッキー。肘が、交番の机に接着していることによって、春ショールのたたずまいが定着して、読む者に春のぬるさを伝えています。句会で兼題を出されると、いかにして五七五の中に取り込もうかと発想しがちでしたが、兼題の中に入っていくまっすぐな気持ちを翼さんから学びました。これも実相観入でしょう。(小笠原高志)




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