2015N1229句(前日までの二句を含む)

December 29122015

 一日の終ひの寝息蜜柑剥く

                           富樫 均

息はもちろん作者のものではなく、家族の誰かのもの。おそらく、子どもの健やかな寝息を確認したあとの、夫婦におとずれた心休まる時間だろう。蜜柑の清冽な香りと、元気や活気を感じさせる色彩が、家族とともに今、幸せなひとこまを過ごしていることを実感する。今年もあと数日。一日のおしまいが、一年のおしまいとなる日も近い。おだやかな一年を過ごせたことに感謝しつつ、またひとつ蜜柑に爪を立て、幸せな時間を堪能する。『風に鹿』(2006)所収。(土肥あき子)


December 28122015

 老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗

                           坪内稔典

生観などというものは、それを考える者の年齢や体調によって変化する。夏くらいから調子をくずして、病院通いがつづいていた。ここに来て無罪放免とはいかないけれど、一応日常的には病院と縁が切れたのだけれど、最近は自分の死に方についてあれこれ考える機会が多くなってきた。そんななかで出会った一句だが、いまの私の死生観に近い心境が詠まれていると思った。ざっくばらんに言ってしまえば生きていることについて、「もうこの辺でいいや」という感覚が濃くなってきた。といって自暴自棄というのではなく、句にあるような一種なごやかな思いのうちに死んでいけそうという思いのなかで、人生上の納得が得られそうな気が得られそうだからだ。まこと人がおだやかに逝くとは、栗がほっかり爆ぜるように、やすらかな自爆を起こすからなのだろう。『ヤツとオレ』(2015)所収。(清水哲男)


December 27122015

 百八はちと多すぎる除夜の鐘

                           暉峻康隆

者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)




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