2016N2句

February 0222016

 人のみにあらず春待つ水辺かな

                           稲畑廣太郎

な夕なにきらきら光る水面が目に入る川辺の地に転居して三カ月が経った。先月ごく近所の堤にみみずくが飛来したという。ここ例年のことだというが、野性に暮らすみみずくなど滅多に見る機会もなく、ものめずらしさに何度となく見に行っている。いつ行っても、木の回りには数人のカメラマンが立派なカメラを構えているが、昼間の彼らは当然ながら寝てばかり。見慣れぬ人間に寝姿を撮られて落ち着かないことだろうが、半年ほどの滞在を無事に過ごせるよう祈っている。以前はずいぶん汚れていた水も、今ではみみずくはもとより、鮎も住める程になったという。ところで、北海道の地名に多い「ナイ」や「ベツ」は川を意味しているという。昔から人が川とともに居住してきた証しのような言葉である。まだ身を切るような冷たい風も、水を慕うように川面に触れていく。人間も鳥も、風さえも、水辺に寄り添うように春を待つ。〈下萌に犬は足より鼻が先〉〈路地といふバージンロード猫の妻〉「玉箒」(2016)所収。(土肥あき子)


February 0322016

 巡業や咳をおさへて踏む舞台

                           寿々木米若

の人の名を知る人は減ってきているだろう(1979死去)。戦前から戦後の浪曲界のトップに輝きつづけた浪曲師である。その人気は広沢虎造を凌いでいた。長年、浪曲協会会長をつとめた。十八番とした自作の「佐渡情話」(LP盤で大ヒット)に、私は子どものころからいろんな機会に接してきた。吾作とお光の悲恋物語に、娯楽の少なかった往時の人たちは、ただただ心を濡らしていた。♪寄せては返す波の音 立つは鴎か群れ千鳥 浜の小岩にたたずむは若い男女の語り合い……小学生に「若い男女の語り合い」も「悲恋」も、理解できようはずはなかったが、親たちと一緒になって聴くともなく聴いていた(今も古いテープで時々聴いている)。♪佐渡へ佐渡へと草木もなびく……の「佐渡へ」を「佐渡い」と発音しているのは、明らかな越後訛りだった。それと「あ、あ、あん」「あ、あ、あ、あん」という独特な節回しが、今も耳に残っている。戦後、浪曲師たちが日本各地を巡業してあるいた時期があった。おそらくその時期だったと思われるが、子どものころ、わが家を会場にして興行が打たれたことをはっきり憶えている。記憶にまちがいがなければ、売れっ子の木村友衛、東家浦太郎、春日井梅鶯、他の面々。米若はいなかった。浪曲独特のうなりは特にのどを酷使するから、咳きこむこともあるのだろう。それをおさえての巡業舞台である。米若は俳句を高浜虚子に師事した。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


February 0422016

 立春の木を吐き魚を飲むからだ

                           山下つばさ

日は立春。白々と夜が明ける時刻もだんだんと早くなり、降り注ぐ光も一段と明るさをます。掲載句は不思議な句で一読したときから謎がとけない。このからだの主体はなんなのか。春になると木々も芽を出し、雪解け水に川も沼も水量も豊かに、冬のあいだ水底に沈んでじっとしていた魚も動き始める。この主体は季節の順行に変化する自然そのものかも。訪れた春に木を吐く大地。水の温度の変化を敏感に感じ取って動き始めた魚たちを迎え入れるたっぷりした海や川。謎は謎としてこの句に表された生き生きした自然の動きを自らのからだで感じつつ、今年の春を迎えたい。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


February 0522016

 雑貨屋の空の鳥籠春浅し

                           利普苑るな

と昔前にはどこの町や村にも雑貨屋があった。母は「よろずやさん」と呼んでいたが、何でもちょいとした生活用品が手に入った。今で言うスーパーのルーツみたいなものである。そんな日常の雑貨屋の軒先に鳥籠が覗いている。籠の鳥は紫外線の強さとか空の青さにやって来た春を感じている。早や囀りの気配すら見せている。立春を迎えたばかりの空気は人間の肌にはまだまだ寒い。しかし時は確実に進行する。これから私の近くの利根川周辺では「ケーン、ケーン」と雉が叫び始める。他に<主われを愛すと歌ふ新樹かな><失せやすき男の指輪きりぎりす><卓上の鳥類図鑑暮遅し>などあり。『舵』(2014)所収。(藤嶋 務)


