2016N417句(前日までの二句を含む)

April 1742016

 観音の顔あまたなり花吹雪

                           暉峻康隆

者の意図と読み手の鑑賞は、的を射たり外したり。掲句について、まずは外します。様々な観音像が安置されている境内。一様に花吹雪が舞うと、むしろ観音像の表情が一つ一つ異なることに気づきます。散り際にこそ、はっきりと観音像の姿を垣間みることができます。はざまに見る、一瞬の像。これも一つの読み方で、暉峻先生なら、かろうじて、及第点をつけてくれたかどうか。ところで、掲句には前書的な自解があって、「岐阜県谷汲の西国三十三番札所の谷汲寺で、御本尊の十一面観音に奉納した一句」とあるので、掲句は、一体の観音様の顔があまたなりであることが知れました。では、この観音様、どのようなお姿なのか。ふだん、まったく頼りにしていないインターネットで調べてみたところ、秘仏のようで写真も公開されていないようです。(いまさらですが、私は、全くのパソコン音痴なので、調べたり、お返事したり、などなど、ほとんどやりません。いままで、いろいろご教唆していただいたのに、返信していないのは、こういう次第です。かろうじて、増俳を続けられているのは、土肥さんに助けられているからです。ついでに言うと、この原稿も、原稿用紙に書いた文章をメールで送信しています。)すみません。本題に戻ります。一般的に十一面観音とは、それだけの形相を持った像ということはわかり、たぶん、秘仏の顔にも十種くらいの形相があるのでしょう。観音の形相もあまたであり、それと同様に、いやそれ以上に人の形相もあまたです。ただ、十一面観音の形相には、人生の節々の相をかたどる陰影が掘られていて、それは、観る者それぞれの現在の相を映し出す万華鏡の役割を果たすこともあるでしょう。では、花吹雪はいかに。われわれは、花吹雪の散り際を一様に見てきましたが、全体ではなく、ひとひらひとひらを見ていけば、それぞれの散り方は違います。観音様の顔も、花吹雪の散り方も、バラバラ。一様なんてありゃしない、あまたなり。作者は戦時中、帝大の論文を批判したことで、早稲田大学助教授から、陸軍歩兵二等兵として中支派遣軍の一員となった人。その時三十七歳。十把一絡げの国体と真っ向から対峙した結果です。晩年、totoを野次って、「ついに文部省が胴元に成り下がりやがった」。だから、この花吹雪は、あまた、ひとつひとつでしょう。『暉峻康隆の季語辞典』(2002)所載。(小笠原高志)


April 1642016

 春月の病めるが如く黄なるかな

                           松本たかし

しづつ月が育っている今週の初め、寝室の窓から細く黄色い月が西の空に見えた。ぼんやりとしたその月はどこか妖しい黄色で、ただ朧月というのもなんか違うなあとしばらく見ていたが、ぴったりする言葉も思いつかず寝てしまった。『ホトトギス雑詠選集 春の部』(1987・朝日新聞社)の中に掲出句を見た時、病めるが如く、とはなるほど言い得て妙な表現だと納得した。普通は月を見て、病む、という言葉はなかなか出てこない。やはり四季折々親しく見上げる月だからこそ、見る者の心情や境涯が自ずと映し出されるのかもしれない。生涯病がちだった作者はこの時、どんな心持で春月を仰いでいたのだろうか。(今井肖子)


April 1542016

 よく遊ぶ目白やわが影置き忘れ

                           谷中隆子

の周りが白い輪っかになっているので目白。体は鶯色を少し明るくした感じの緑色である。留鳥で市街地でも普通に見かける。雀より心持小さ目な体でちょこまかと枝から枝へ遊んでいる。今いたと思うとそこにはもう居ない。いないのだが移動が速いので残像だけが残されている。よくこう夢中で遊べるなと感心する、とともにふと自分がこれほど夢中に遊べたのは最後はいつだったかと遠い目になる。この目白のように影諸共に自分を忘れて遊んでみたいものだとも思う。もう一度一心不乱遊べるようになれるだろうか、なりたいがなれそうもない。その他<梅を見に爆弾おにぎりひとつ持ち><桃の昼空の無辺をふと怖る><貝の殻壜に眠らす春嵐>などなど。「俳壇」(2013年5月号)所載。(藤嶋 務)




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