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December 31122015

 大年の土間のバイクと日のすぢと

                           大石香代子

会の家は土間を作る余裕などないのだろうが、昔の作りの家は玄関の引き戸を開けると比較的広い土間があって、雨がひどい日などは自転車や外の植木などを取り込んだものだ。外と段差がない土間ならではの収納スパースはいろいろなことに活用された。ある家では軽自動車が両端ぎりぎり収まっていて、なんという運転技術。と驚いたこともある。おおみそかの日、家のうちもすっかり片付いて。今年一年働いてくれたバイクも磨き上げ、土間に引き入れた。引き戸の間から差し込む光は今年最後の「日のすぢ」でもある。ひと仕事終えて、ふっと目をやった先にあるひっそりとした大晦日の空気感が表現されている。『鳥風』(2015)所収。(三宅やよい)


December 30122015

 行く年しかたないねていよう

                           渥美 清

さん、じゃなかった渥美清が亡くなって、来年は二十年目となる。早いものだ、と言わざるを得ない。世間恒例のあれこれの商戦や忘年会も、過剰なイルミネーション(当時はそれほどでもなかったか)も、ようやく鳴りをひそめてきた年末。あとは残った時間が否応なく勝手に刻まれるだけ。反省しようとジタバタしようと、年は過ぎ行くのみ。「しかたない」のである。だから「ねていよう」というのである。いいなあ。どこやら、寅さん映画に出てくる旅先、お馴染みの寅さんの姿が目に浮かぶ。上五・中七の字足らずの不安定感が、年も押し詰まった旅の空で、皮鞄を脇にして寝るともなく寝ている姿を彷彿させてくれる。いや、清自身も実際にそういう生き方をしていたのかもしれない。「話をしようにも話し相手すらいない旅の一夜である。(中略)実体験であろうが、寅さんの旅のワンシーンにも重なってくる」と石寒太は鑑賞している。その通りだ。四十五歳だった清が、一九七三年十二月の「話の特集句会」に投じた句である。「立小便する気も失せる冬木立」の一句がならんでいる。森英介『風天』(2008)所載。(八木忠栄)


December 29122015

 一日の終ひの寝息蜜柑剥く

                           富樫 均

息はもちろん作者のものではなく、家族の誰かのもの。おそらく、子どもの健やかな寝息を確認したあとの、夫婦におとずれた心休まる時間だろう。蜜柑の清冽な香りと、元気や活気を感じさせる色彩が、家族とともに今、幸せなひとこまを過ごしていることを実感する。今年もあと数日。一日のおしまいが、一年のおしまいとなる日も近い。おだやかな一年を過ごせたことに感謝しつつ、またひとつ蜜柑に爪を立て、幸せな時間を堪能する。『風に鹿』(2006)所収。(土肥あき子)




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