すっかり涼しくなった。しかし、何たる騒々しき秋の到来か。(哲




2015ソスN9ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0792015

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

の夏の日本列島も激しい雨に襲われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。そんな経験をしたせいで、この秋は掲句がとりわけて身にしみる。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。『延年』所収。(清水哲男)


September 0692015

 名月やマクドナルドのMの上

                           小沢麻結

れ字が効いています。それは、遠景と近景を切る効果です。また、月光と人工光を切り離す効果もあります。句の中に二つの光源を置くことで、「名月」も「M」も、デジタルカメラで撮ったように鮮明かつ双方にピントが合った印象を与えています。視覚的にはフラットなイメージを受けますが、名月を詠むからには、自ずと先人たちの句を踏まえることになるでしょう。名月を入れた二物を詠む場合、先人たちは山や雲や樹や水面など、自然物と取り合わせる詠み方がふつうでした。例えば、其角に「名月や畳の上に松の影」があります。これも、切れ字によって空間を切り分けていますが、掲句と違う点は、光源が名月だけである点と、時の経過と風の有無によって「松の影」が移ろう点です。これに対して、「マクドナルドのM」は停電しないかぎり変化しません。それは、都市の記号として赤い電光を放ち続け、街々に点在しています。ところで、句集には「月探す表参道交差点」があります。これをふまえて掲句を読むと、「名月」は、あらかじめ作者の心の中に存在していただろうと思われます。その心象が現実を引き寄せて、都市の記号M上に、確かに出現しました。それは、Meigetsuと呼応しています。『雪螢』(2008)所収。(小笠原高志)


September 0592015

 星月夜縄文土器にある指紋

                           矢野玲奈

供の頃屋根の上に寝転がっていつまでも星を見ていた夜、当時言葉は知らなかったがまさにあれが星月夜だった。星は、自分で輝いているもの、そうでないもの、今生きているもの、とっくに消えてしまったもの、とさまざまでありそんな夜は、無数に散りばめられた星という光の不思議な力に満ちていた。月への親しさとは異なり星には、ことに満天の星空には憧れや畏れや様々な感情が湧きおこる。隈なく照らしているようでいて幻想的な星明りのもとにある縄文土器を想像してみると、数千年かそれ以上前のヒトの指の跡がそこにあるという明瞭な真実に、時間というどこか不確かなものが見え隠れして星空への不安と呼応する。そんな美しいだけではない独特の星月夜の詩情がある一句だ。『森を離れて』(2015)所収。(今井肖子)




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