ハロウイーン。また渋谷あたりで大騒ぎか。ま、いいけど。(哲




2015ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102015

 あぐらゐのかぼちやと我も一箇かな

                           三橋敏雄

んと置かれている、と形容するにふさわしいものの一つが南瓜だろう。大ぶりで座りがよくごつごつ丸い。確かにその姿は、胡坐をかいているような安定感がある。目の前に置かれてある南瓜の前で作者も胡坐をかいていて、その空間には南瓜と二人きり。じっと見ているうちになんとなく、ここに在るのは南瓜その他計二個、という気分になってくる。それは自虐とまでは言えない少し笑ってしまうような微妙な感覚だ。そんな気持ちにさせてくれる物は、よく考えると南瓜以外に無いかもしれない。個と箇は、意味その他大差は無いが、人偏より竹冠の方が一層モノ感が増す。この時期、ハロウイーン騒ぎで世の中に南瓜が蔓延していて、南瓜嫌いとしては辟易している。本日まさにその万聖節の前夜祭らしいが、歳時記の南瓜の項を読んで掲出句に出会えたのがせめてもの幸せだ。『新日本大歳時記 秋』(講談社・1999)所載。(今井肖子)


October 30102015

 鵜は低く鶫は高き渡りかな

                           坂部尚子

面に鵜(ウ)が低空飛行している。その遥か上空に一団の鳥がざわざわと渡っている。鶫(ツムギ)である。渡り鳥を見ていると何故安住の地を探し留まらないのか不思議に思う事がある。 藤田敏雄作詞の若者たちの歌詞ではないが、「君の行く道は、果てしなく遠い、だのになぜ、歯をくいしばり君は行くのか、そんなにしてまで」と思うのである。子育てとか食糧だとか鳥には鳥の都合があるのだろう。北から渡った鶫たちはやがて人里に散り、我々の周辺を跳ね歩く事となる。他に<萩刈るや裏山渡る風の音><色葉散る幻住庵の崩れ簗><円空の墓も小径も竹の春>など。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)


October 29102015

 上着きてゐても木の葉のあふれ出す

                           鴇田智哉

思議な句である。風の又三郎のようにこの世にいながらこの世の人でないような人物の姿が想像される。上着の下に隠された身体からどんどん木の葉があふれだしてしまい、はては消えてしまうのだろうか。風に舞い散る木の葉、頭上から落ちてくる木の葉。落ちた木の葉を掃いて集めてもふわふわ空気を含んでなかなか収まらず袋に入れようとしてもあふれ出てしまう。上着を着ていることと、木の葉があふれることに何ら関係もないはずなのだが、「着てゐても」という接続でまったく違うイメージが描き出されている。特別なことは言っていないのに違う次元の世界に連れ出されるこの人の句はつくづくスリリングである。『凧と円柱』(2014)所収。(三宅やよい)




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