2015N124句(前日までの二句を含む)

December 04122015

 菜屑など散らかしておけば鷦鷯

                           正岡子規

鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。(藤嶋 務)


December 03122015

 老人が群れてかごめや十二月

                           筑紫磐井

稚園や小学校低学年で「かごめ」や「あんたがたどこさ」や「はないちもんめ」を楽しんだのはどの世代までだろう。もはや子供が群れて遊ぶ路地もなく、ぶらんこと滑り台の取り残された公園はがらんとしている。それぞれの家で子供たちは何をして遊んでいるのか。掲句では「老人が群れて」とあるが老人たちが自発的に集まって歌いながら「かごめ」をやっているなら牧歌的だが、老人が集められる施設での光景を連想させる。一年の最後の月で働きざかりの人には何かとあわただしい十二月だが、もはや曜日も月も関係のなくなった老人が群れてかごめに興じる姿は十二月であるだけに物悲しい。『我が時代』(2014)所収。(三宅やよい)


December 02122015

 懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ

                           石原吉郎

郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)




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