February 0622016

 たわたわと薄氷に乗る鴨の脚

                           松村蒼石

の羽根は見れば見るほど複雑な色合いでそれぞれ微妙に違う。鴨の頭のあたりの暗い青緑色を「鴨の羽色」ということを最近知ったが、そんな体に比べて脚は皆一様に明るいオレンジ色で、陸に上がると体と微妙なバランスだ。たわたわ、という言葉はそんな鴨の脚の大きな水かきの質感を、生き生きというより生々しく感じさせるが、その生々しさでより一層薄い氷の下の水に光が満ちてきて、これは薄氷の句なのだとあらためて思う。それにしても、たわたわ、は字面もさることながらあ音を重ねて、声を出して読むと動きが見え音も聞こえて鴨らしい。『寒鶯抄』(1950)所収。(今井肖子)


February 0722016

 春林の遠空を見つ帯を解く

                           飯田龍太

書に、四万温泉三句とある一句目です。男の句だなと思います。それは、「春林」に漢詩っぽい語感があり、「遠空」に青年的な眼差しがあり、「見つ」「解く」にきっぱりとした切れ味があるからです。いまだ寒き早春の空の下で、素っ裸になっていざ湯に入らんとする無邪気な意気込みがあります。それは、二句目につながります。「娼婦らも溶けゆく雪の中に棲み」。昭和三十年の作で、売春防止法が施行される二年前なので、娼婦という言葉も存在も、とくに温泉地ではふつうのことだったのでしょう。娼婦たちが雪の中の温泉で浄化されているであろう様を、男目線で描いています。三句目は、「男湯女湯の唄睦み合ふ雪解川」です。板塀で仕切られた露天も、女湯からは娼婦らの唄が聞こえてきて、そのうちに睦み合うように声が重なり合います。湯は仕切られていても、唄で混浴している風流。これが、戦後十年のこの時代のきれいな遊びだったのでしょう。うらやましい。『飯田龍太集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


February 0922016

 形なきものにぶつかりしやぼん玉

                           市川 葉

に浮いたしゃぼん玉がぱちんと割れる。それは単に埃がぶつかったのか、重力によって上部が薄くなって割れたのか、なにか理由があるはずだが、人はそこに不思議ななにかを求めてしまう。それはガラスなどのワレモノとは異なり、しゃぼん玉が一滴の液体から生まれた実体のおぼつかないものであることが大きい。今年は凍っていくしゃぼん玉の映像が評判となった。美しくはあったが、それに違和感を覚えたのはしゃぼん玉に形を与えてしまうことへの不自然さなのだと気づいた。しゃぼん玉は、無にもっとも近い存在でなければいけないのだと思う。空に放たれ、震えるようにはじけていく。それらはまるで壊れやすさまでもが美の一端となっている。〈雪兎勝手に溶けてしまひたる〉〈生ビールいつも地球のどこか夜〉『市川葉俳句集成』(2016)所収。(土肥あき子)


February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


February 1122016

 恋猫に夜汽車の匂ひありにけり

                           太田うさぎ

の路地で猫が悩ましげな声で鳴くシーズンになって来た。今や家の中だけで外に出さずに飼われる猫が大半で、悩ましげな声に誘われてするりと家を抜け出し何食わぬ顔で戻ってくる猫は少なくなっているだろう。掲句の猫はきっとそんな自由奔放な猫で、まだ寒い戸外から帰ってきて主人の膝に冷えた身体を丸めたのだろう。抱き上げて顔を寄せればひんやりと外気の匂いがする。外から帰ってきた恋猫に「夜汽車」のイメージをかぶせたことで、本能に従い闇を疾走しつつも主人の膝へ帰ってくる猫が健気に思える。遠い旅から戻ってきたのだ。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


February 1222016

 逆しまに枝を離るる松毟鳥

                           猪俣千代子

毟鳥(まつむしり)は落葉松の葉先の緑を啄むのでこう呼ばれる。ヒタキ科ウグイス目、つまり鶯の仲間である。10センチ程の日本で一番小さい部類の鳥と言われている。秋から早春にかけて小さな群れを作る。その小柄な身軽さから枝から枝への異動も縦横斜め自在な体制で軽妙になされる。冬から春先にかけて餌の少ない時期は葉もそう茂ってはおらず野鳥の観察には好機である。飽きずに眺めていると、「あ、逆さになったな」と思った瞬間にさっと枝を離れていった。本名は「菊戴」と言うがこの場合は秋の季語として使う。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(藤嶋 務)


