2016N31句(前日までの二句を含む)

March 0132016

 今日はもう日差かへらず蕗の薹

                           藤井あかり

の薹は「フキノトウ」という植物ではなく、「蕗」のつぼみの部分。花が咲いたあと、地下茎から見慣れた蕗の葉が伸びる。土筆と杉菜のように地下茎でつながっている一族である。しかし、土筆が「つくしんぼ」の愛称を得ているような呼び名を持たないのは、そのあまりにも健気な形態にあるのだと思う。わずかな日差しを頼りに地表に身を寄せるように芽吹く蕗の薹。頭の上を通り過ぎた太陽の光りが、明日まで戻ることはないのは当然のことながら、なんとも切なく思えるのは、太陽に置いてきぼりにされたかのような健気な様子に心を打たれるからだろう。雪解けを待ちかねた春の使いは、今日も途方に暮れたように大地に色彩を灯している。本書の序句には石田郷子主宰の〈水仙や口ごたへして頼もしく〉が置かれる。師と弟子の風通しのよい関係がなんとも清々しい。『封緘』(2015)所収。(土肥あき子)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)


February 2722016

 まほろばを見はるかすがに内裏雛

                           篠塚雅世

年ぶり、と箱から出すお雛様。内裏雛と雪洞しか出さなくなってしまった我が家だが今年もテレビの横に並んでいる。榎本其角に〈綿とりてねびまさりけり雛の顔〉、渡辺水巴に〈箱を出て初雛のまま照りたまふ〉があるが、一年で老けてしまったように思うのも変わらず輝いているように感じるのも、いずれもお雛様らしい。掲出句の作者は、飾られている内裏雛が遠くまほろばを見ているようだ、と言っている。これも、気品のある微笑みと鮮やかで静かなたたずまいがいかにもお雛様らしく感じられる。年に一度出会う時、その時々の心の内がお雛様を通してふと見えるのかもしれない。『猫の町』(2015)所収。(今井肖子)




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