2015N1215句(前日までの二句を含む)

December 15122015

 うつぷんをはらして裸木となれり

                           岬 雪夫

憤(うっぷん)とは、表面には出さず心の中に積もり重なった怒りや恨み。作者は裸木を見上げ、覆われていた木の葉をふるい落としてせいせいとした風情であると見る。固定観念として裸木に込められた孤高や孤独のイメージは崩れさり、一転木の葉や花が樹木にとってあれこれ気を使わねばならなかった要因のように思われる。裸木の裸とは、寒さに震えるものではなく、また生まれ直す原点に戻ることなのだ。裸一貫で風のなかに立つ木のなんと雄々しく清々しいことだろう。『謹白』(2013)所収。(土肥あき子)


December 14122015

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。(清水哲男)


December 13122015

 冬空は一物もなし八ヶ岳

                           森 澄雄

書に、「甲斐より木曽灰沢へ 十句」とある中の四句目です。二句目に「しぐれより霰となりし山泉」があります。山あいの泉を訪ねているとき、しぐれは霰に変わり、寒さの実感が目にもはっきり見える趣きです。この二句目は、しぐれ、霰、泉という水の三つの様態を一句の中に盛り込んでいて、掲句の「一物もなし」に切れ味を与えています。諏訪盆地あたりから見た八ヶ岳でしょうか。独立峰ではなく連山を下五に置くことで、広角レンズで切り取ったような空の広さを提示しています。この冬空は、水気が一切ない乾燥した青天です。ところで、当初は七句目の「山中や雲のいろある鯉月夜」を取りあげるつもりでしたが、単独で読むと句意も季節もはっきりしないので、断念しました。「鯉月夜」は、たぶん造語です。木曽谷の山中に移動して、月夜の空を見上げると、雲の色彩によって、それが鯉の鱗のように見えたということでしょうか。鯉の養殖が盛んな土地でもあるので、今宵の食卓に鯉こくを期待する心が、雲を鯉に見立てさせたのか。恋しいに掛けたわけではないでしょうが、鯉月夜という語が食欲と結びついた風景なら、茶目っ気があります。なお、十句目の「やや窶(やつ)れ木曽の土産に山牛蒡(ごぼう)」以外は叙景の句なので、鯉こくを食べながら月夜を見ているのではなさそうです。と、ここまで書いて、「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん」という声が聞こえてきました。「鯉月夜」とは、池の水面に雲と月が映り込んでいるその下で、鯉がひっそり佇んでいる。そんな写生のようにも思えてきました。宿の部屋から池の三態を眺めているならば、これも旅情でしょう。『鯉素』(1977)所収。(小笠原高志)




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