2016N224句(前日までの二句を含む)

February 2422016

 荒畑を打つや突風兒を泣かせ

                           鷲巣繁男

役を終えて戦後帰還した繁男は、北海道に開拓者として入植した。農民出身でなかった本人も家族も、酷寒の地で開拓者として生きたことは想像を絶する。突風のなかに兒を置いたまま、荒地を開墾し荒畑の耕作に精出さざるを得なかった。その時代のことを詠んでいる。中国戦線で羅病して、市川市の国府台陸軍病院入院中に俳句を始めたらしい。樽見博によると「富澤赤黄男が創刊した「火山系」の同人であった」。赤黄男の「天の狼」刊行の実務にかかわった一人である。のち繁男は北海道から大宮へ移った。そのころ私は編集者として初めてお目にかかった。そのときのことをはっきり記憶している。市ヶ谷駅まで出迎え会社まで一緒に歩いた10分間、なぜか黒いタキシードを着た彼は、休むことなく息切らせながらしゃべりつづけた。その後、『記憶の書』や『詩の榮譽』をはじめ何冊かを私は編集担当したが、彼の超ロングの電話には、勤務中何回も付合わされた。それは知る人ぞ知るで、同じことを言う人は他にも多かった。そのことも含めて、今や懐かしい稀有なる超人であった。赤黄男のことはよく聞かされた。他に「切株に兒が泣きのこる畝畦幾重」があり、舊句帖『石胎』がある。「鬣」57号(2015)所載。(八木忠栄)


February 2322016

 孫引きの果てなき獺の祭かな

                           中澤城子

十二候の暦では2月19日の「雨水(うすい)」から3月5日の「啓蟄」までの間を3つに区切って、「獺祭魚」「鴻雁来」「草木萌動」としている。初候である「獺祭」は今日あたりまでをさす。歳時記で獺祭の項をひいたり、検索してみても、どれも同じようなことが書かれている。「獺(かわうそ)が自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。」というのがそれ。とはいえ、1979年以来目撃例がなくおそらく絶滅したとされるニホンカワウソが身近にいない現在では、事実関係は確かめようがない。それでも「獺祭」という言葉は、有名な日本酒の名にもなっており、引用が孫引きであろうと、こちらは絶滅の危険はなさそうである。言葉だけが子々孫々と残る不思議さもまた、いたずら好きの獺に似つかわしいように思えてくる。〈芽柳のやさしく風を抱きにけり〉〈誰もゐぬことも幸せ小鳥来る〉『狐の手袋』(2015)所収。(土肥あき子)


February 2122016

 少年や六十年後の春の如し

                           永田耕衣

衣、七十二歳頃の句です。現実を反転させてみると、時に奇想が生まれる一例です。前後を入れ換えることによって、句が屹立しています。老人が少年を見れば、ふつうなら六十年前の自分を思うでしょう。私も昔は少年だったと懐かしむ。しかし、これでは凡庸な嘆きです。72-60=12といった単なる引き算になってしまって、詩が成り立ちません。人生の時間には、詩的な時間もあるはずです。俳句はそのための方法です。掲句では、「少年や」の切れに注目します。目の前の少年は十二歳くらい。それは、七十二歳の私とは違う。しかし、私にも十二歳の時があった。今、その年頃を目の前にして、まぶしいくらいに思い出す、人生の春。一方、少年は私を見る。それは、六十年後の少年である。その時、少年は、老人の瞳の中に映っている少年の姿を見いだす。そして、自分は、人生の春という季節に生きていることを学びとる。少年は、人生における少年という位置を知り、老人は、少年の姿を受けとめることによって、その瞳と少年の瞳の間に六十年という歳月があることを差し示す。このとき、十二歳の春も七十二歳の春も、同じ春に生きています。人生に身を委ねるよりも、季節に身を委ねる。耕衣だから、そんな、季語の霊性と超時代性を読みます。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)




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