大相撲。野性的な取り口のエジプト出身「大砂嵐」に注目中。(哲




2015ソスN9ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2292015

 秋の蝿日向日向へ身をずらす

                           大崎紀夫

になって命終が近づきつつある蝿に思う哀れが季題となっているのは秋の蝿のほかにも秋の蚊や秋の蝶があるが、秋の蝿にはひとしおの物悲しさが感じられる。以前、蝿は食べ物に止まり、病原菌を媒介する厄介な虫の代表であったが、住環境の向上により近年では激減した。家庭には必ずといってあった蝿叩きや、蝿帳もいつのまにか姿を消している。普段見かけないうえに、日差しも頼りない秋になってから見つける蝿には、憎い存在というより、発見の喜びすらあるような気がする。掲句でも日向から日向へと弱々しく移動する蝿に感じているのは、おそらく自分の日向まで明け渡すこともやぶさかではない同情の視線である。ぬくもりを探しながら生きていくことの愛おしさが、「ずらす」といういじらしい移動表現となったのだろう。『虻の昼』(2015)所収。(土肥あき子)


September 2192015

 鳥渡とは鳥渡る間や昼の酒

                           矢島渚男

句には「鳥渡」に「ちよつと」と振り仮名がつけてある。「鳥渡」も、いまや難読漢字なのだろう。私の世代くらいまでなら、むしろこの字を読める人のほうが多いかもしれない。というのも「鳥渡」は昔の時代小説や講談本に頻出していたからである。「鳥渡、顔貸してくんねえか」、「鳥渡、そこまで」等々。「鳥」(ちょう)と「渡」(と)で「ちょっと」に当てた文字だ。同じく「一寸」も当て字だけれど、「鳥渡」はニュアンス的には古い口語の「ちょいと」に近い感じがする。それはともかく、この当て字を逆手にとって、作者はその意味を「鳥渡る間のこと」として、「ちょっと」をずいぶん長い時間に解釈してみせた。むろん冗談みたいなものなのだが、なかなかに風流で面白い。何かの会合の流れだろうか。まだ日は高いのだが、何人かで「ちょっと一杯」ということになった。酒好きの方ならおわかりだろうが、この「ちょっと」が実に曲者なのだ。最初はほんの少しだけと思い決めて飲み始めるのだけれど、そのうちに「ちょっと」がちつとも「ちょっと」ではなくなってくる。そんなときだったろう。作者は誰に言うとなく、「いや、『鳥渡』は鳥渡る間のことなんだから、これでいいのさ」と当意即妙な解釈を披露してみせたのである。長い昼酒の言い訳にはぴったりだ。これは使える(笑)。『百済野』所収。(清水哲男)


September 2092015

 しんじつの草の根沈み蛇は穴へ

                           金子兜太

の彼岸の頃に蛇は穴を出る。秋の彼岸の頃に蛇は穴に入る。季語の上ではこのような習わしになっていますが、蛇が冬眠の準備を始めるのはもう少し先のことです。掲句は、『詩経國風』(1985)所収。「あとがき」によると、『詩経』は、孔子によって編まれた極東最古の詩集で、その中で「風」に分類された詩編は、恋を歌い、農事を歌い、暮らしの苦しさを訴え、為政者への反省をうながす歌謡です。ところで、小林一茶は41歳のとき、一年がかりで孔子の『詩経國風』と睨めっこをしながら俳句を作り俳諧 修行をしました。当代随一の一茶信奉者である金子兜太は、一茶の句を理解するためには原典を読まないわけにはいかないと考え、「読むほどにミイラ取りがミイラになってしまったのである。(略)古代中国の歌のことばをしゃぶりながら、私は歌の背後の現実と人々の哀歓愛憎にまで感応してゆき、俳句にことばを移しつつ同時にその感応を書き取ろうとした」とあります。句集は「麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人」から始まり、所々に『詩経』の言葉が織り交ざる句が連なりますが、掲句は句集の終わりから二番目の位置です。この句は、孔子と一茶へのオマージュのようでもあり、あとがきでは自身を「盲蛇」に喩えているので『詩経』に対峙した自画像のようにも読みとれます。「しんじつ」とは、真の実 です。それは、言の葉から花が咲き、結実することです。そのためには、草の根を沈めて、盲蛇のような自分は『詩経』の穴の中に沈んで、沈潜して、ようやく真の実りを得られるのかもしれません。そんな寓意を読みとりました。(小笠原高志)




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