台風18号接近中。雨台風らしいが、被害が出ませんように。(哲




2015ソスN9ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0892015

 波音の平たくなりぬ秋の海

                           和田順子

く澄む空と呼応するように色が深まった秋の海。猛々しい太陽光にさらされ、にぎやかな人間に付き合った季節が過ぎ、海は海としての日常を取り戻す。沖で生まれた波が、渚に触れるときにたてる音は、そのひとつひとつが安らかな海の呼吸のように聞こえてくる。海から続く地に立つ爪先にも、その息吹は静かに、しかし力強く響く。波音が平たいとは、おだやかな音としての感覚だけではなく、こちらへと伸びてくるような形状もまた思わせる。秋の浜に立つ者は、胸の奥に届いた海の分身をこぼれないように持ち帰る。『流砂』(2015)所収。(土肥あき子)


September 0792015

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

の夏の日本列島も激しい雨に襲われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。そんな経験をしたせいで、この秋は掲句がとりわけて身にしみる。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。『延年』所収。(清水哲男)


September 0692015

 名月やマクドナルドのMの上

                           小沢麻結

れ字が効いています。それは、遠景と近景を切る効果です。また、月光と人工光を切り離す効果もあります。句の中に二つの光源を置くことで、「名月」も「M」も、デジタルカメラで撮ったように鮮明かつ双方にピントが合った印象を与えています。視覚的にはフラットなイメージを受けますが、名月を詠むからには、自ずと先人たちの句を踏まえることになるでしょう。名月を入れた二物を詠む場合、先人たちは山や雲や樹や水面など、自然物と取り合わせる詠み方がふつうでした。例えば、其角に「名月や畳の上に松の影」があります。これも、切れ字によって空間を切り分けていますが、掲句と違う点は、光源が名月だけである点と、時の経過と風の有無によって「松の影」が移ろう点です。これに対して、「マクドナルドのM」は停電しないかぎり変化しません。それは、都市の記号として赤い電光を放ち続け、街々に点在しています。ところで、句集には「月探す表参道交差点」があります。これをふまえて掲句を読むと、「名月」は、あらかじめ作者の心の中に存在していただろうと思われます。その心象が現実を引き寄せて、都市の記号M上に、確かに出現しました。それは、Meigetsuと呼応しています。『雪螢』(2008)所収。(小笠原高志)




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