2015年12月27日の句(前日までの二句を含む)

December 27122015

 百八はちと多すぎる除夜の鐘

                           暉峻康隆

者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)


December 26122015

 千の葉の国に住みつき大根食ぶ

                           鳥居三朗

葉という県名は、県庁所在地の千葉市の地名から名付けられたというが、千葉という地名そのものの由来は諸説ある。しかし、千の葉、と美しい言葉で表現されると、豊かな自然と土壌が思われてなるほどと思う。千葉県八千代市にお住いだった作者、千葉名産のピーナッツが好物と伺ったが、今日は大根を食べている。今が旬のこの野菜、生でも煮ても焼いてもおいしく、その生活感が日常の幸せを思わせる。都会過ぎないけれど便利で住みやすい八千代での暮しにしみじみと幸せを感じながら、よく煮えて味のしみた大根をおいしそうに食べている様子が思い浮かぶ。飾らず優しく自然体だった鳥居三朗さんだが、今年の九月、あっというまに旅立たれてしまわれた。思い出されるのは笑顔ばかり、心よりご冥福を祈りつつ今年最後の一句に。合掌。『てつぺんかけたか』(2015)所収。(今井肖子)


December 25122015

 ペンギンのネクタイ揃うクリスマス

                           曽我喜代

ンギンは主に南半球に生息する海鳥であり、飛ぶことができない。ほとんどのペンギンは他の鳥類と同様に春から夏にかけて繁殖するが、最大種のコウテイペンギンは、-60℃に達する冬の南極大陸で繁殖する。そのため、世界で最も過酷な子育てをする鳥と言われる。その容姿は燕尾服の正装を思わせ蝶ネクタイでもしている雰囲気で直立している。そんなペンギンの群れはあたかも夜会服に一同打ち揃ったかのように見えてくる。そう言えば今日は我家にも珍しく家族全員が揃った。話が弾むこの平凡に感謝するクリスマスの食卓である。「朝日俳壇」(「朝日新聞社」2015年1月5日付)所載。(藤嶋 務)




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