どこかゆるい感じの準戦時体制。当方の平和ボケなのか。(哲




2015ソスN8ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2282015

 桔梗の蕾の中は砂嵐

                           冬野 虹

角形の鋭角を見せながらふっくらと閉じている桔梗の蕾。花弁が重なり合って文字通りつぼんでいる多くの他の花の蕾とは違い、桔梗の蕾の中には明らかに空間が存在する。咲けば消えてしまうその閉ざされた空間に、宇宙のような無限を感じるというのならありがちな発想かもしれないが、砂嵐、と言われるとふと立ち止まってしまう。砂嵐でまず頭に浮かんだのはなぜか本物の砂の嵐ではなく、アナログテレビから出ていたいわゆるスノーノイズと呼ばれるものだった。あの無機質でモノクロの世界に続いている単調な雑音にしても、本当の砂嵐の混沌にしても、ぽん、と花が咲いた瞬間に消え去り、そこには凛とした桔梗の姿が生まれるのだ。『冬の虹作品集成』第一巻『雪予報』(2015)所収。(今井肖子)


August 2182015

 羽抜鶏走れ痛いの痛いの飛んで行け

                           正木海彦

になると多くの鳥は冬羽から夏羽へと抜け替わる。この頃の抜けた後羽のまだ整わない鶏が羽抜け鶏。時期は種類により異なる。鴨や雁は秋口になって風切羽や尾羽も完全に抜け替わる。夏場、とりわけ鶏などは暫しのあいだ威厳を無くした滑稽な姿を晒すことになる。元々飛べるはずも無い鶏が赤い素肌を露出して地面を走っている。おお痛そうとは思うが、鶏冠の色まで艶がうせてしょぼしょぼ歩く姿にどこか頬笑みたくなってしまう。滑稽とはいえ第三者である人間から見ればその痛た痛さには思わず幼児言葉で呟いてしまうのだ。他に堀越せい子氏の<眼光はピカソのごとし羽抜鶏>加藤富美子氏の<羽抜鶏なほも律儀に産卵す>成田照男氏の<羽抜鶏男は無口通しけり>などなどあり。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(藤嶋 務)


August 2082015

 金魚泳ぐ一本の茎となるまで

                           松本恭子

魚鉢の金魚が丸い金魚玉の側面に沿ってくるくる同じところを回っている。作者の目には同じところを回る金魚がらせん状に巻き上がって柔らかい緑の茎になっていくように思えたのだろう。句の背後には狭い水に閉じ込められて回転している金魚への哀れみが感じられる。木ではなく茎としたのは水槽にゆらぐ藻の色、金魚の柔らかさが映し出されているのだろう。茎となりその先端からはこぼれるように赤い花が開くかもしれない。詩的な隠喩は言葉を視覚的なイメージに昇華させ今まで見たこともない像を描き出す。「胸濡らす中国民謡黒金魚」この句集に収められている金魚の句は鑑賞の対象ではなく、作者の情感と深く結びついている。金魚を見つめる目は同時に自分の内部へ向けられ夢幻の世界に泳ぐ金魚そのものになっているのだ。『花陰』(2015)所収。(三宅やよい)




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