2016N316句(前日までの二句を含む)

March 1632016

 山麓は麻播く日なり蕨餅

                           田中冬二

になって山麓の雪もようやく消え、麻の種を播く時期になった。この麻は大麻(おおあさ/たいま)とはちがう種類の麻である。幼い頃、私の家でも山間の畠に麻を少し作っていた記憶がある。麻は織られて野良着になった。冬二が信州を舞台にして書いた詩を想起させられる句だ。詩を読みはじめた頃、それら冬二の詩が気に入って私はノートに書き写した。蕨餅を頬張りながら麻の種を播いているのであろうか。いかにも山国の春である。蕨餅は本来蕨の根を粉にした蕨粉から作られるところから、こういう野性的な名前がつけられた。今はたいていはさつまいもや葛の澱粉を原料にした、涼しげで食感のいい餅菓子である。春が匂ってくるようだ。京都が本場で、京都人が好む餅菓子だとも言われる。当方は子どものころ、春先はゼンマイやワラビ、フキノトウ採りに明け暮れていた時期があったが、蕨餅は知らなかった。蕨は浅漬けにして、酒のつまみにするのが最高である。歳時記には「わらび餅口中のこの寂蓼よ」(春一郎)という句もある。蕨ではなくて「蓬」だけれど、珍しい人の俳句を紹介しておこう。吉永小百合の句に「蓬餅あなたと逢った飛騨の宿」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 1532016

 網膜に飼ふ鈍色の蝶一頭

                           杉山久子

に焼きつけるとは、見たものを強く記憶にとどめて忘れないようにすることの慣用句だが、実際に日の下でひとつのものをじっと見ると、目を閉じても浮かびあがる。光りの刺激を受けた視覚は、その光りが消えたのちも網膜が持っている残像効果によって視界に残る。掲句が抒情を超えた現実感を伴うのは、誰しもこのような状態を感覚としてよみがえらせることが可能だからだろう。そして、それでもなお詩情を失わないのは、あの軽やかではかない蝶が、大型動物と同じ一頭二頭と数える事実にもある。それによって蝶は突如として巨大で堅牢な存在となり、作者の眼裏にしばらく消えない刻印を残していったのだ。〈ゆふぐれはやし土筆ほきほき折り溜めて〉〈ぶらんこの立ち漕ぎ明日の見ゆるまで〉『泉』(2015)所収。(土肥あき子)


March 1332016

 白魚や生けるしるしの身を透かせ

                           鈴木真砂女

生について考えさせられます。見る者が、対象の形態を丁寧に写しとることは写生の必要条件でしょう。しかし、写しとったとしても全てを描写し尽くすわけにはいきません。とりわけ五七五の定型の場合には、どの要素を取捨選択するかによって、対象の存在感が変わってきます。俳句の場合、その要素とは言葉の選び方になるでしょう。掲句では、言葉の選択と、音韻、さらに構成の工夫によって一句を白魚一匹として写生しています。真砂女は、小料理屋「卯波」の調理場で仕込みの最中に、生き ている白魚を凝視して驚きます。その透きとおった小さな細身の中には、骨と管と袋と肝が透けて見えます。なんと正直な存在なんだろう。このあけっぴろげな生き様。潔い。これには自己投影もあるでしょう。ところで、中七を「生きる」ではなく、「生ける」を選んで他動詞としたところに、内臓のはたらきを写実した工夫があります。また、下五では「透かし」よりも「透かせ」の方が音の流れがよく、「白魚/しるし/透かせ」でS音を五つ連ねて徹頭徹尾の白魚一匹を俎上に上げています。俳人は、句を構成するとき、上五と下五を輪郭にして、中七を骨と内臓にした一尾として写生したのでした。『鈴木真砂女全句集』(2001)所収。(小笠原高志)




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