February 1322016

 春の虹まだ見えるかと空のぞく

                           高濱年尾

の句は、現代俳句の世界シリーズの『高濱年尾 大野林火集』(1985・朝日新聞社)をぱらぱらめくっていて目に留まった。のぞく、という言葉は、狭いところから見るイメージがあり、どこから見ているのだろうと確かめると、年尾集中の最後「病床百吟」のうちの一句であった。「病床百吟」には、昭和五十二年に脳出血で倒れてから、同五十四年十月二十六日に亡くなるまでの作、百十一句が収められている。春の虹は淡く儚いイメージを伴うが、病室の窓からの景色になぐさめられていた作者にとっては、心浮き立つ美しさであったにちがいない。しばらくうとうとしたのか、窓に目をやるともう虹は見えない。ベッドから降りて窓辺に立ち空を見上げて虹の姿を探している作者にとってこの窓だけが広い世界との唯一のつながりであることが、のぞく、という言葉に表れているようで淋しくもある。「病床百吟」最後の一句は〈病室に七夕笹の釘探す〉。(今井肖子)


February 1422016

 鵜の列の正しきバレンタインの日

                           岩淵喜代子

日、日曜のバレンタインデーとなりました。会社や学校では、金曜日に義理チョコ・友チョコが配られたのか、それとも、明日月曜にこれが行なわれるのか。一方で、日曜の今日、わざわざチョコを手渡されたのなら、それは義理ではない友だち以上の本命宣言でしょう。今日手渡されるチョコの純度は高いようです。最近の義理チョコには、義理100%、80%、、50%、、10%、、といった「義理度」が数値化されている品が売られていて、物心がついた時から何かと数値に翻弄されてきた男たちの心をもてあそぶ商品が登場しています。また、宅急便もこの日曜をターゲットにしたスモールサイズが登場し、日本独特のこの風習が、巧みな商魂によって作られた仕掛けであることを物語 ります。 さて、掲句の鵜の列には二通りの読み方が可能です。河畔で魚を狙う鵜が、各々縄張りを確保するために等間隔に佇んでいる様です。この秩序は、義理やしがらみや本音や恋情を一個のチョコに託してパッケージとして渡す形式的行動に通じます。一方、空を飛んでいる鵜なら、その隊列は整然としたV字飛行ですから、バレンタインのV。天地に鵜有り、人に情あり、口にチョコ。『螢袋に灯をともす』(2000年)所収。(小笠原高志)


February 1622016

 てのひらの仔猫けむりのやうにゐる

                           富川明子

が家の三代目となる猫姉妹も今年の春で三才。最初はそれぞれがてのひらに乗るほどの小ささで、クッキングスケールで体重を計っていたが、今ではどちらも約3キロ。二匹同時に膝に乗れば身動きができないほどの成長ぶりである。頼りなく心もとないけむりのような仔猫時代には毎日体重を計ってその成長をグラフにするほど喜ぶ一方で、この可愛い玩具のような日々が長く続けばいいとも思う。身勝手なようだが、どちらも本音であった。とはいえ、がっちり筋肉質で大きく育った猫もそれはそれでとてつもなくかわいいのである。〈ためらはぬとは竹皮を脱ぐかたち〉〈帰省してすぐに鴨居の低さ言ふ〉『菊鋏』(2015)所収。(土肥あき子)


February 1722016

 母逝きて洟水すゝる寒の水

                           車谷長吉

吉が小説の他に俳句を作り、歌仙を巻いていたことはよく知られている。句集に『車谷長吉句集』『蜘蛛の巣』などがある。掲出句の前書には「二月十六日 母逝く 二句」とある。残りのもう一句は「母逝きてなぜか安心冬椿」。葬儀まで死者の枕辺には水を供えるものだが、二月だから「寒の水」である。「洟水すゝる」のは、母に水を供える長吉かもしれない。悲しみと寒さゆえに洟水がたれてくる。母が逝って「なぜか安心」とはいかにも長吉らしい詠み方で、悲しみを直接表現しなくとも、心は悲しい。涙をこぼす以上の悲しさと寂しさが、そこに感じられる。長吉は昨年五月に急逝した。「連れあい」の高橋順子が遺稿集『蟲息山房から』(2015)をまとめた。未刊の小説やエッセイをはじめ、俳句、連句、対談・鼎談、インタビュー、日記などが収められている。そのなかに86句を収めた俳句「洟水輯」と題されたなかの一句である。「句の構想をねっているときが一番楽しい時である」とも、「発句をしていると、あまり人事のことを考えなくて済むので、心が休まる」とも、エッセイのなかに書かれている。よくわかる。そのあたりが俳人とはちょっとちがうのかもしれない。(八木忠栄)


