2015N123句(前日までの二句を含む)

December 03122015

 老人が群れてかごめや十二月

                           筑紫磐井

稚園や小学校低学年で「かごめ」や「あんたがたどこさ」や「はないちもんめ」を楽しんだのはどの世代までだろう。もはや子供が群れて遊ぶ路地もなく、ぶらんこと滑り台の取り残された公園はがらんとしている。それぞれの家で子供たちは何をして遊んでいるのか。掲句では「老人が群れて」とあるが老人たちが自発的に集まって歌いながら「かごめ」をやっているなら牧歌的だが、老人が集められる施設での光景を連想させる。一年の最後の月で働きざかりの人には何かとあわただしい十二月だが、もはや曜日も月も関係のなくなった老人が群れてかごめに興じる姿は十二月であるだけに物悲しい。『我が時代』(2014)所収。(三宅やよい)


December 02122015

 懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ

                           石原吉郎

郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)


December 01122015

 藁玩具買ひふくろふに鳴かれけり

                           橋本榮治

を収穫したあとの藁は、生活のあらゆる場面で活用されていた。わらじや草履、縄、むしろ、わら半紙などもなつかしい。実用的なもの以外にも郷土玩具としてさまざまな細工物となって多くの人の手に取られてきた。歌川広重の「雑司ヶ谷之図」には鬼子母神門前の料理屋や参拝客が描かれており、手には「すすきみみずく」が提げられる。この玩具の由来は病気の母の薬を買うことができなかった貧しい少女の夢枕に一匹の蝶が現れ、「芒の穂でみみずくを作り、お堂の前で売るとよい」と託されたという。どれほど貧窮していようと藁だけは手に入れることができたのだ。掲句の玩具が「すすきみみずく」であるとは限らないが、下五の「鳴かれけり」によって、手にした玩具にふくろうが同調するようにも思えてくる。『放神』(2008)所収。(土肥あき子)




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