プロ野球クライマックス・ファイナルステージ。そんな季節だ。(哲




2015ソスN10ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 14102015

 門近く酒のいばりすきりぎりす

                           木下杢太郎

呑みならば、誰もが心当たりのあるような句である。「酒のいばりす」とは言え、まさか酒そのものが小便をするというはずは勿論ないし、「いばりすきりぎりす」とは言え、きりぎりすが小便をするというわけでもない。今夜どこぞでしこたまきこしめしてきたご仁が帰って来て、門口でたまらず立ち小便している。(お行儀が悪い!と嘆く勿れ)そのかたわらできりぎりすがしきりに鳴いているーーという風情である。そろそろ酔いも覚めてきているのかもしれない。もう少し我慢して家のなかのトイレで用をたせばいいものを……敢えて外で立ち小便するのがこたえられないのである。わかるなあ! しかも、かたわらではきりぎりすが「お帰りなさい」と言わんばかりに鳴いている深夜であろう。今夜の酒は、おそらく快いものだったにちがいない、とまで推察される。飲んだとき、秋の俳句はこうありたいものだと思う。杢太郎が詠んだ俳句は多い。ほかに「ゆあみして障子しめたり月遅き」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 13102015

 虫の音に満ちたる湯舟誕生日

                           山田径子

の声が力強く響く夜。同じ季節の風物詩でありながら蝉や蛙のように「うるさい!」と一喝されないのは、心地よい秋の空気も味方をしてくれているのだろう。西欧人が虫や鳥の声を音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳が働くという。鳥の聞きなしや虫の音を「虫の声」と表現する日本語を思うと、大きく頷ける。掲句は湯船につかる幸せなひとときに、虫の音がたっぷりと届く。「満ちる」の斡旋によって、さみしげな印象を振り払い、誕生日の今日を寿ぎ、一斉に合奏してくれているようなにぎやかさに包まれた。湯船にひとり、幸せな虫の音の海にたゆたう。と、私事ながら本日誕生日(^^)〈いくたびも大志を乗せし船おぼろ〉〈林立も孤立も蒲の穂の太し〉『楓樹』(2015)所収。(土肥あき子)


October 12102015

 晩秋や妻と向きあふ桜鍋

                           小川軽舟

の生まれた背景を日記風に綴った句集より、本日の日付のある句。俳句は日常のトリビアルな出来事に材を得る表現でもある。言ってみれば、消息の文芸だ。読者はしばしば作者と同じ季節と場所に誘われ、そこに何らかの感慨を覚える。むろん、覚えないこともあり得る。作者によれば、妻と桜鍋を囲んだのは「みの家」だそうだが、この店なら違う支店かもしれないが、私もよく知っている。久しぶりの妻との外食だ。考えてみれば、妻と待ち合わせての外食の機会はめったにない。どこの夫婦でも、そうだろう。だから久しぶりにこうして外で顔を突き合わせてみると、ちょっと気恥ずかしい感じがしないでもないけれど、お互い日常的に知り抜いた同士だからこその、なんだか面はゆい感覚が良く出ているのではあるまいか。「さあ、食うぞ」という友人同士の会合とはまた一味も二味も違う楽しさも伝わってくる。『掌をかざす・俳句日記2014』(2015)所収。(清水哲男)




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