February 1822016

 泣きながらそっと一マスあけはった

                           久保田紺

保田紺さんは大阪の川柳人。四十七歳のときに末期ガンの宣告をうけながらも九年の歳月を生き、数冊の句集をだした。紺さんの「ここからの景色」というエッセイに次の一文がある。「命を限られてからの日々は、確かに辛いものでした。でも決して不幸なことばかりではありません。霧がかかっていた視界は良好となり、好きなものと嫌いなもの。嫌いだと思っていたけど好きなだったもの。必要だと思っていたけれどもそうでなかったもの、そんなものが全部わかるようになりました」句集全体に漂う独特のユーモア、哀愁、やさしさは死への恐怖や不安を乗り越えてのものだった。例えば掲句、泣きながらあけたこの一マスにどれほどの断念があったことか。敬愛してやまない紺さんは闘病やむなく先月亡くなられた。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)


February 1922016

 頬白や人肌ほどに池ひかる

                           雨宮抱星

白(ホオジロ)は一年中見かける鳥であるがその囀りが面白くこれに主眼をおいてここでは春に扱う。スズメよりちょっと大きく栗褐色で、眼の上の二条の白線が特徴である。子育て時には外敵から目を背ける為、自らの擬傷行動で巣を守ったりする。その囀りであるが「一筆啓上つかまつり候」とか「源平つつじ白つつじ」とか聞きなされているのが知られている。実際はチョッチーピーツツチョピーツクとただの鳥の啼き声である。しかし一度人の言葉で聞きなしてしまうと何故か、一筆啓上とか源平つつじとかに聞こえてしまうから不思議なものである。こんな囀りを聴きながら池の畔に立ってみるときらきら光る水面もなんとも柔らかい人肌ほどの光りに見えてしまうのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(藤嶋 務)


February 2022016

 春雨や酒を断ちたるきのふけふ

                           内藤鳴雪

雪といえば、円満洒脱な人柄と共に無類の酒好きであったことが知られており、三オンス瓶に酒を入れどこに行くにも持ち歩いていたという。大正四年十一月三日、ホトトギス婦人俳句会の第一回が発行所で開かれたが、その後句会は長谷川かな女宅で行われるようになり、鳴雪も指導にあたっていた。その折、かな女の御母堂は気配りの細やかなもてなし上手で、酒瓶が空になった頃合いを見計らって目立たぬように三オンス瓶に酒を継ぎ足していた、とは、句座を共にしていた祖母の話の又聞きである。そんな鳴雪が二日も酒を断つとは春の風邪でもこじらせたのかと思ったが、断ちたる、なので、飲めないではなく飲まない、だったのだろう。どんな事情にせよ、春雨ならではの一句である。今日二月二十日は鳴雪忌、青山墓地の一角にある墓前に漂っていた水仙の香など思い出しつつ献杯しようか。『鳴雪句集』(1909)所収。(今井肖子)


February 2122016

 少年や六十年後の春の如し

                           永田耕衣

衣、七十二歳頃の句です。現実を反転させてみると、時に奇想が生まれる一例です。前後を入れ換えることによって、句が屹立しています。老人が少年を見れば、ふつうなら六十年前の自分を思うでしょう。私も昔は少年だったと懐かしむ。しかし、これでは凡庸な嘆きです。72-60=12といった単なる引き算になってしまって、詩が成り立ちません。人生の時間には、詩的な時間もあるはずです。俳句はそのための方法です。掲句では、「少年や」の切れに注目します。目の前の少年は十二歳くらい。それは、七十二歳の私とは違う。しかし、私にも十二歳の時があった。今、その年頃を目の前にして、まぶしいくらいに思い出す、人生の春。一方、少年は私を見る。それは、六十年後の少年である。その時、少年は、老人の瞳の中に映っている少年の姿を見いだす。そして、自分は、人生の春という季節に生きていることを学びとる。少年は、人生における少年という位置を知り、老人は、少年の姿を受けとめることによって、その瞳と少年の瞳の間に六十年という歳月があることを差し示す。このとき、十二歳の春も七十二歳の春も、同じ春に生きています。人生に身を委ねるよりも、季節に身を委ねる。耕衣だから、そんな、季語の霊性と超時代性を読みます。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


