August 212015
羽抜鶏走れ痛いの痛いの飛んで行け
正木海彦
夏になると多くの鳥は冬羽から夏羽へと抜け替わる。この頃の抜けた後羽のまだ整わない鶏が羽抜け鶏。時期は種類により異なる。鴨や雁は秋口になって風切羽や尾羽も完全に抜け替わる。夏場、とりわけ鶏などは暫しのあいだ威厳を無くした滑稽な姿を晒すことになる。元々飛べるはずも無い鶏が赤い素肌を露出して地面を走っている。おお痛そうとは思うが、鶏冠の色まで艶がうせてしょぼしょぼ歩く姿にどこか頬笑みたくなってしまう。滑稽とはいえ第三者である人間から見ればその痛た痛さには思わず幼児言葉で呟いてしまうのだ。他に堀越せい子氏の<眼光はピカソのごとし羽抜鶏>加藤富美子氏の<羽抜鶏なほも律儀に産卵す>成田照男氏の<羽抜鶏男は無口通しけり>などなどあり。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(藤嶋 務)
August 202015
金魚泳ぐ一本の茎となるまで
松本恭子
金魚鉢の金魚が丸い金魚玉の側面に沿ってくるくる同じところを回っている。作者の目には同じところを回る金魚がらせん状に巻き上がって柔らかい緑の茎になっていくように思えたのだろう。句の背後には狭い水に閉じ込められて回転している金魚への哀れみが感じられる。木ではなく茎としたのは水槽にゆらぐ藻の色、金魚の柔らかさが映し出されているのだろう。茎となりその先端からはこぼれるように赤い花が開くかもしれない。詩的な隠喩は言葉を視覚的なイメージに昇華させ今まで見たこともない像を描き出す。「胸濡らす中国民謡黒金魚」この句集に収められている金魚の句は鑑賞の対象ではなく、作者の情感と深く結びついている。金魚を見つめる目は同時に自分の内部へ向けられ夢幻の世界に泳ぐ金魚そのものになっているのだ。『花陰』(2015)所収。(三宅やよい)
August 192015
一寸一寸帯解いてゆく梨の皮
加藤 武
静かな秋の夜だろうか。皮をむくかすかな音だけを残して、初秋の味覚梨の実が裸にされてゆく。一寸(ちょっと)ずつ帯を解くごとくむかれてゆく、それを追うまなざしがやさしくもあやしい。それは梨の皮をむくことで、白くてみずみずしい実があらわになってゆく実景かもしれないし、あるいは“別の実景”なのかもしれない。皮が途中で切れることなく器用に連続してむかれてゆく果物の皮、いつもジッと見とれずにはいられない。それが実際に梨の実であれ、林檎であれ何であれ、その実はおいしいに決まっている。7月31日にスポーツ・ジムで急逝した加藤武、とても好きな役者だった。映画「釣りバカ日誌」での愛すべき専務役はトボケていて、いつも笑わせてくれたし、金田一耕助シリーズでの「わかった!」と早合点する警部役も忘れがたい。「加藤武 語りの世界」という舞台も時々やっていた。私は見そこなってしまったが、7月19日にお江戸日本橋亭での「語りの世界」が観客を前にした最後の公演となったようだ。残念! 東京やなぎ句会のメンバーも、近年、小沢昭一、桂米朝、入船亭扇橋、そして加藤武が亡くなって寂しくなってきた。武(俳号:阿吽)には、他に「一声を名残に蝉落つ秋暑かな」がある。『楽し句も、苦し句もあり、五七五』(2011)所載。(八木忠栄)
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