2015N1024句(前日までの二句を含む)

October 24102015

 わが影と酌みゐる雨の十三夜

                           大野崇文

初めの帰り道、空を見上げると薄い月がひらりと浮いていた。日が落ちるとぐっと冷え込むこのところだがそう言えば明日は十三夜、南中時刻は午後十時少し前だという。十三夜はそれだけで風情があり、雨の十三夜となればいっそうもの淋しいはずだが、掲出句を読むと淋しさというより、ゆっくりと一人酒を酌みながら深まる秋の夜を楽しむ作者が見えてくる。雨の向こう側の少し欠けた月に自分自身の姿を重ねたりもしながら、そこには優しい時間が流れている。他に〈塗椀の手にひたと添ひ後の月〉〈   しづかなる水のこころに後の月〉。「月が遊んでくれているような思いもある」(句集あとがきより)という作者の月への思いは静かで、深い。『遊月抄』(2008)所収。(今井肖子)


October 23102015

 鵯鳴いて時間できざむ朝始まる

                           星川木葛子

ーよぴーよと騒々しい声が聞こえる季節になった。鵯(ヒヨドリ・ヒヨ)である。山から人里近くの雑木林に群れをなし現れ、それぞれが庭などに散って、南天・ヤツデ・青木などの色の実を啄む。山茶花や椿の花蜜も吸う。地上に下りることはほとんどなく、ピーヨ、ピーヨとやかましく鳴く。主婦の朝は早い。家族の食卓を整え会社や学校に送り出す作業はそれこそ秒刻み。甲高い鵯の声が聞こえ、その主婦の朝が始まる。とんとんとんと包丁が野菜を刻む。『合本・俳句歳時記(新版)』(1990角川書店)所載。(藤嶋 務)


October 22102015

 秋うらら他人が見てゐて樹が抱けぬ

                           小池康生

阪と違い東京の公園は大きな樹が多い。新宿御苑、浜離宮、新江戸川公園など昔の武家屋敷がそのまま公園として保存されているからだろう。この頃はグリーンアドベンチャーとか言って、木肌や葉を見て札で隠された樹木の名を当てながらオリエンテーリングできるようになっている。クスノキやケヤキの大木は見ているだけでほれぼれするけれど時には太い幹に腕を回して、木肌に身体をあてて生気をもらいたくなる。ひとところに動かぬまま根を張り何百年も生き続ける樹木はそれだけで偉大だ。かぎりなく透明に晴れ渡った秋空にそびえる太い幹を抱いてみたいが「他人が見てゐて」樹が抱けぬと。まるで恋人を抱くのを他人に見られる恥じらいを感じさせるのがおかしい。抱けばいいのに。でもやっぱり恥ずかしくてできないだろうな、私も『旧の渚』(2011)所収。(三宅やよい)




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