2015ソスN12ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 16122015

 前のめりなる下駄穿いてわが師走

                           平木二六

走と言っても、それらしい風情は世間から少なくなった。忘年会の風習は残っているけれど、街にはいたるところ過剰なイルミネーションが、夜を徹してパチクリしているといった昨近である。かなり以前から、「商戦の師走」といった趣きになってしまっている。師も足繁く走りまわることなく、電子機器上で走りまわっているのであろう。諸説あるけれど、昔は御師(でさえ)忙しく走っていた。「前のめり」になるほど歯が減ってしまった下駄を穿いて走りまわる、それが暮れの十二月ということだった。下駄は年末まで穿きつぶして新調するのは正月、という庶民の生活がまだ維持されていた時代が掲出句からは想像される。靴ではなくまだ下駄が盛んに愛用されていた、私などが子どもの時代には、平べったくなるまで穿きつぶして、正月とかお祭りといった特別のときに、新しい下駄を親が買って与えてくれた。前のめりになって、慌ただしく走りまわっている姿が哀れでありながら、どこか微笑ましくも感じられる。二六の句には他に「短日や人間もまた燃える薪」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 15122015

 うつぷんをはらして裸木となれり

                           岬 雪夫

憤(うっぷん)とは、表面には出さず心の中に積もり重なった怒りや恨み。作者は裸木を見上げ、覆われていた木の葉をふるい落としてせいせいとした風情であると見る。固定観念として裸木に込められた孤高や孤独のイメージは崩れさり、一転木の葉や花が樹木にとってあれこれ気を使わねばならなかった要因のように思われる。裸木の裸とは、寒さに震えるものではなく、また生まれ直す原点に戻ることなのだ。裸一貫で風のなかに立つ木のなんと雄々しく清々しいことだろう。『謹白』(2013)所収。(土肥あき子)


December 14122015

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。(清水哲男)




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