「原発ゼロ」二年で終幕。後は大きな危険としょぼいおこぼれ。(哲




2015ソスN8ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1282015

 蝉鳴くや隣の謡きるゝ時

                           二葉亭四迷

つて真夏に山形県の立石寺を訪れたとき、蝉が天を覆うがごとくうるさく鳴いていた。芭蕉の句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」どころか、岩を転がし砕かんばかりの圧倒的な声に驚嘆したことが忘れられない。ごく最近、海に近い拙宅で一回だけうるさく鳴く蝉の声で、早朝目覚めたことがあった。幸い天変地異は起こらなかったが、いつからか気象は狂ってしまっているらしい。掲出句の蝉は複数鳴いているわけではあるまい。隣家で謡(うたい)の稽古をしているが、あまりうまくはない。その声が稽古中にふと途切れたとき、「出番です」と誘われたごとく一匹の蝉がやおら鳴き出した。あるいは謡の最中、蝉の声はかき消されていたか。そうも解釈できる。「きるゝ時」だから、つっかえたりしているのだろう。意地悪くさらに言うならば、謡の主より蝉のほうがいい声で鳴いていると受け止めたい。そう解釈すれば、暑い午後の時間がいくぶん愉快に感じられるではないか。徳川夢声には「ソ連宣戦はたと止みたる蝉時雨」という傑作がある。四迷には他に「暗き方に艶なる声す夕涼」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1182015

 鶏頭の俄かに声を漏らしけり

                           曾根 毅

には植物というより、生きものに近いような存在感を持つものがある。鶏頭もそのひとつ。花の肌合いが生きものそのものといった感じもあり、個人的には少々苦手。生命力も旺盛な花で、真夏の暑さでもぐんぐん成長し、直射日光の下で深紅や黄色の鮮やかな花を付ける。その鶏頭が声を漏らすという。「俄かに」とは、急に、だしぬけに、という意味。同句集が東日本大震災の作品が多く収められているということを踏まえると、掲句は強靭な鶏頭が見た惨状への声と思わせる。鶏頭が生きものめいているだけに声を持つことに一瞬なんの躊躇もなかったが、それはいかにも不気味で禍々しい。作者は四十歳未満であることが応募資格の第4回芝不器男俳句新人賞受賞。震災ののちの現状を平素の景色のなかで詠む。副賞が句集上梓というのも若い俳人へのエールにふさわしい。〈滝おちてこの世のものとなりにけり〉〈桐一葉ここにもマイクロシーベルト〉『花修』(2015)所収。(土肥あき子)


August 1082015

 青梅や昔どこにも子がをりし

                           甲斐羊子

しかに、子供の姿をあまり見かけなくなった。全国的な少子化という客観的な裏づけもあるけれど、昔のように子供らの遊び場が一定しなくなったせいもあるだろう。昔は、子供らの集まる場所はほぼ決まっていた。青梅など実のなる木の周辺なども、その一つだった。餓えていたころには、食べられるものがどんな季節にどこにあるのか。恐ろしいほどに、よく知っていたっけ。しかし飢餓の時代であっても、青梅を口にすることは親から禁じられていた。中毒をおこすので、厳禁だという。しかし子供らは、そんなことに頓着はしない。中毒よりも満腹である。そんな子供らと親とのせめぎあいが長くつづけられている間に、気がつけば世の中は掲句の世界へと移ってしまっていた。青梅か、あんまり美味しいものじゃなかったな。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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