2016N315句(前日までの二句を含む)

March 1532016

 網膜に飼ふ鈍色の蝶一頭

                           杉山久子

に焼きつけるとは、見たものを強く記憶にとどめて忘れないようにすることの慣用句だが、実際に日の下でひとつのものをじっと見ると、目を閉じても浮かびあがる。光りの刺激を受けた視覚は、その光りが消えたのちも網膜が持っている残像効果によって視界に残る。掲句が抒情を超えた現実感を伴うのは、誰しもこのような状態を感覚としてよみがえらせることが可能だからだろう。そして、それでもなお詩情を失わないのは、あの軽やかではかない蝶が、大型動物と同じ一頭二頭と数える事実にもある。それによって蝶は突如として巨大で堅牢な存在となり、作者の眼裏にしばらく消えない刻印を残していったのだ。〈ゆふぐれはやし土筆ほきほき折り溜めて〉〈ぶらんこの立ち漕ぎ明日の見ゆるまで〉『泉』(2015)所収。(土肥あき子)


March 1332016

 白魚や生けるしるしの身を透かせ

                           鈴木真砂女

生について考えさせられます。見る者が、対象の形態を丁寧に写しとることは写生の必要条件でしょう。しかし、写しとったとしても全てを描写し尽くすわけにはいきません。とりわけ五七五の定型の場合には、どの要素を取捨選択するかによって、対象の存在感が変わってきます。俳句の場合、その要素とは言葉の選び方になるでしょう。掲句では、言葉の選択と、音韻、さらに構成の工夫によって一句を白魚一匹として写生しています。真砂女は、小料理屋「卯波」の調理場で仕込みの最中に、生き ている白魚を凝視して驚きます。その透きとおった小さな細身の中には、骨と管と袋と肝が透けて見えます。なんと正直な存在なんだろう。このあけっぴろげな生き様。潔い。これには自己投影もあるでしょう。ところで、中七を「生きる」ではなく、「生ける」を選んで他動詞としたところに、内臓のはたらきを写実した工夫があります。また、下五では「透かし」よりも「透かせ」の方が音の流れがよく、「白魚/しるし/透かせ」でS音を五つ連ねて徹頭徹尾の白魚一匹を俎上に上げています。俳人は、句を構成するとき、上五と下五を輪郭にして、中七を骨と内臓にした一尾として写生したのでした。『鈴木真砂女全句集』(2001)所収。(小笠原高志)


March 1232016

 卒業の前夜に流す涙かな

                           宮田珠子

わずはっとさせられた。明日は卒業式という夜、その胸に去来するものは何だったのだろう。卒業式の涙とは違う涙、多感な十代の姿がありありと感じられるのは、目の前の景がそのまま句となったからだろう。作者は当時四十代、涙をこぼしているのは作者の小学六年生のお嬢さんである。以前にも書いたことがあるが、作者の宮田珠子さんは二人のお嬢さんを残して平成二十五年の秋に五十歳で亡くなられた。〈雛にだけ話したきことあるらしく〉〈子供の日子供だらけてをりにけり〉〈裸子の気になつてゐる臍の穴〉など、独特の愛情あふれる目線で作られた吾子句はいずれも個性が光っている。句会報を整理していて掲出句を見つけたが、あらためてその早逝が惜しまれる。(今井肖子)




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