February 2322016

 孫引きの果てなき獺の祭かな

                           中澤城子

十二候の暦では2月19日の「雨水(うすい)」から3月5日の「啓蟄」までの間を3つに区切って、「獺祭魚」「鴻雁来」「草木萌動」としている。初候である「獺祭」は今日あたりまでをさす。歳時記で獺祭の項をひいたり、検索してみても、どれも同じようなことが書かれている。「獺(かわうそ)が自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。」というのがそれ。とはいえ、1979年以来目撃例がなくおそらく絶滅したとされるニホンカワウソが身近にいない現在では、事実関係は確かめようがない。それでも「獺祭」という言葉は、有名な日本酒の名にもなっており、引用が孫引きであろうと、こちらは絶滅の危険はなさそうである。言葉だけが子々孫々と残る不思議さもまた、いたずら好きの獺に似つかわしいように思えてくる。〈芽柳のやさしく風を抱きにけり〉〈誰もゐぬことも幸せ小鳥来る〉『狐の手袋』(2015)所収。(土肥あき子)


February 2422016

 荒畑を打つや突風兒を泣かせ

                           鷲巣繁男

役を終えて戦後帰還した繁男は、北海道に開拓者として入植した。農民出身でなかった本人も家族も、酷寒の地で開拓者として生きたことは想像を絶する。突風のなかに兒を置いたまま、荒地を開墾し荒畑の耕作に精出さざるを得なかった。その時代のことを詠んでいる。中国戦線で羅病して、市川市の国府台陸軍病院入院中に俳句を始めたらしい。樽見博によると「富澤赤黄男が創刊した「火山系」の同人であった」。赤黄男の「天の狼」刊行の実務にかかわった一人である。のち繁男は北海道から大宮へ移った。そのころ私は編集者として初めてお目にかかった。そのときのことをはっきり記憶している。市ヶ谷駅まで出迎え会社まで一緒に歩いた10分間、なぜか黒いタキシードを着た彼は、休むことなく息切らせながらしゃべりつづけた。その後、『記憶の書』や『詩の榮譽』をはじめ何冊かを私は編集担当したが、彼の超ロングの電話には、勤務中何回も付合わされた。それは知る人ぞ知るで、同じことを言う人は他にも多かった。そのことも含めて、今や懐かしい稀有なる超人であった。赤黄男のことはよく聞かされた。他に「切株に兒が泣きのこる畝畦幾重」があり、舊句帖『石胎』がある。「鬣」57号(2015)所載。(八木忠栄)


February 2522016

 春雪や吹きガラスまだ蜜のごと

                           津川絵理子

樽のガラス工場を見学したことがある。ちょうど積雪のころでまだ寒い戸外と対照的に工場中は火がかんかんと熾り、長い吹き竿にふーっと息を吹き込むと竿の先に色ガラスがふくらんでいく。飴のように柔らかいガラスの様を「まだ蜜のごと」と表現したことで熱をもったガラス器の触れればぐにゃりと歪んでしまいそうな状態がよく言い表されている。明るく軽い春雪との取り合わせも新鮮だ。「まだ」の一言が単なる比喩を超えた臨場感といきいきとした印象を読み手に残すのだろう。上手く書けている俳句と心に残る俳句の違いは些細なようで大きい。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


February 2622016

 大渦へ巻き込む小渦春かもめ

                           山内美代子

もめ(鷗)が少し春めいてきた海に遊んでいる。人の肌にはまだまだ寒い海風だが野生の鳥たちは羽毛に包まれて平然と群れ遊んでいる。人の眼には遊んでいると見えるけれど本当は生きるための厳しい生業の中にあるのかも知れない。小さな渦に狙った餌が巻き込まれその渦も大きな渦に吸い込まれてゆく。鷗の餌の追走は果たせるだろうか。人の目にひねもすのたりのたりに見える春の海だが、野生のものにとっては厳しい現実がある春先の海ではある。作者は事の成り行きを見守って佇んでいる。趣あるこの墨彩画と俳句集には他に<定年や少しあみだに冬帽子><雲雀笛園児揃ひの黄の帽子><折り合ひをつけて暮して合歓の花>など生活に詩情が溢れた作品が並ぶ。「藤が丘から」(2015年)所載。(藤嶋 務)


February 2722016

 まほろばを見はるかすがに内裏雛

                           篠塚雅世

年ぶり、と箱から出すお雛様。内裏雛と雪洞しか出さなくなってしまった我が家だが今年もテレビの横に並んでいる。榎本其角に〈綿とりてねびまさりけり雛の顔〉、渡辺水巴に〈箱を出て初雛のまま照りたまふ〉があるが、一年で老けてしまったように思うのも変わらず輝いているように感じるのも、いずれもお雛様らしい。掲出句の作者は、飾られている内裏雛が遠くまほろばを見ているようだ、と言っている。これも、気品のある微笑みと鮮やかで静かなたたずまいがいかにもお雛様らしく感じられる。年に一度出会う時、その時々の心の内がお雛様を通してふと見えるのかもしれない。『猫の町』(2015)所収。(今井肖子)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます