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January 0712016

 人日の鳥のぼさぼさ頭かな

                           櫻木美保子

月七日は「人日」なぜこのように呼ぶのか。「一日には鶏、二日に狗、三日に羊、四日に猪、五日に牛、六日に馬、七日に人を占い八日に穀を占う。毎日の天候によって動物や人の一年を占い皆、清明温和な天候であれば畜息安泰、陰寒惨烈なら疾病衰耗と為す」と平井照敏の「新歳時記」に説明がある。「人日」という言葉を知ったのは俳句を始めてからで、七日と言えば七草粥を食べ、学校が始まる日と思っていた。鳥のぼさぼさ頭と言えば、ウッドペッカーやスヌーピーのウッドストック、はたまたハシビロコウが思い浮かぶ。ぼさぼさ頭が寝起きの頭のようで愛嬌がある。きっと人間が動きだす日なんぞ鳥には関係ない、とシニカルなまなざしでのんびり眺めていることだろう。『だんだん』(2010)所収。(三宅やよい)


January 0612016

 はつ夢や誰(た)が見しも皆根無し草

                           三遊亭圓朝

夢のような噺「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」や「心眼」を始めとする、因果応報の傑作落語をたくさん作った“落語中興の祖”圓朝。名作は古びることなく今日でもさかんに上演されているけれど、彼はいったいどんな初夢を見ていたのだろうかーー。「根無し草」とはうまい指摘ではないか。例外もあろうけれど、夢はおよそ根無し草かもしれない。圓朝の言葉でそう言われると、うーん、説得力がある。「初夢」という言葉は『山家集』(鎌倉時代)に初めて登場するらしい。その時代は立春が新年の始まりとされ、節分から立春にかけての頃に見る夢のことを言ったらしい。今日では元日の夜から二日にかけてみ見た夢を「初夢」と言っている。諸兄姉はどんな初夢をご覧じたか? 七福神の宝船の絵に「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」(長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな)という回文の歌を書いて、枕の下に置いて寝ると良い夢が見られる、と言う習慣は江戸時代に確立された。たとえ「根無し草」であっても、良い夢を見たいのが人情。一富士二鷹……。圓朝の新年の句には「をしげなくこぼしてはいる初湯かな」がある。永井啓夫『三遊亭圓朝』(1962)所収。(八木忠栄)


January 0512016

 子の声が転がつて来る雪の上

                           山崎祐子

中学校の冬休みは地域によってまちまち。それでも今日はまだどこも冬休みである。三ヶ日やお年始というおとなしくしていなければならない大人の行事への付き合いも終わり、普段通りに思いっきり遊べる日がやってきた。子どもというのは遊べる日というだけで心は躍る。おまけに雪が積もっているとなれば、大喜びで飛び出していくことだろう。掲句の遊びはソリなのか、雪合戦なのか。どちらにしても、いつもよりスピードを感じさせ、通り過ぎてゆく声である。子どもの声の高さや笑い声を「転がつて来る」としたところで、雪玉がだんだんふくらんでいくような楽しさにつながった。〈形見とは黴に好かれてしまふもの〉〈風鈴を百年同じ釘に吊る〉『葉脈図』(2015)所収。(土肥あき子)




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